このブログを検索

2013年12月21日土曜日

ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書

愛するためには、あなたは自分の欠如を認め、あなたが他者を必要とすることに気づかなければなりません。あなたはその彼なり彼女なりがいなくて淋しいのです。己が完璧だと思ったり、そうなりたいと思っているような人たちは愛し方を知りません。(ジャック=アラン・ミレール on loveーー「ラカンの愛の定義」)

ここにある「欠如」をめぐって見事に書かれている文に行き当たった。

乳児はおそらく原初の内的な欲動をなにか周辺的なもとのして経験するだろう。どんな場合でも、その欲動は<他者>の現存を通してのみ姿を消すことができるにすぎない。<他者>の不在は、内部の緊張の継続の原因として見なされるだろう。しかしこの<他者>が傍らにいて言動によって応えても、この応答はけっして十全なものではない。というのは、<他者>は継続的に子供の叫び声を解釈しなければならないし、解釈と緊張のあいだに完全な照合はありえないのだから。この時点で、われわれはアイデンティティの形成の中心的な要素に直面する。すなわち、欠如、――欲動の緊張(強い不安)に完全に応答することの不可能性。要求、――それを通して乳児が欲求を表現するとき、残余が生ずること。この意味は<他者>の要求の解釈はけっして本来の欲求とは合致しないというとだ。<他者>の不完全性が、いつでも、内的にうまくいかないことの責めを負わされる最初のもののようにみえる。(ポール・ヴェルハーゲ 私訳)(ポール・ヴェルハーゲ 私訳)

The infant quite probably experiences the original internal drive as something peripheral; in any case, it can only disappear through the presence of the Other. The Other’s absence will be regarded as the cause of the continuation of the inner tension. But even when this Other is present and responds with words and actions, this response will never be enough either. For the Other must continually interpret the child’s crying, and there is never a perfect fit between the interpretation and the tension. At this point, we come up against a central element of identity formation: lack, the impossibility of ever answering the tension of the drive in full… The demand through which the child expresses its needs leaves a remainder in the sense that the Other’s interpretation of the demand will never coincide with the original need. It seems that the Other’s inadequacy will always be the first thing to be blamed for what goes wrong internally.
(Paul Verhaeghe, "On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics")

ここには主体の欠如と大文字の他者の欠如ということが、簡にして要を得て書かれている。

「元来の内から生じる欲動original internal drive」とは、まず出始めは「お腹が減った」とか「喉が渇いた」、あるいは「寒いよお」のたぐいとしてもよい。この欲求を<母>に向けて言いあらわそうとする。だが幼児の本来がもとめるものは、<他者>がいつまでもそばにいてほしいということなのだ。ところがかりに<他者>としての母がいつもそばにいてくれても、なんらかの物足りなさが残る。というのは、上に書かれている理由のほか、出産後から母との始原の共生は漸次喪われていき、その共生への融合が根源的なものなのだから。この融合をヴェルハーゲは究極のエロス、あるいは享楽と呼んでいる(参照:女性の困った性質

「元来の内から生じる欲動」については、フロイト後期の死の欲動以降の記述ではなく、前中期の「性欲論三篇」から、フロイトの叙述を拾っておく。

「欲動」という名のもとにわれわれが理解することのできるのは、さしあたり、休むことなく流れている、体内的な刺激源の心的な代表者以外のなにものでもないのであって、これは個別的に外部からやってくる興奮によってつくりだされる「刺激」とは異なるものである。だから欲動は心理的なものを身体的なものから区別する概念の一つである。(……)欲動の源泉はある器官のなかで起る一つの刺激的な過程なのであって、欲動の当面の目標はこういう器官の刺激を除去することにあるのである。(『性欲論三篇』旧訳 p35)

ーーこれだけだとごく標準的な「本能」とどう異なるのか、という疑問が湧くが(実際、いくつかの英訳ではtriebはinstinctと訳されていたり、日本語でもフロイト旧訳では同様)、フロイトはこれ以外に、性的な欲動の部分対象を選ぶ特質(部分欲動)と自体愛的(auto-erotic)を強調しており、人の本来的な「倒錯」性が主張されることになるが(そして、ラカンにいたって頭も尻尾もない欲動の「モンタージュ」概念→「性関係はない」の公式が打ち立てられる大きな理由はそれにかかわる)、ここではその話題ではない。


さて少し前の文脈に戻れば、母の応答はつねに十全ではない。残余が生じる。残余、すなわち対象a、《あなたかのなかにあってあなた以上のもの》、あるいは《わたしのなかにあってわたし以上のもの》。





話し手の審級(agent)としての乳児は受け手の母(other)になにかを訴える。母はその要求に応えるが、そこには剰余としての対象a(product)が生まれる。

上に掲げられたヴェルハーゲの文には、欲望という語はないが、しかしながら欲求―要求―欲望の弁証法をも理解することができる。すなわち乳児は、空腹感のため、母乳が飲みたい(欲求)。この欲求を訴える(要求)。母がやってきて乳を与える(欲求の満足)。この過程は、しかし要求の弁証法によって、母の愛情の証をもとめる欲望に変質していくのだ。

《大文字の他者から来るものは、欲求の個別の満足のようにではなく、 むしろ訴え appeal、贈り物 gift、愛のしるし token of love に対する返答として扱われる。》(アラン・シェリダン訳Ecritsの序文

もし他人がわれわれの望みに応えてくれたとしたら、彼はそれによってわれわれにたいしてある一定の態度表明をしたことになる。したがって、ある物にたいするわれわれの要求の最終目標は、その物と結びついた欲求の満足ではなくて、われわれにたいする他者の態度を確かめることなのである。たとえば子どもにミルクをやるとき、ミルクは彼女の愛情の証になる。(ジジェク『斜めから見る』)

ここでラカン理論の基本、いまでは少しでも関心のある人なら誰でもがこれだけは知っているだろう<他者>の欲望を復習しておこう。

人間の欲望は<他者>の欲望である。そこではde(英of)が、文法学者が「主観的決定」と呼ぶものを提供している。すなわり人間は<他者>として(qua 英as)欲望する。それゆえに<他者>の質問―――それは主体が託宣を期待する場所から主体へと戻ってくるのだが―――は、「汝何を欲するか?」というような形をとる。「汝何を欲するか?」は、主体を自分自身の欲望に導く最良の道なのである。(ラカン『エクリⅢ』)

ジジェクは、この文を『ラカンはこう読め』で次のように解説している。


【第一の説明】
「人間は<他者>として欲望する」というのは、まず何よりも、人間の欲望が「外に出された」<大文字の他者>、すなわち象徴秩序によって構造化されていることを意味する。つまり私が欲望するものは<大文字の他者>、すなわち私の住んでいる象徴的空間によってあらかじめ決定されている。たとえ私の欲望が侵犯的、すなわち社会的規範に背くものだとしても、その侵犯それ自体が侵犯の対象に依存しているのである。

【第二の説明】
……主体は、<他者>を欲望するものとして、つまり満たしがたい欲望の場所として、捉える限りにおいて、欲望できる。あたかも彼あるいは彼女から不透明な欲望が発せられているかのように、他者は謎にみちた欲望を私に向けるだけでなく、私は自分が本当は何を欲望しているのかを知らないという事実、すなわち私自身の欲望の謎を、私に突きつける。

※欲望と欲動の相違については、資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)を参照のこと。


さてもうひとつ、ヴェルハーゲの文にはアイデンティティidentityという語彙が出てくる。もっともラカン派にとってアイデンティティidentityとはほとんど禁句に近い言葉であり、実際には同一化identificationにより疎外alienation、分離separationが起るということである。

The human experience of identity is constructed via identification with the signifiers of the desire of the other. In order to stress the impact of the other on the experience of identity, Lacan refers to this process as alienation. As these signifiers present conflicting desires, the subject is essentially divided between and through them. Nevertheless, this alienation is never a total one because the signifiers of the desire of the other can never represent the real of the object a, meaning that there is a structural lack in the chain of signifiers. This opens the possibility of separation for the subject. At the same time, this lack indicates an even more essential division: that between the signified part of the subject and the real of the drive. The conflicting relation between the real, on the one hand, and the symbolic and imaginary elements of subjectivity, on the other, is a structural characteristic of the human being; it is unbridgeable by any efforts.(『 Identity through a Psychoanalytic Looking Glass』Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe  Theory Psychology 2009)

他者の欲望のシニフィアンとの同一化によってひとは「疎外」される。これが上に書かれた<他者>の欲望とともに、主体Sには斜線がひかれること$の内実のひとつである。それとともに肝要なのは傍線箇所である。


ところで上の文の分離separationという言葉をもうすこし詳しく見てみよう。


乳児の母との共生の願い(truth)は、母がいかに懸命に応答しようとも(product)、けっして実現しない.





ーー図は、『FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN’S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES』(Paul Verhaeghe)より(ここで下段に示されているinabilityは、impotenceとしてもよいだろう)。


agentの箇所にS1、otherにS2を代入すれば、次のような図となる。(参照:メモ:ラカンの四つのディスクール+資本家のディスクール




上の図は、エリック・ローランの『疎外と分離』からだが、和訳されたものがインターネット上にある→ lacan.kill.jp/translation/texte/E_Laurent/alienationandseparation.doc

aと$が分離する。ここに幻想の式$◇a《斜線を引かれた主体は究極の対象を目指しながら永遠にこれに到達することができない。》があることがわかる(資料:ラカンの幻想の式と四つの言説)。左下の$からはじめて凹型の上下を反転させた形を進めば、幻想の式を分解した、《$ー S1 ー S2 ーa》がある。

エリック・ローランの『疎外と分離』から、いま書かれている文脈上の核心部分のみを抜き出しておこう。

主体と<他者>の和集合は喪失を残します.主体は<他者>のなかに自らを探そうとしても,主体は失われた部分としての自らを見つけることが出来るだけです.主体は主人のシニフィアンに囚われ,自らの存在の一部分を喪失しています.疎外(つまり,同一性を持たない主体が何かと同一化する必要があること)は,主体が自らを定義するのはシニフィアン連鎖においてだけではなく,欲動のレベルでは<他者>に関係するものとしての自らの享楽によってもまた定義するということを,より深い意味において覆い,あるいはオーバーラップさせています.ジャック=アラン・ミレールが最初に展開したシェーマを受け入れるなら,このようになります.





フロイトの用語では,1925年の「否定」と題された有名な論文で指摘されたように,疎外は享楽の対象そのものが失われたことを覆い隠します.主体を生産するこれら二つの公式あるいは論理学的操作はある意味で垂直にも読めます.最初に疎外,つまり,主体が彼を待ち受ける言語のなかで生産され,<他者>の場に書き込まれます.主体は自らを分割されたものとして,いくつもの部分欲動のあいだで寸断され,常に喪失を被った部分的なものとして見出します.

この公式は別なふうにも読めます.主体は根本的に<他者>の享楽の対象であり,子供としての主体の最初の位置づけはこの<他者>(現実の<他者>すなわち一般的には母)の失われた部分である,と読めるのです.主体は対象aとして人生を始め,失われた部分に同一化し,シニフィアンの連鎖に入るのです.ラカンが言うように,主体は「自らの一次的同一化を受け入れる」――これは『エクリ』で使われた表現です.主体の一次的同一化はある意味で主人のシニフィアンとの同一化です.より深い意味では,主体の一次的同一化は,最終的に主体が定義する対象との同一化です.これは完全な同一化です――主体が<他者>の欲望のなかで,欲望の象徴的水準だけでなく,享楽の現実的実体の水準においての同一化なのです.主体は,シニフィアン連鎖の発展の中でこの対象を回復したり同定しようとしているのです.

このようにして二つのシェーマを両方のやり方で読むことができます.最初に疎外があって,次に分離.あるいは,最初に分離があって,次に疎外があると.論理的に言えば,疎外が先にあります.分析状況のなかでは,分離が先にあります.

さらにジジェクのテキストから、比較的若い頃に書かれた(上に引用された『斜めから見る』と同様)、疎外と分離をめぐる文を掲げる。


ラカンは「分離」を二つの欠如の重なり合いと定義した。主体が<他者>の欠如に出会う時、それに対する主体の答えは、先行する欠如、彼自身の欠如である。このことはヘーゲルの有名な言葉、古代エジプト人の秘密/謎はエジプト人自身にとっても秘密/謎だったという言葉に正確に一致している。疎外された主体は、到達できない秘密/謎を隠し持つ十全で実体的な<他者>に直面する。そして疎外は、主体がその<他者>の核心にまで突き進み、その「隠された宝」を手に入れることによって克服されるのではなく、「隠された宝」(対象a、欲望の対象-原因)が他者自身にも欠けているということを経験することによって克服されるのである。秘密/謎の解消は、その二重化のうちにある。(『最も崇高なヒステリー症者ヘーゲル』p233)

<他者>の欠如がなかったら、<他者>は閉じられた構造となり、主体に開かれた唯一の可能性は、主体が<他者>のなかへとみずからを全面的に疎外することだろう。したがって、まさに<他者>の欠如のおかげで、主体はラカンが分離と呼ぶ一種の「脱疎外」を達成する。ただしこれは、主体が、いまや自分が言語の障壁によって対象から永遠に分離されていると感じる、という意味ではなく、対象が<他者>そのものから分離されている、つまり、<他者>が「手に入れなかった」、すなわち最終的な答えを手に入れなかった、という意味である。(…) <他者>のこの欠如が、主体に、いわば息ができる空間を与える。(『イデオロギーの崇高な対象』p192)

2012年に上梓された『LESS THAN NOTHING』では、ヘーゲルの「否定の否定」との違い、要するに、ヘーゲルのほうは高次の次元の弁証法の基礎でありポジティヴであるが、疎外と分離の二重の欠如はそのような積極的な内容はないというようなことが書かれているのだが、ヘーゲルとなると途端に頭をひねる身なので、理解の十分に及ばない箇所を引用するより、上に引用された「古代エジプト人の秘密」と箇所と重なる文を抜き出しておく。

The core of Lacan's atheism is best discerned in the conceptual couple of “alienation” and “separation” which he develops in his Four Fundamental Concepts of Psycho‐Analysis. In a first approach, the big Other stands for the subject's alienation in the symbolic order: the big Other pulls the strings; the subject does not speak, he is “spoken” by the symbolic structure. In short, this “big Other” is the name for the social substance, for all that on account of which the subject never fully controls the effects of his acts, so that their final outcome is always other than what he aimed at or anticipated. Separation takes place when the subject takes note of how the big Other is in itself inconsistent, lacking (“barred,” as Lacan liked to put it): the big Other does not possess what the subject lacks. In separation, the subject experiences how his own lack with regard to the big Other is already the lack that affects the big Other itself. To recall Hegel's immortal dictum concerning the Sphinx: “The enigmas of the Ancient Egyptians were enigmas also for the Egyptians themselves.” Along the same lines, the elusive, impenetrable Dieu obscur has to be impenetrable also to himself; he has to have a dark side, something that is in him more than himself.

最近、フィンクの20年近く前の本が和訳されて、そこには「疎外と分離」をめぐる記述が豊富らしいが、手元に英訳はあるにもかかわらず、かすり読みしただけなので、ここでは、次の書評をリンクしておくのみにする→書評:ブルース・フィンク『後期ラカン入門:ラカン的主体について』(2013)


…………

欠如、あるいは疎外と分離の話は終ったので、ここで終えてもよいのだが、冒頭はミレールの愛の話で始めたのであり、上に示された<欠如>やら、疎外と分離の議論から、愛とはなにか、をもう一度考えてみるための言葉を抜き出しておこう。もっとも男のファンタジー、女のファンタジーに耽り続けたい大半の連中に文句をいうつもりはない。それでうまくいく場合もあるのだから。そしてラカン派の考え方に熟知したってうまくいくわけのものでもないだろう。あるいはまたフロイト理論がラカンによっていくらかの調整があったように(最も大きな再構成のひとつは、実物のペニスからシニフィアンとしてのファルスへの変換だろう、参照:少年ハンス(フロイトとラカン))、ラカン理論もニューロサイエンス(神経科学)やらにより陳腐化することもありえよう。

だがあれらの新しい理論がいったい愛を語れるだろうか。

ここでも詳しいことは知らないわたくしは偏った視点から、ラカン派の向井雅明氏の言葉を引用することになる。
情動と感情のちがいについて言えば、ダマシオにとって何らかの刺激で生み出された心的イメージの身体的知覚が情動であり、この身体的条件に対する心的知覚が感情である。これを簡単に言えば、怖さで体が震えるのではなく、体の震えという情動的身体表出から怖さという感情が引き起こされるということになろう。このようなダマシオのシステムにとって他者は必要ない。たとえば愛情というものを感じたとしてもそれは誰かにたいする愛情ではなく、愛情に相当する身体状態を表すニューラルマッピングによって引き起こされた感情でしかない。憐憫の感情にしても誰かかわいそうな人にたいして感じるというのではなく、身体の情動的変化によって引き起こされるのだ。ダマシオはこれを「情動は身体の劇場で演じられ、感情は心という劇場で演じられる」 と言う。 それは外に開かれてはおらず、 閉じられた体系なのである。

二つの劇場は脳のどこかに位置づけられる二つの部位なのであり、相互に繋がり合い対応しあっているので、一元論は保たれる。結局彼の考える人間はホメオスタシスによって調整される生物学的な機械であり、デカルトの延長に相当するものの次元においてすべては進行するのである。したがって、ダマシオの身体はスピノザ的な一元論というよりもラメートリーの人間機械論的な一元論的唯物論によって説明ができるものであろう。

ダマシオだけではなく、一般的にニューロサイエンスや生物学だけで人間を説明しようとする試みはすべて同じ過ちを犯している。真に人間的な次元を扱うには、人間世界は自然界との切断によって生まれる、あるいは、語る存在としての人間は生命体とは切り離されている、さらにあるいは、 主体とは身体とは超越したものであるということを前提にしなければならない。(向井雅明「Dの誤り ダマシオ批判」

まあしかしながら、ダマシオ(ソマティック・マーカー仮説)やら大きく神経科学のたぐいを批判(吟味)するつもりはない、この向井氏の文と二三の短い解説的な文を読んだのみなのであって、それでなにが言えるわけのものでもないだろう。

ジジェクの見解は柄谷行人が巧みにまとめている。

本書で最も興味深いのは、近年急速に発達した、脳科学や認知科学に対する考察である。通常、これに対しては、意識(精神)は脳と異なる次元にあるといった、人文科学的な批判がなされる。しかし、ジジェクはむしろ、脳科学や認知科学の成果を肯定する。その上で、そこにパララックスを見いだすのである。たとえば、「意識」はニューロン的なものと別次元にあるのではなく、ニューロン的なものの行き詰まり(ギャップ)において突然あらわれる、という。こうして、ジジェクは、現象学や精神分析といった人文科学的な観点に立つかわりに、現在の認知科学そのものの中に、ドイツ観念論(カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)が蘇生している、と考えるのである。(書評:パララックス・ヴュー [著]スラヴォイ・ジジェク

ここでは「意識」はニューロン的なものの「行き詰まり」とされている(荒川修作の言葉、意識とは「躊躇」をここで思い出しておこう)。

さらに、ジジェクの『パララックス・ヴュー』から、ことさら印象的な一節を抜き出す(残念ながら和訳は手許になく、原文からになる)。

It is a standard philosophical observation that we should distinguish between knowing a phenomenon and acknowledging it, accepting it, treating it as existing—we do not “really know” if other people around us have minds, or are just robots programmed to act blindly .This observation,however,misses the point: if I were to “really know” the mind of my interlocutor, intersubjectivity proper would disappear; he would lose his subjective status and turn—for me—into a transparent machine. In other words, not-being-knowable to others is a crucial feature of subjectivity……

――他者が何を考えているか本当にすべてわかってしまったら、そのとき<他者>ではなく<私>がロボットになってしまう、<私>の主体性が消えうせてしまうのだ、と。


…………


それにしても、なんという無知蒙昧な戯言、なんという厚顔無恥な輩の跳梁跋扈よ、あれらプレフロイトの思考に戻るつもりかの如き「わけしり顔」の評論家たち、なかんずく類まれなる「自我」心理学者たちよ、そのアイデンティティ至上主義、ほとんどのフェミニストたちも同じ穴の狢だ、ーーなどとはわたくしはけっして言わない……。ニーチェだって言わない。ツァラトゥストラが下界から山の上の洞窟に帰郷して語るだけだ。

……あの下界ではーー一切が語っていて、一切が聞きのがされる。人が鐘や太鼓を鳴らして自分の知恵を売りつけても、それは市場の小商人たちの銅貨の音でかき消されるだろう。

そこでは一切が語っている。しかしだれもそれを理解しない。一切が水に落ちて流される。深い泉の底に沈むものは何ひとつない。

そこでは一切が語っている。だが成就するものは何もない、終結するものは何もない。一切が鵞鳥のように鳴き立てる。しかし静かに巣ごもりして卵を孵そうとするものはない。

そこでは一切が語っており、一切が語りこわされる。そして、昨日はまだ時代の歯にとってさえ固すぎたものが、今日は噛みくだかれ噛みほごされ、当世人の口のはしから垂さがっている。

そこでは一切が語っている、いっさいの隠されたことが明らかにされる。そして、かつて深い魂の秘密や秘事といわれたものが、こんにちは街上のラッパ手や太鼓たたきの持ち物になっている。

おお、おまえ、人間という奇妙なものよ、暗い街路にたむろする喧騒よ。……(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部「帰郷」より 手塚富雄訳)

…………

小児が母の乳房を吸うことがあらゆる愛情関係の原型になっているのは、十分な根拠のないことではない。対象の発見ということは、本来は再発見なのである。(フロイト『性欲論』旧訳 p77)

《愛の基本的モデルは男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきだ。》
The basic model of love should be sought not in the relationship between a man and a woman, but in the relationship between mother and child(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 Paul Verhaeghe)

ラカンによる愛の定義 ――「愛とは自分のもっていないものを与えることである」 ――には、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」。誰かにいきなり情熱的な愛の告白をされるというありふれた体験が、それを確証しているのではないか。愛の告白に対して、結局は肯定的な答を返すかもしれないが、それに先立つ最初の反応は、何か猥褻で闖入的なものが押しつけられたという感覚だ。(ジジェク『ラカンはこう読め』)
eromenos(愛される者)が、その手を延ばして「愛を返す」ことにより、erastes(愛する者)へと変わる崇高な瞬間がここにある。この瞬間は、愛の「奇跡」、「〈現実界〉からの答え」を表している。このことから、主体自身は「〈現実界からの答え〉」の状態にあるとラカンが主張しているときにその念頭にあるものが把握できるだろう。つまり、この逆転が起きるまで、愛される者は対象としての身分をもっている。つまり、愛される者は、自分では気がつかない「自分の中の自分以上のもの」である何かのために愛されている。「他者に対する対象としての自分は何者なのか。他者がわたしに何を見てわたしを愛するようになるのか」といった問いに答えることはできない。

そこである非対称が立ちはだかる。主体と対象という非対称だけではなく、愛する者が愛される者の中に見るものと、愛される者が知っている自分自身の姿とが一致しないという、より根源的な意味における非対称である。

ここで、愛される者の位置を定めている逃れがたい行きづまりに気づく。他者がわたしの中に何かを見てそれを欲しているが、わたしはわたしがもっていないものを与えることができないというものだ。または、ラカンの言葉を借りれば、愛される者がもつものと愛する者が欠いているものとの間には何の関係も存在しないとも言える。愛される者がこの行きづまりを抜け出す方法は一つしかない。

愛される者が愛する者に向かって手をさしのべて、「愛を返す」のだ。

つまり、象徴的な身振りでもって、愛される者の地位と愛する者の地位を交換する。この逆転が主体化の時点を指し示す。愛の対象は、愛の呼びかけに応えた瞬間、主体に変容する。こうした逆転が起こって初めて、真の愛が出現する。ただ単に他者の中のアガルマに魅了されているだけでは、真に愛しているとは言えない。愛の対象である他者が、実はもろくて失われたものであること、つまり「それ」をもっていない者であることを体験しても、愛がその喪失を乗り越えた時にこそ、真に愛していると言える。

この逆転の時を見逃さないように、とくに注意しなければならない。愛する者と愛される者という二元性という最初の構図はなくなり、今や二つの愛する主体となったが、非対称はやはり存在する。なぜなら、対象自身が、主体化によって、いわば自身の欠如を表明しているからだ。 (ジジェク『快楽の転移』 ーージジェクの愛の定義

結局、「お前の妹(姉さん、母さん)、すぐにやらせてくれるって話じゃないか」などといった罵り文句は、「〈女性〉は存在しない」という事実、ラカンの言葉を借りれば、彼女が「完全ではない」、「完全に彼のものではない」という事実を、下世話な言葉で表現したものである。「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい。それは、男性の存在の内、象徴界における女性の役割の内に注ぎ込まれた部分を脅かすのである。この種の中傷に対する男性の極端な、全く法外な反応――殺人を含む――を見てもいいだろう。これらの反応は、男性は女性を「所有物」だと見なしている、という通常の説明で片づけられるものではない。この中傷によって傷つけられるのは、男性がもっているものではなく、彼らの存在、彼らそのものである。関連する命題をもうひとつ紹介して、ドン・ジュアンに返ろう。「〈女性〉は存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男性の定義は次のようなものになる――男性とは「自分が存在すると信じている女性である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』ーーひとりの女のうちにある不誠実は、けっして深くとがめられることではない

ーーというジジェクとその朋友たちの過激な発言だけではなく、穏やかな紳士の風貌と発言をもつポール・ヴェルハーゲの言葉をも再度つけ加えておこう。


◆NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)

Lacan(……)was to state explicitly that there is no sexual rapport as such, that The woman does not exist. This may sound very pessimistic indeed, a kind of confirmation of Freud's last theory. It is not. In his development, Lacan was to aband on completely the idea of an opposition between the biological and the psychological, and elaborate the ever-present field of tension between the Symbolic and the Real, with the Imaginary in between.

What Freud called a biological bedrock is for Lacan nothing but a defensive system within the Imaginary, directed against an ever lacking signifier. This opens up new alternatives. Freud saw no possibility of going beyond what he believed to be a biological fact, while the Lacanian conceptualisation gives rise to the dimensions of ethics and creation. Indeed, The Woman does not exist, neither does The Man. Both of them can deconstruct and reconstruct their identity during an analysis, in which they share the same experience, namely that their identity or lack of identity, is nothing but a defensive imaginary construction against the feared desire of the big Other. The working through of this - la traversée du fantasme -opens up ethics, which position do I consciously want in view of the desire of the other; it opens up creation, in which direction will I develop my own answers in view of the lack in the symbolic system, answers that will constitute my identity ?

Sexual rapport does not exist. This means that there is a choice beyond neurosis, which is essentially the refusal of a choice. This means that every subject has the possibility of creating one.

That is the challenge beyond analysis.


※補遺:デリダとフーコーの対象a