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2013年9月19日木曜日

戀戀風塵と童年往事(侯孝賢)





ひとはある作品を鑑賞するとき、そこに「己れ自身が書き込まれている」か否か、――ロラン・バルト用語でいえばプクントゥム、ラカン用語でいえば対象aを見出すかどうかーーが、好きであるのか/愛するのであるのかに、大きく影響する。

もちろん批評家であれば、《あくまでも形式的な次元で、作品がどのような論理によって構成されているかを分析していく》(浅田彰の岡崎乾二郎評)ことが肝要だ、つまりは形式主義で押せるところまで押す。だがそこで取りのがすのは、欲望の原因―対象(オブジェプチタobjet petit a)だ。

永遠に退屈な女性的な質問、「どうしてあなたは私のことが好きなの」という質問を例にとって考えてみよう。本当の恋愛においては、この質問に答えることはもちろん不可能である(だからこそ女性はこの質問をするのだが)。つまり、唯一の適切な答えは次の通りである。「なぜなら、きみの中にはきみ以上の何か、不確定のXがあって、それがぼくを惹きつけるんだ。でも、それをなにかポジティヴな特質に固定することはできない」。いいかえれば、もしその質問にたいしてポジティヴな属性のカタログによって答えたなら(「きみのおっぱいの形や、笑い方が好きだからだ」)、せいぜいのところ、本来の恋愛そのものの滑稽なイミテーションにすぎなくなってしまう。(ジジェク『斜めから見る』P194)

山あいを走る古い型の汽車の映像があるとする。それに魅惑されるとき、いくら形式的に分析しても零れ落ちるものがある(形式的、構造的分析をどう捉えるかという面はあるが、ここではごく一般的に、要素に分解すること、その諸要素の組み合わせが示す表情をくまなく記述して、分析の言説化をすること、としておこう。そもそも、そのあたりに転がっているタチの悪い論文は、分析の言説化ではなく言説化のための分析しかしていない)。

下記のプルーストの小説に書かれるように、パスカルよりも石鹸の広告のほうが、そこにプンクトゥムを見出すのなら、より惹きつけられることだってあるわけであり、形式的にはなんの重要性もない細部、あるいはシミのようなものに魅せられている場合だってあるのだ。

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」)




(飯田線 湯谷温泉~三河槙原)



あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。(プルースト『見出されたとき』)

形式主義で押せるところまでは押すというのは、まずは対象の鞘におさまっているものの分析であり、己れの内部にのびているものに向かう批評は稀か、最後になる。

批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。
(平成2年5月1日朝日新聞夕刊  対談 大江健三郎&浅田彰)


 …………


ストゥディウム(studium)、――《この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。》

プンクトゥム(punctum)、――《ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》


《プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。》

ーー以上、「ベルト付きの靴と首飾り 」(ロラン・バルト)より


…………

侯孝賢)『童年往事』の方では、鳳山というところの非常に平坦なところを使ったわけだけれども、あそこでは日本式の家を使いたいと思ったんです。

――畳のあるやつですね

侯)ええ。それは自分の子供時代の印象が強いということなんです。日本式の家といったときに、どういう印象が強いかというと、家の外側が非常に明るいということと、それから、雨が降ると音がうるさくて、湿気で畳が凸凹になるということなどです。そうした印象は生かしたかった。あれは自分の少年時代の思い出という要素が非常に強いので、昔の写真のような仕上がりにしたかったわけです。ですから初めは、黒白で撮るつもりでした。けれども、カラーを使うことになったので、そのカラーの調子をなるべく黒白に近づけようとしました。





――少し前の時代を描くという場合に、汽車はどうなんでしょうか。侯監督の映画の中では、鉄道線路がいつもすばらしく、駅も、列車が走るところもすばらしい。『恋恋風塵』の導入部で学校から帰る少年少女を乗せた電車がトンネルをくぐり抜けてゆく山あいの風景も胸のつまるほど美しいのですが、それを再現する苦労などはどうされるのですか。

侯)『童年往事』で汽車の場面が出てきたのは、あれは駅だけで、そのころの蒸気機関車は、もう今では博物館にしかないので、汽車は出さなくて音だけにしました。それから、『恋恋風塵』では、一九七〇年ごろのことなので、ディーゼルカーでもいいだろうと思って今の車輌を使いました。(1987.5  蓮實重彦インタヴュー 「映画の画面は、結局、直観できまると思うーー『恋恋風塵』と『童年往事』」『光をめぐって』所収)









侯)……いつも思うんですが、自然の環境というものは実に不思議なもので、強い印象を与えるのです。

――それはそうだと思いますが、自然の風景というものは誰もが撮れるものではない。私もある程度は最近の台湾の映画を見ていますが、これほど風景から生なましい印象を受けとめたことはありません。それは侯監督独特の映画的な感性に深く心を揺り動かされたからだと思います。すばらしい場所を見つけても、どちらから光がくるかということによって、その印象は変わってくる。たとえば『童年往事』の、うちの前に川があって木があってという風景は、そこで主人公の子供が母親からしかられたり、迷子になったお祖母さんがつれ戻されたりする重要な舞台になっていますが、いつごろの時間で撮っているんでしょうか。大体光がやや背後にまわったころのような気がするのですが。

侯)午後か午前か、いずれにしろ、太陽が少し斜めになった時間をねらっています。やはり天気というのは非常にむつかしくて、映画の中で大きな意味を持っています。だから、いろいろな場合をねらいます。たとえば空気がきれいになるときとか、それから台風が来る直前とか、その来た後とか、それから雨が降った後の水気のある感じとか。(同上)





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附記:


そして私は傑作のひとつだと思っていますが、三作目の『川の流れに草は青々』は、台湾の地方都市の、文字通り川が流れていて草が青々としげっている田舎が舞台ですが、実はこの"青々"というところがポイントです。原題でも"青"という字がふたつ重なっていますが、これが侯孝賢映画のひとつの特徴で、漢字独特の喚起力を、反復によって高めているのです。世の東西を問わず、世界でもっとも美しい題名である『恋恋風塵』の恋恋を旧字で"戀戀"と書かれると、恋というものの深さや奥行きが二倍以上になったような気持ちになる。"草青々"というのも、反復によって緑をより色濃くしていく。『憂鬱な楽園』、すなわち《南国、再見南国》の"南もsouthにあたる南という意味ももちろんありますが、侯孝賢が「南というのは、台湾の南部のことでもあるが、多くアジアにおいて、台湾そのものが南とみなされていた」と言っていたように、"南国"という言葉自体が台湾という意味も含んでいる。そこへ、《南国、再見南国》、「さようならだけども、もう一度会おう」というタイトルをつけたのです。また、『好男好女』も"好"という字が繰り返されています。

彼の映画の題名には、ある繰り返しによってもたらされる漢字の喚起力を、スクリーンの上までおしひろげて行こうという意識が見られます。日本映画の題名も最近は非常にカタカナが多くなりましたが、あのように"草は青々"とか"恋恋風塵"とか、ある言葉を繰り返すことによって、見事な喚起力を題名に与え、それに見合った力強い、それでいて押し付けがましいところのない画面を見せてくれる人は、侯孝賢をのぞいて誰もいません。

そのような題名をもった映画を、繰り返しによって作っているわけですが、10月21日から公開される『百年恋歌』の原題は《最好的時光》で、"もっとも素晴らしい時"という意味合いですが、その直前に撮られた『珈琲時光』の"時光"と反響しあっています。侯孝賢に「時光という言葉には、光という意味も含まれているのか」と尋ねたところ、「もうすこし、広い空間のようなものと考えてくれ」と言っておりましたので、これを見ていただくというときには、"時光"という語彙の反復の喚起性をご覧いただきたいと思います。(蓮實重彦「侠の人 侯孝賢」