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2013年9月2日月曜日

日本語と下からの目線

「~って、どうなんでしょう」
「~って、~じゃないですか」
「~って、~ですよね」

あるいは、「~なんですよね」、「そうでしょうね」、「かもしれないですね」、等々、相手にそれとなく同調を迫り、相手を自分のペースに巻き込んで、うやむやのうちに同調させようという圧力を持つ語尾表現というものがある。

オレは寒いぼ立つんだな
このたぐいの表現で絡まれると
いや絡まれなくても眺めただけでもだな
きみたちは平気なのかね

(オレの長い海外住いが、
居心地の悪さを感じる原因のひとつであるのは自覚しているよ)

「上からの目線」じゃなくて
「下からの目線」のつもりなんだろうがね
葛藤を避けて偽の安堵感を共有するってわけかい?

そもそも「下からの目線」というのは覗きだからな
からみついてくるんだよな、湿った瞳が
なにを覗くのかはいろいろあるがね

ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)

日本語ってのは、とくにその会話文は、本質的に「敬語的」で、対等の表現が難しいのであるなら、上からの目線のほうがまだましさ


谷川俊太郎の「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」って詩は、語尾にとてつもない工夫があって、なんとか日本語の発話文で、上からでもなく下からでもなく、対等にしようという稀有な挑戦だな。

過去をふり返るとめまいがするよ
人間があんまりいろいろ考えるんで
正直言ってめんどくさいよ
そのくせい自分じゃ何ひとつ考えられない
ぼくは自分を鉛筆の落ちた音のように感ずる
カチャンコロコロ……
過去がないから未来もない音だね

それでとーー
ちょっともう続けようがないなこの先は(谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」)
ーー「一九七二年五月某夜、なかば即興的に鉛筆書き」だそうで、この調子のが十四篇あるんだけどね。しかも十四番目だけが、です調で書かれている。



上からの目線ってのは、小羊くんたちにとってリンチが怖いんだろうな

・「ドヤ顔」だとか「上から目線」みたいな言葉が、あっという間に市民権を得たのは、2010年代の日本人が、雁首を揃えて出る杭を打ちたがるモードの人間になっているからだと思います。

・今月の「新潮45」にも書いたけど、「ドヤ顔」「上から目線」がきらわれる理由は、21世紀の主要な時代思潮が嫉妬(ねたみそねみひがみやっかみ)になっているからだということです。

・ 個人的にはネットによってリンチ言論が可視化されからだと考えています。(小田嶋隆ツイート)



いまさらヴァレリーみたいにややこしいことはいわないさ、
《急いでいて何を食べているのかもわからずにいる人が食べたり飲みこんだりするような調子で、文句を無意識に書くのでない人が作家》

反射的・反応的に書かれた文ってのは、読み手側からしたらそれなりに楽しみがあるからな

夢でなくても、いい直しで削除された箇所ってのは、その人物の、そのときの考えの臍だろうからね

いや、そういう錯覚に閉じこもることがときには出来るとだけしておこう。

私は患者相手の夢分析にさいして、つぎのようなことをやってみるのがつねであるが、これは必ず成功している。すなわちある夢の報告が最初どうもわかりにくいような場合には、私は相手にその夢の報告をもう一度繰返させる。すると二度目の報告が最初の報告と同じ文句で行われることはまずまずないといってもいい。二度目の報告にさいして文句の変更された箇所こそは、夢の偽装の成功しなかった箇所なのである。つまりそういう箇所は私にとっては、ニーベルンゲン伝説中のハーゲンにとって、ジークフィリートの着物の背中に縫いつけられた目印のような意味を持つのである。そういう箇所から夢判断を開始すればいいのである。相手は、私の(もう一度話してみてくれという)要求によって、私がその夢解きに特別の努力をしようとしているのだと気づいて、抵抗衝動の下に、夢偽装の手薄な箇所を、私から怪しまれるような粗漏な言い回しではなしに、もっとさりげない巧妙な言い回しに変えることによって急いで補強しようとする。その結果かえって私をして、彼らが削りとったその言い回しに注意させるようなことになってしまうのである。夢の解釈を阻止しようとするその努力から、その夢の本音を包み隠す着物を織り上げたさいの慎重さも推知されるのである。(フロイト『夢判断』)

まあなんでもいいが
それなりに聡明なはずのインテリくんたちよ
「~なんですよね」、「そうでしょうね」、「かもしれないですね」
などと呟いてばかりおらずに
日本語を救えよ


この二一世紀の言語的抑圧は言語の恐ろしい単純化である。もはやわれわれは書いていない。つついているのである。携帯電話によるメールをみよ。書字とワープロの相違は書き文字とタイプライターの相違である。書字との間にはまだ往復性がある。(中略)コンピュータ以後はこの往復はない。携帯電話に至っては、これは肉体をほとんど失ってほとんど骨まで単純化された形での、会話言語への一種の回帰である。》(中井久夫「言語と文字の起源について」「図書」2009年1月号

…………


《日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上に、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。》(森有正全集12 P86-87 )

言語は集団的なものです。だから、個人は言語の習得を通して、集団的な経験を継承するということができる。つまり、言語の経験から出発すれば、集団心理学と個人心理学の関係という厄介な問題を免れるのです。ラカンは、人が言語を習得することを、ある決定的な飛躍として、つまり、「象徴界」に入ることとしてとらえました。その場合、言語が集団的な経験であり、過去から連綿と受け継がれているとすれば、個人に、集団的なものが存在するということができます。

このことは、たとえば、日本人あるいは日本文化の特性を見ようとする場合、それを意識あるいは観念のレベルではなく、言語的なレベルで見ればよい、ということを示唆します。(柄谷行人「日本精神分析再考(講演)(2008)」)


《日本語を見ておりますと、日本語で何か言うわけです。「私は生徒です」とか「これは本です」とか言っているわけですが、よく考えて見ますと、「です」というのはいったい何だろうか。「です」というのは話しことばですから「私」しかそれを言わない。あなたがそれを言う時にそれを私から見る場合に「です」と言うのはぜんぜん意味をなさないわけでしょう。「これは時計です」というのは、私が時計ですということを言うわけです。と同時に「です」の中に「あなた」が入っている。もし、目の前に非常に偉い、白いひげの生えたおじいさんが来たら、「これは時計でございます」と無意識に言ってしまう。それから前に弟とか息子が出てくると、「これは時計だ」と言うわけでしょう。すると「です」とか「でございます」とか「だ」とことになっている。(……)これは一人称的な性格を持っていると同時に、二人称の如何がそれに影響しているわけです。ですから、「だ」とか「です」とか「ございます」とかいう、いわゆる敬語というものは(……)実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。(……)


だから何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。(……)私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです」》(森有正「経験と思想」1974)


前島密がまず「ツカマツル」や「ゴザル」といった語尾を問題にしたことに注意すべきである。「言文一致」が当初からまるで語尾の問題であるかのようになっていったのは、日本語の性質からくる必然だった。日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記がいうように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。この場合、前島は「ツカマツル」とか「ゴザル」を用いるように提言しているが、それは武士という身分またはそのような「関係」と切りはなすことはできない。(……)

二葉亭四迷は「敬語なし」の「だ調」を試みたというが、「だ」はやはり相手に対する関係を示しているのだから、広義の“敬語”であることにかわりはない。われわれが話し言葉で「だ」を用いるとき、ふつう同格まはた目下の者との関係においてである。「です」であっても、「だ」であっても、本当は同じことで、関係を超越したニュートラルな表現ではない。にもかかわらず、「だ」調が支配的になっていったのは、それがいわば「敬語なし」に近くみえたからだと思われる。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』所収)


《……いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。》(中井久夫「日本語の対話性」2002初出 『時のしずく』所収)


日本語の敬語もよく考えると単に丁寧さの程度だけではない。われわれは同じ対象に向って「です、ます」調で講演し、「である」調で文を綴る。

「です、ます」調が講演や会話で選ばれるのは、接続がやさしいからである。実際、「です」「ございます」は、文から独立して、喚起的な間投詞(というのであろうか)として使用されている。「あのですね、実はですね、昨日のことでございますが、あのう、お電話をさしあげたんですがね、いらっしゃいませんでしたですね。それでですね……」。こういう用法は、顔が見えない電話での会話で頻用される。

「である」にこの作用をもたせると、政治演説になる。「のであるんである」は政治家の演説を嘲笑するのに恰好である。しかし、予想外に多くの批評家の文に「のである」の頻用を発見する。「だ」の間投詞的用法は某政治家が愛用して「それでだ、日本はだ、再軍備してだ……」とやっていたが、「突っぱねるような調子」と批評され、不人気の一因となった。

「のである」を、私は「ここで一度立ち止まっていままでの立論を振り返れ」というしるしと見る。どうしてもなくてはかなわぬ場合以外に使用すると相手をむやみに立ち止まらせ、相手の頭にこちらの考えを押し込もうとする印象の文になり。品が下る。

「です、ます」調で書かれた文は、相手にそれとなく同調を迫り、相手を自分のペースに巻き込んで、うやむやのうちに同調させようという圧力を持つと私は思う。「です、ます」調の文に対しては批評意識が働かせにくい。京都学派がかつて頻用した「なかろうか」にも同じ傷害を感じる。

日本文の弱点は語尾が単調になることで、語尾を豊かにしようと誰も苦心するはずだ。動詞で終ることを多くする。体言止めにする。時に倒置法を使う。いずれもわるくない工夫である。(中井久夫「日本語を書く」1985初出『記憶の肖像』所収)




…………

附記:

時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知って雷に打たれたごとく感じた)。「行く」という行為、「美しい」という形容が同心円の中心にある。対人関係や前後の事情によって「誰が?」「どこへ?」「何が?」「どのように?」が明確にされていない時にのみ、これを明言する。(中井久夫「一つの日本語観」『記憶の肖像』所収)







続けて、《どの言語でも、発話には、既知部分(known message)と未知部分(New message)を含む。日本語は「主語」がないのではなく、それが既知メッセージである場合には省略するか、「は」を使用することが多い。「が」は新規メッセージである場合に使用することが多い。他に色々な「補語」も、状況や対人関係に応じて省略する》、と。ただ、一つの言語における未知部分と既知部分の比はほぼ一定であり、この比が最大であるのは日本語であるとする、さる英語学者の見解を付記しつつ、《「時枝の風呂敷」を最大限に使用するのは特別の場合だけであり、既知を共有するに従って風呂敷はどんどん廃棄される》とする。すなわち「述語」のみになるということだ。

とにかく述語が中心にしっかりあればよいというのが日本語の構造であろう。「あとは何を言うか言わないかは、主に対人関係、ひろくは状況の関数である」というと、多くの欧米人は納得する。(同上)

…………

※参照

私は、「日本人」において「経験」は複数を、更に端的には二人の人間(あるいはその関係)を定義する、と言った。(……)二人の人間を定義するということは、我々の経験と呼ぶものが、自分一個の経験にまで分析されえない、ということである。(……)肉体的に見る限り、一人一人の人間は離れている。常識的にはそこに一人の主体、すなわち自己というものを考えようとする誘惑を感ずるが、事態はそのように簡単ではない。(……)本質的な点だけに限っていうと、「日本人」においては、「汝」に対立するものは「我」ではないということ、対立するものも相手にとっての「汝」なのだ、ということである。(……)親子の場合をとってみると、親を「汝」として取ると、子が「我」であるのは自明のことのように思われる。しかし、それはそうではない。子は自分の中に存在の根拠をもつ「我」ではなく、当面「汝」である親の「汝」として自分を経験しているのである。(……)肯定的であるか、否定的であるかに関係なく、凡ては「我と汝」とではなく、「汝と汝」との関係に推移するのである。(森全集12 P64-65) 

……相互篏入性とは、関係が対等者間の水平な関係ではなく、上下的な垂直的な関係だという点である。(……)親子、上役と下のもの、先生と生徒、師匠と弟子、など一定の社会秩序を内容とするものである。(……)したがって、二項関係の直接性は、本当の直接性、すなわち独立の個人の間の接触ではなく、すでにある限定を受けた者同士が、その限定の框の中で、その限定そのものを内容として起る直接性なのである。(森全集12 P74-75)


《夫人同伴でパリ滞在中の高田氏(彫刻家高田博厚:引用者)を訪れる。ソルボンヌ広場で一緒に昼食。

僕はある種の態度に我慢できない。自分が三人称になれないこと、そして話し相手が三人称になることを認められないこと。換言するなら、話し相手と相互に二人称の関係に入り、融合してしまい、自分自身及び話し相手が主観性を取り戻すことを認められないこと、このような態度が僕には我慢できない。

次の二つの態度を分つ本質的な相違について。一人称で話すこと、一人称で話すことは話すのだが一人称を二人称の中に流し込んで話すこと。》(森全集14  P162


 ーー森有正は、もし高田氏とフランス語で話せば、そういうことはないだろう、と語っている。




※追記:上に引用された中井久夫の文のほぼ同様の叙述

日本語にはーーどの言語にでもーー「改まり -くだけ方」の水準がいくつかある。「である」「です・ます」「だ」調はそのもっとも大まかなものである。そのどれを使うかはアイドリングをしているうちにおのずと決まる。むろん、後に訂正することもある。きまらなければ、「です」で書き流して、後に改める。「です」調は論理を追うことを曖昧にして、なし崩しに意見への同調を迫る嫌いがある。私はあまり使いたくないが、講演速記ではやむをえないこともある。しかし、講演速記でも、初めと最後のパラグラフだけを「ですます」調に残して後は「である」調に変えることもある。これは「講演ですよ」という記号を全文の前と後に引用符のように付けているのである。「だろう」はなるべく少なくする。「でなかろうか」は慇懃無礼である。京都学派の「なければならない」は強要である。「であるまいか」のほうがましである。

もっとも、私は「ではないか」を外国語の直叙文の翻訳に使用することがある。内容が強調的な時である。日本語の欠点の一つは文末の単調さにあるからである。「ではないか」は「ある!!」ということである。

逆に、ふつう強調に使われる「のだ」は「ここで立ち止まってもう一度これまでの展開を振り返って下さい」という記号としてしか用いない。「のだ」の多い文章は、自分でも自信が持てないのを覆い隠そうとして、まず自分に一所懸命言い聞かせているという印象を持つ。「いかかがものであろうか」は政治家が頻繁に使うようになってから使わないようにしている。(中井久夫「執筆過程の生理学」『家族の深淵』所収 p366)



かつて中村光夫などの例外はあるが(小林秀雄などの「である」調への抵抗だったのだろう)、今のよい子は、「です・ます」調はやめとけ! ネット上に腐るほどあるのだから。   

わが国が歴史時代に踏入った時期 は、必ずしも古くありませんが、二千年ちかくのあいだ、外国から全面 的な侵略や永続する征服をうけたことは、此度の敗戦まで一度もなかっ たためか、民族の生活の連続性、一貫性では、他に比類を見ないようで す。アジアやヨーロッパ大陸の多くの国々に見られるように、異なった 宗教を持つ異民族が新たな征服者として或る時期からその国の歴史と文 化を全く別物にしてしまうような変動は見られなかったので、源平の合戦も、応仁の乱も、みな同じ言葉を話す人間同士の争いです。 (中村光夫『知識階級』