そうだな、きみ
よく考えてみたらいい
ひとは大好きなものを語るだろうか
大好きになりかかったものは語るかもしれない
かつて大好きだったものがそうでなくなりつつあるとき
その場合も語るかもしれない
カール・リヒターとメランコリーとはそういうことさ
ある特定の町に住み慣れてきた人が、もしどこか別の場所に引っ越さなくてはならなくなったら、当然、新しい環境に投げ出されることを考えて、悲しくなるだろう。だが、いったい何が彼を悲しませるのか。それは長年住み慣れた場所を去ることそれ自体ではなく、その場所への愛着を失うという、もっとずっと小さな不安である。私を悲しませるのは、自分は遅かれ早かれ、自分でも気づかないうちに新しい環境に適応し、現在は自分にとってとても大事な場所を忘れ、その場所から忘れられるという、忍び寄ってくる意識である。要するに、私を悲しませるのは、私は現在の家に対する欲望を失うだろうという意識である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)
最近のほかの指揮者のものも悪くない
かつて熱狂したリヒターへの排他的な愛を失うかもしれないという
忍び寄ってくる意識ってことを言外ににおわせたのだが
通じなかったようだな
欲望を失うことを否定するために
あるいは縋りつくように
これがメランコリーってことさ
そうでなければ書かないよ
「リヒターが大好きなんですね」なんて誤解しちゃあいけない
まあ誤解もいいさ、たんなるメモだよ、表層的には
だいたいなになにが大好きとか、これこれが愛読書、愛聴版などと書くかい?
いまもっとも大切なものを
オレはプルーストやロラン・バルトが愛読書などとは
間違っても書かないね
長いこと、バルトについて語ることを自粛していた。パリ街頭での自動車事故で呆気なく他界してから、その名前を主語とする文章をあえて書くまいとしてきたのである。いきなり視界にうがたれた不在を前にしての当惑というより、彼自身の死をその言葉にふさわしい領域への越境として羨むかのような文書を綴ったのが一九八〇年のことだから、もう二五年の余も、バルトを論じることなくすごしていたことになる。とはいえ、その抑制はあくまで書くことの水準にとどまり、バルトを読むことの意欲が衰えたことなどあろうはずもない。(蓮實重彦「ロラン・バルトとフィクションーー『彼自身によるロラン・バルト』を《リメイク》する試み」)
長いこと、で始まるのに注意しておこう
バルトへのオマージュであるとともに
バルトが愛したプルーストの小説へのオマージュさ
《長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。》(冒頭)
《……際限もなくのびひろがった一つの場所を占めることになるのだ、
――時のなかに。》(結句)
すくなくともオレはそう読むね
そして愛し続けているなら《リメイク》する試みしかないんじゃないか
そして愛し続けているなら《リメイク》する試みしかないんじゃないか
たとえば食事の写真をSNSに貼り付ける連中がいるが
退屈している証拠だね
旨いものを食う前やら最中にそれをひとに知らせるかい?
せいぜい散歩用の食事だな、そんなことをするのは
「まあ二つの可能性のうち、どちらかをきみが選ぶことになったと考えてみてくれたまえ。ブリジット・バルドーとかグレタ・ガルボのような、世界的に有名な美人と、誰にも絶対に知られないということだけ条件にして、愛の一夜を過ごすか、それとも絶対に寝ないということだけ条件にして、彼女の肩に腕をまわして、きみの生まれ故郷の目抜き通りを一緒に散歩するか。ぼくはだね、それぞれの可能性を選ぶ人間の正確なパーセンテージを知りたいんだ。それには、どうしても統計的な方法が要求される。そこで世論調査事務所にいくつか当ってみたんだが、応じてもらえなかったよ」(クンデラ『不滅』第七部「祝宴」)
それ以外に「わたしは~が大好きです」ってのは
私のことを見て!、ってこともあるがね
その内容でなく、メタ-言語的位置を見るならさ
《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク)
寂しがりやのおねだりちゃんの発話だな
Je-t-aime (わたしは・あなたを・愛しています)に対し、社交的にはいろいろな答えがあろう。「わたしは愛していません」、「信じられません」、「どうしてそんなことを…」等々。しかし、本当の棄却は「お返事はありません」なのである。そのときわたしは、単に好意を懇願する者としてだけではなく、話す主体(少なくとも決まり文句は操作できている)としてまでも斥けられ、そのことで確実に無力化されるのだ。(……)
そこからJe-t-aimeについての新しい見方が出てくる。それは […]行動であるのだ。わたしが発語するのは、あなたに答えさせるためなのだ。[…] 重要なのは、語の物理的、肉体的、唇音的発語行為である。きみよ、唇を開きたまえ、そこから語が出てきて欲しい […]。わたしが熱烈に望んでいるのは、語を獲得することなのだ。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』)
語を獲得すること
すなわち反応をおねだりしているってことさ
まあひとは「大好き」でなくても、「愛してる」でなくてもいいさ
ただそう語られたときは、大好きでも愛しているのでもないことがほとんど
あるいはその対象に満ち足りていないことだけは確かじゃないかい?
充足とは語られざるものである。だからこそ、恋愛関係は長い嘆きにつくるなどと、誤って考えられることになるのだ。不幸をあしざまに語ることが無分別であるというのなら、しあわせのあらわれをそこなうこともまた、とがめられてしかるべきであろう。自我は傷つけられてはじめて語るものなのだ。現に充たされているとき、充たされた過去を思い出しているとき、わたしの眼には言語が無力と映る。わたしは言語の外に運び出される。ありふれたもの、一般的なものの外へと運び出されるのだ。(バルト 同上)
きみの「わたしも大好き」ってのはおねだりなんだろうな
70年以降のロラン・バルトが「大好き」なら
けっして「大好き」とは書かないはずだがね
《私の好きなもの、好きではないもの》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない》。というわけで、好き嫌いを集め たこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎 の形象である。ここに、身体による威嚇が始まる。すなわち他人に対して、《自由主義的に》寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。(『彼自身によるロラン・バルト』)
語を獲得したいのかい?
きいた風なことを言うのには飽きちゃったよ
印刷機相手のおしゃべりも御免さ
幽霊でもいいから前に座っていてほしいよ
いちいち返事されるのもうるさいけど
ーー谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」5番より
結婚おめでとう、しあわせに
誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分されるであろう。
第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別なことばでいえば、大衆の視線に憧れる。これはドイツの歌手、アメリカの女優、それにまた、大きなあごをした編集者のケースである。彼は自分の読者に慣れており、ある日ロシア人が彼の週刊誌を廃止したとき、百倍も薄い大気の中に残されたように感じた。何人〔なんびと〕も、知らない人びとの目という視線を彼におぎなってやることはできなかった。彼は息がつまるように思えた。するとある日のこと、たえず警察につけられ、電話が盗聴され、それどころか路上で密かに写真を撮られていることに気がついた。無名の目が突然いたるところで彼と共にあり、彼はふたたび息をふきかえすことができた。幸福になった! 壁に仕込まれたマイクに芝居のせりふのように話しかけた。警察の中に失われた大衆を見出したのである。
第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。このことは第一のカテゴリーの人たちのほとんどすべてに遅かれ早かれ一度はおこる。それに反して第二のカテゴリーの人はそのような視線をいつでも見つけ出す。ここにマリー・クロードとその娘が入る。
次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。この人たちの中にテレザとトマーシュが入る。
そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。例えば、フランツ。彼はただサビナのためにのみカンボジア国境まで歩を運んでいる。バスはタイの道路をがたがたと走り、フランツは彼のことをじっと見ているサビナの長い視線を感ずるのである。
その同じカテゴリーにトマーシュの息子も入る。彼をシモンと呼ぼう(父と同じく、聖書にある名を与えられて嬉しいであろう)。憧れを抱く目はトマーシュの目である。署名運動にまき込まれた後、彼は大学からほうり出された。彼がつき合っていた娘は田舎の司祭の姪であった。彼女と結婚し、集団農場のトラクター運転手、カトリック信者、父親になった。そのあと誰からか、トマーシュも田舎に住んでいることをきき、喜んだ。運命が二人の人生をつり合いのとれた道へと導いた! このことが、トマーシュへ手紙を書かせる勇気を与えた。返事は要求しなかった。ただトマーシュが視線を彼の人生にあてることだけを欲した。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』 P310-312)