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2013年9月21日土曜日

9月21日

ははあ
第233回 3つのオーガズム(代々木忠)

(1)小さなオーガズム
(2)中くらいのオーガズム
(3)大きなオーガズム


僕が真のオーガズムと呼ぶのは3番目の「大きなオーガズム」だけである。とはいえ、この30数年間で延べ1000人近くの女性たちを撮ってきたけれど、大きなオーガズムを体験した人は10人にも満たない。

…………


昨日の続き(真実の仮面による欺瞞)。

人間だけは真理そのものを使って騙すことができる。動物は、自分とは違うものであるふりをしたり、自分がやろうとしているのとは違うことをやろうとしているふりをすることはできるが、嘘だと受け取られるだろうと予想して真理を述べ、それによって騙すことができるのは人間だけだ。人間だけは騙すふりをして騙すことができるのだ。(ジジェク『斜めから見る』p141)


「オレはAVはおくてでね、三十過ぎになってはじめてみたんだよ。もっとも日活ロマンポルノは二十前後にお世話になったけど」





「代々木忠のAVだけだね、みたのは。一時期かなりまとめてみたな、「ザ・面接」シリーズだね、お気に入りだったのは」



 




前回のブログで新田が指摘したように、僕の本能には傷がついていて、成熟していないのだと思う。幼児体験もそうだけれど、そればかりではなく、僕はずっとそういう人生を歩んできている。

 生まれ故郷の九州にいるとき、ろくに学校にも行っていない。中学の頃からどうにもならなかったし、入った高校は退学になり、それから定時制に通った。でも、勉強が頭に入ってこない。苦痛なのだ。それよりも生きることに、僕は切羽詰まっていた。

 学歴がないので、就職はまともにできない。大阪の花屋に入ったときには、まだ奉公という概念が残っている時代だったから、住み込みで使ってもらった。いずれにしても、選択肢が非常に狭かったのは事実だ。

 その後も生きていくなかで、みんなが当たり前に暮らしている社会へ入っていきたくても、僕にはそのパスポートがない。社会で生きていく術がない。仲間に入れてほしくても、入れてもらえない。
 1972年から始まった「日活ロマンポルノ裁判」のときにも、攻撃は僕に集中した。学歴もなく元極道だから、検察側もいちばん攻めやすいと思ったはずである。

 今この仕事をやっていても、それを感じる。AVだからという社会的な差別。たとえば事務所ひとつ決めるのにも、なかなか貸してはもらえない。ビルは空いているのに、いざ契約の段になって、AVメーカーだからと断られる。

 社会に入っていけなかったのは、小指がないという事情もある。小指がないことがわかると、その場の空気が変わるのである。それがたまらなくイヤだった。

 たとえば、むかしゴルフを始めようと思って、ゴルフ練習場でコーチについて教えてもらうことにした。最初はふつうに接してくれるのだが、「こっちの小指を絡ませて」と言って僕の小指を見た途端、いきなり寡黙になり空気が変わる。一事が万事そんな具合で、数え上げればキリがない。小指をつめたのは27歳のときだった。

 だから僕はいつの間にか、できるだけ人前に出ないようになっていった。東京には幼なじみもいない。極道をしていた頃の友達も、個人的にはいいのだが、彼の背後には彼の思惑とはまったく違った社会があり、しかもそっちの力は強いので、何が起きるかわからない。

 そういう意味では、僕はヤクザにもカタギにも、どちらにも入れなかった男なのかもしれない。ヤクザの世界では生きられない。でも、カタギの世界でも受け入れてもらえない。僕は表と裏の間にあるわずかな皮膜の部分で生きるしかなかったように思う。

 それでも、どうにかこうにかやってこられたのは、自分の中にある負けん気のおかげだろうか。追い込まれたときに、自分の中から何かが出てくるような気がする。逆に言えば、僕は追い込まれないと本当の力が出てこない人間なのかとも思う。

 日活ロマンポルノ裁判でも、いちばん簡単に落とせそうな僕が落ちなかったのは、検察も計算違いだっただろう。9年にもおよんだこの裁判は、高裁が無罪判決を出したことにより、検察側の敗訴という形で幕を閉じた。

 追い込まれないと、という意味では、アダルトの現場でもコンテなどを立てたら絶対にダメなのだ。なんの用意もなく現場に行って、相手と本当に向き合えるかどうかが僕の勝負である。

 たとえばでも、この子は平本君とやらしたらいいとか、これは銀次だなぁとかっていう思いもないわけではないが、それをあえてしない。「ザ・面接」シリーズは、男優たちの出る順番を決めるクジ引きから始まるが、あれにはそういう意味がある。

 プロデューサー面接で女の子のプロフィールや特徴といったデータは、男優も事前に読んでいる。男優たちは自分の引き出しを持っているから、その気になれば自分の中でどう対応するかの準備というかプランができてしまう。でも、それじゃあ面白くない。だから僕は、誰がどの子とあたるかわからないクジ引きという方法を取る。

 余談だが、うちのプロデューサーですら、あの冒頭にやるクジ引きは、あらかじめ順番だけ決めておいて、表向きだけクジ引きの風景を撮っていると思っていたようだ。男優が忘年会でクジ引きの思い出話をしたとき、「え? あれホントにやってるの?」とプロデューサーは驚いていた。

 こういう時代だから、今このブログを読んでくれている人のなかにも、大変な思いをしている人は少なからずいることだろう。でも、僕のような人間でも、きょうまで生きてこられたのだ。人生どうにかなるものである。(第8回 表社会と裏社会の狭間



ーー鈴木清順作品上映会に日活がフィルム貸し出しを拒否し、解雇問題にまで発展したことから、日活抗議デモの先頭を歩く、若き日の蓮實重彦(手前左)


…………

そうだな
オレが倒錯者のカテゴリーに入るかどうかは
自分では判然としないけれど
それっぽいのは確かだと思うよ(かつてはとくに)

これは本好きにかぎるが
ロラン・バルトが正しいとすれば
だれが何をやっているかで
かなりの程度で判断できるんじゃないか


読書の快楽のーーあるいは、快楽の読書のーー類型学を想像することができる。それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ないだろう。そして、読書の神経症とテクストの幻覚的形式とを結びつけるだろう。フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。偏執症者(パラノイア:引用者)は、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなある批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

…………


私はきくだろう 女が歌いだすのを 通ってゆく汽車の汽笛がきこえ、
その汽笛は、遠くまた近く、森のなかの一羽の鳥の歌のように、
移ってゆく距離を浮きたたせながら、
さびしい平野のひろがりを私に描きだし、そんな空漠としたなかを
光彩がよわまり、低くなり、また高くなり、やがて消えようとする一瞬に、
規則正しく間歇的に発するひときわ強くかがやくさけび声を
「果実が溶けて快楽(けらく )となるように、
形の息絶える口の中でその不在を甘さに変へるやうに、
私はここにわが未来の煙を吸ひ
空は燃え尽きた魂に歌ひかける、岸辺の変るざわめきを。」
私はその女(ひと)を見失うことはあるまい-あの女(ひと)はいる、このデルタの岸辺に







あの女を見つけねばならぬ、あのなかにこそほんとうの奇跡が潜んでいるのだから、ふるえる一筋の光の線がなぎさを区切っている不動の海、ゆらぐ海藻のかげ、波間に見え隠れするとび色の棘、縦に長く裂けた海の皺の奥、その輪郭に沿ってさらに奥のほうへ潜りこんで貼り付いたようになってしまうとき、細い柔らかい触手が伸び絡まりつき、小さな気泡が弾ぜる数えられない奇跡の痕跡がくっきり刻まれているのだから、あの女は昏い、あの女は激しい、憤ろしい、しかも静かだ、紡錘形の二つの岬のあわいの磯陰でひたひたと匂いさざめく法螺貝の唇をまさぐりあて、あの女のなかに歩み入っていかねばならぬ