中島義道氏がインタヴュー記事のなかで次のように語っている。
超人ニーチェによる超人のための書『ツァラトゥストラ』。だが、中島さんは「この本は、ニーチェが自戒するため、理想像を描いたように見える。現実の彼は超人とは最も対極的。ルサンチマン(嫉妬、恨み)を克服せよと言いつつ、自身は最もルサンチマンにまみれていたのです」と人間像を語り始めた。
裕福な牧師の家に生まれ、天才と呼ばれて育ち、弱冠二十四歳でバーゼル大学の教授に就任。だが、最初の著作『悲劇の誕生』が批判され、学会から追放同然の扱いを受けたことで歯車が狂った。スイスのルツェルンやシルス・マリアなど、ニーチェの滞在地に足を運んで人物像を探った中島さんは断じる。「それまで、ニーチェはどんな批判を受けても、格下の“畜群”の嫉妬とみなして相手にしなかったけど、この時はそうはいかず、生涯、恨み続けた。立派な人でも何でもありません」。誠実で傷つきやすいが故に、猛烈に弱者=善人を批判するニーチェについては、著書『善人ほど悪い奴はいない』(角川oneテーマ21)に詳しい。(超人と対極の俗物性 甘口ニーチェ論を蹴散らす 中島義道さん(哲学者))
この短い記事では詳しいことは分からないが、ニーチェ超訳のたぐいに苛立つ人の言のひとつなのだろう、ーー《ナチスはニーチェの思想を「編集」したが、超訳はそれに類したことあるいはもっとひどいかもしれない。なぜならこの行為の眼目はニーチェを骨抜きにして、ただの口当たりのいい、人に説教ばかり垂れている内容空疎な文化人、わかりやすさのファシズムに迎合する大衆受けの間抜けにすることにあるからだ》(鈴木創士twitter)
――まあしかしなんという「はしたない」連中の多いことよ。これはニーチェとは関係ないが、たとえば、ブロガー出身の評論家Uなる人物が、ロラン・バルトのエクリチュールを語りつつ、いつのまにかそれをリーダビリティなどという話にしてしまう。これもバルトの考え方を骨抜きにすることでなくてなんだろう(参照:U氏ブログ、エクリチュールについて、エクリチュールについて(承前)、リーダビリティについて)。これを《わかりやすさのファシズムに迎合する大衆受けの間抜けにすること》としなくてどうしよう。
わたしには自分のことを書くことができない。それでも自分のことを書こうとするわたしとは、いったい何者であるのか。彼がエクリチュールの中へ入りこむにつれて、エクリチュールは彼を収縮せしめ、空虚なものにしてしまうだろう。漸進的な破壊が起り、あの人のイメージまでが少しずつ巻き込まれてゆくだろう(なにかについて書くとは、それを無効にすることなのだ)。やがて嫌悪感が生じ、ゆきつくところは、なんの役に立とうでしかないだろう。愛のエクリチュールを閉塞せしめるのは、表現可能性についての幻覚である。作家として、自分が作家だと思っている者として、わたしは、言語の効力について自分をあざむきつづけている。「苦痛」という語はいかなる苦痛をも表現しないのだということ、したがって、そのような語を用いたところでなにひとつ伝達できないばかりか、たちまちにいらだちのもとになるのだということ(ばかばかしさは別にしても)が、わたしにはわかっていない。自分の「誠実」さを埋葬せずして書くことはできないのだと、誰かがわたしに教えてくれなければなるまい(常にオルペウスの神話、振り返ることなかれ)。エクリチュールが要求するのは、恋する者がおのれの「想像界」をいくばくか犠牲にして、そのかわりにいくばくかの現実を、自分の言語を通じて引き受けることなのである。かかる要求を認めようとすれば断腸の思いを禁じえない。わたしに産み出せるのは、せいぜいが「想像界」についてのエクリチュールであり、しかもそのためには、エクリチュールについての「想像界」を放棄しなければならないだろうーーおのが言語に悩まされつづけなければならないだろう。恋する者とその相手という二重の「イメージ」に加えられる不正(侮蔑)を、耐え忍ばなければならないだろう。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)
さて冒頭のニーチェについては、すこしまえ引用した吉田秀和の反響が聞こえてくる、ここに再掲してみよう。
ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳〔すなわち同情〕を口を極めて排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力のために悩み苦しんだかの証拠に他ならない。( 神崎繁『ニーチェ――どうして同情してはいけないのか』より)――この文がいつ書かれたのはいまは判然としないが、かなり前のことでないか。(吉田氏の師匠格であった小林秀雄が語っていてもよさそうだ)。
もちろん反ルサンチマン、反同情だけでなく、反キリスト、反フェミニズム的ニーチェも同様。
《書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか。(……)すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。》(ニーチェ『善悪の彼岸』289番)
――そもそも強烈に何度も反復される批難というものは、《それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。》(フロイト)
ニーチェが、女性にたいして終生無器用だったからこそ、性欲の処理に困惑を極めたからこそ、あるいは妻を求めて空しかったからこそ、たとえば、次のように語られたのではないかと一時でも疑ってみよう。
真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』序文)
寡聞にしてその信憑性が明らかではないが、次のようなエピソードなどもある。
ニーチェはワーグナーと交際していたとき、ワーグナーはニーチェの健康を心配し、彼の体の不調は過度のマスターベーションにその 原因があるのではないかと考えて彼に結婚をすすめた。1876年31歳のニーチェは結婚しようという考えを抱くようになる。体調が悪く 大学の講義を中止し保養旅行にでかける。ジュネーブに滞在中に若いオランダ女性と出会い、わずか4時間一緒に散歩しただけで、彼女に 手紙で求婚した。異性との交際の経験がないニーチェは交際のノウハウなど持っていないのであっさり断られる。(ニーチェの恋)
「全く拙劣で下手くそな遣り口」のため、「女たち=真理は籠洛されなかったのではないか」、――この文は、ときには、《それを語った当人に戻してみることこそ、必要》なのではないか。
ここでラカンの『同一化』セミネールからニーチェの谺を抜き出そう。
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。「我思う」にしても同様である。教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立止まらないからにすぎない。(ラカン『同一化』)
――私はこう思う、私の意見では、私はこれこれが好きです、などとも同様。
《「我思う」というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした「私は嘘をつく」以上に確固としてものではない。》(ラカン「同一化」)
《「我思う」は、「私は考えていると思っている」と捉えることができる、そしてそれは、「彼女は私を愛していると私は思う」以外の何ものでもない。》(同上)
ーー安易に語られる「私は思う」、「私は好きです」、などいう発話は、ただひたすらその人物の過剰なナルシシズムを振りまいているだけにしか見えず、その臭気に鼻を抓むよりほかない。ーーああ、ツイッターなどにこの手合いのなんと多いこと!
いずれにせよ、ニーチェに対してだって、《……なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった》(プルースト「見出された時」)であるべきなのであり、《誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできま す。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?》(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)なのだ。
…………
《人生への愛、それはわれわれに疑惑をいだかせる女への愛なのだ……》(ニーチェ対ワーグナー・エピローグ)
さてもうひとつ、ニーチェの語り口を耳をすまして聞いてみよう。
ーー《語りたまえ、そうすればすべてが明らかになる。出来事と諸力に対するきみたちの位置、きみたちの盲目性、きみたちの操作の範囲、きみたちの暗黙の信仰、鏡のなかの自分自身を見るきみたちの仕方が …語りたまえ、そうすればいまにもきみたちは思わず本心を洩らすだろう。叙述したまえ、そうすればきみたちは、自分の思考で考えていることよりずっと多くを言うだろう。悪と関わるきみたちのやり方。ただひとつの悪、実存することの悪だ。全能なる羨望と嫉妬のなかで。一般化された大人の稚拙さのなかで。》
いずれにせよ、ニーチェに対してだって、《……なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった》(プルースト「見出された時」)であるべきなのであり、《誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできま す。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?》(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)なのだ。
…………
《人生への愛、それはわれわれに疑惑をいだかせる女への愛なのだ……》(ニーチェ対ワーグナー・エピローグ)
さてもうひとつ、ニーチェの語り口を耳をすまして聞いてみよう。
ここでついでに、わたしは女というものが何かをよく知っていると、あえて仮説的に主張してようだろうか? この知識は、ディオニュソスがわたしに持ってきてくれた財産の一端である。ことによったら、私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ――幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! (『この人を見よ』手塚富雄訳)
ーー《語りたまえ、そうすればすべてが明らかになる。出来事と諸力に対するきみたちの位置、きみたちの盲目性、きみたちの操作の範囲、きみたちの暗黙の信仰、鏡のなかの自分自身を見るきみたちの仕方が …語りたまえ、そうすればいまにもきみたちは思わず本心を洩らすだろう。叙述したまえ、そうすればきみたちは、自分の思考で考えていることよりずっと多くを言うだろう。悪と関わるきみたちのやり方。ただひとつの悪、実存することの悪だ。全能なる羨望と嫉妬のなかで。一般化された大人の稚拙さのなかで。》
もうすこしソレルス『女たち』から引用を続けよう。
(…… )わかりきったことだ。そいつは前面に出てくる。哲学者は旅の逸話のなかで馬脚をあらわす。政治家は物語の色合いの秩序のなかで。さあ、耳をそばだててよく聞くがいい。ヒステリーはその後ろ、すぐ後ろにある、聴診器なんかいらない、それはどんなにささいな文章をも際立たせ、最もささいな形容詞のなかでもそれがふつふつと沸き立っているのが聞こえる。途方もない無意識の退廃、そしてぼく、ぼくが、ぼくが、ぼくが。純粋な思考、それは私だ。絶対への暗示、それは私だ。超越性、それは私、またしても私だ。歴史の意味、それは私だ。異論の余地のない善、それはつねに私、私でしかあり得ない。
(……)ナルシシズムのあの無限の機織り(……)、このナルシシズムにあっては、誰ひとり誰にも耳を傾けず、各々の生きた小片は一般化された夢遊病の性質を帯びている。眠りや死のそれ以外に、共通の場所、共同体の場所はないのだ。「人は理解し合っている」 …いや、理解なんかまったくしていない! これっぽちも! ……ぼくが、ぼくが、ぼくが …私が自分以外の存在を受け入れる振りをするのは、いまこの存在が腐敗しつつあり、私の望むとおりに霧散しつつあるような印象を私が抱いているからである
(……) …耳をかっぽじってよく聞くがいい …それはつねに女の問題なんだ、とどのつまり …人の語り合うことすべてが …女「なるもの」を伝えるため …問いのなかの問いから逃れるためだ …to beではなく……not to be でもなく …「父」… 禁断の核 …(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)
――というわけで、この<わたくし>の度重なる「私は思う」「私は好きです」批判も《それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。》(フロイト)