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2013年5月3日金曜日

ありきたりな言葉


昨日(5/2)、丹生谷貴志氏がツイッターで次のように書いているね


しかし「〜の語りの魔術師」式の解説の言い方は何とかならないでしょうかね。大体こんなふうに形容される書き手は空疎な紋切り型文章のくせに変に「文学風」だったり空疎なレトリックが多いだけの駄文を書く場合が多い・・・という論評も紋切り型ですがね。

例えばフローベールの手紙を読むと、彼が完全に”言葉を見失った者”であることが分かるはずだ。

それに対しいわゆる「エンタ系」の小説家は使用すべき文例のデータベース的ストックを持ち、それを疑うことなく使用できる「プロ」であって・・・そして僕はそれを低く位置づけるつもりはさしあたりない。要は、「違う」ところで文が書かれるという確認だけはしておくだけのこと。




まあここに書かれているように、いわゆる「エンタ系」の書き物、あるいはそれだけではなく人文系の論文などでさえ、「空疎な紋切型」の表現ばかりの文章だと感じてしまうことがままある。

逆に「言葉を見失った者」の文章に親しむ習慣をもっていない人なら、それらの空疎なレトリックの多用された文を名文とし、「言葉を見失った者」の文章を悪文などとする具合にもなる(たとえば大江健三郎や中上健次の文章は読みにくいには違いない)。

マニュアルのような文章ばかり読んでいれば、あれらが悪文と評されるのも致し方ない。

そしてそれはもうとり返しがつかないところまでいっているのだろう、と嘆息するなどということにもなる。

書く人間にとっては、 どれぐらいの人がどれぐらいのレベルで読んでくれるだろうかということが重要なのです。 二葉亭四迷なんか読むと、 ああ、 これだけの密度のものを読者が読むのを期待して書けたんだと、 それがうらやましく思います。

こんな密度で書いてしまったら、 いまの人は読んでくれないだろうと。 それに加速度がついて、もう読みやすいということだけに重点が置かれるようになるんじゃないかと。―――「著者と語る『日本語が亡びるとき』 水村美苗 2009、2,6」

…………

紋切型とは、蓮實重彦曰くは,《安堵と納得の風土の中に凡庸さが繁殖する。そこに語られる言葉が紋切型というやつだ》(『凡庸な芸術家の肖像』)ということであり、安堵と納得の風土とは、「共感の共同体」の風土、気心の知れた仲間同士の親しいうなずきあいの場、要は馴れ合いの場である。

同じ共同体のなかで共有しあったカテゴリー的認識の居心地のよい磁場に支えられ、そこでの文例、紋切型表現を「プロフェッショナル」として無分別に使用する(もちろん非専門家は、知ったかぶりを気取るために、いっそう多用する)。そこで繁殖するものが「「凡庸さ」=「先入観の無思想」にほかならない。

プロフェッショナルは、《ある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている》。ーー学者村、原子力村、あるいは「クラスタ」などと称されるものをみよ


もちろん、《プロフェッショナルは絶対に必要だし、誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

丹生谷氏が、「……使用すべき文例のデータベース的ストックを持ち、それを疑うことなく使用できる「プロ」であって・・・そして僕はそれを低く位置づけるつもりはさしあたりない」とするのは、このあたりの消息を伝えている。


ここで、《カテゴリー的認識の崩壊を代償とすることで初めて得られるこうした無媒介的な官能の豊かさ》と書く松浦寿輝の文を引き出そう。


たとえばブルターニュ地方への旅を回顧し、世界と素肌で触れ合い自然と一体化した悦びを語りながら、そのとき自分は海になり、空になり、岩になり、岩に滲み入る水になってしまったと述べる小説家フローベールは、カテゴリー的認識の崩壊を代償とすることで初めて得られるこうした無媒介的な官能の豊かさを文章行為の現場においても全面化させることで、あの尋常ならざるエクリチュールを実現しえたわけだ。『サランボー』や『ブーヴァールとペキュシェ』の作者は、言葉を主体的に操作し成型すること──すなわちあたかも粘土を捏ねて自分の好きな形を作るように言葉を捏ね上げるといった「能動的」な作業など、うまくやりおおせた試しがない。彼はむしろあたりに瀰漫し自分めがけて蝟集する言葉の群れに全身の皮膚をさらし、それにひたすら犯されつづける途を選んだのであり、作家としての彼の生涯は、言葉のなまなましい抵抗感に犯されることの苦痛が倒錯的な快楽に反転する瞬間を辛抱強く待ちつづけることに捧げられたと言ってよい。(死体と去勢──あるいは「他なる女」の表象



たとえば、巷間に蔓延る「自分の意見」とか「自分の考え」とかを主張する言葉、それらが「政治」をめぐるものであれ、「文芸」やら「思想」をめぐるものであれ、あれらのほとんどは、どこかの文を読んでの無自覚な「要約」に過ぎないのではないか、あるいは昔からひそかにくり返し暗記していた台詞がふと口から洩れてしまっただけではないかというような印象を与えたりもする。(……つまりこのオレの文のように、としておこう、そうしとかないと、あとで突っ込まれるからな。まあしかし「無自覚な要約」などというハシタナイ真似はしていない筈で、ポール・ド・マンがいったらしい、古典主義的な意識的ななぞり書きであって、ロマン主義的な無自覚ななぞり書きではないぜ)

丹生谷氏がぽろっと自らのツイートに、「……という論評も紋切り型ですね」とするのも、そのことに自覚的なためだろう。ーーしかし、まあなんというのか、あの思想系だか文学系だかわからない連中の生意気なツイートのなんという紋切型表現の猖獗よ!、そしてその厚顔無恥な無自覚さよ!(例外はあるぜ、もちろん、ーーそれにいわゆる「政法経」やら「理系」の大半は致し方ない、「言葉を見失った者」たちの文章なぞ毛ほども読んじゃいないだろうから)、あいつらやっぱり抜けてる(間抜け)としか思えないがね。(失礼!)


あれらの「自分の考え」の大半は、《しかるべき文化圏に属するものであれば、誰もが暗記していつでも口にする用意が整っていた台詞であり、その意味で、それをあえて言説化してみることはほとんど何も言わずにおくことに等しい。》(蓮實重彦『物語批判序説』)

現代版『紋切型辞典』の項目を作りたくなるぐらいだぜ

《「あらゆる主題について、 ……礼節をわきまえた慇懃無礼な人間たりうるために人前で口にすべきすべてのことがらが列挙されるはず」と構想されたフローベールの『紋切型辞典』……「多数派がつねに正しく、少数派がつねに誤っていると判断されてきた事実を示す」のが目論見。「文学については、凡庸なものは誰にでも理解しうるが故にこれのみが正しく、その結果、あらゆる種類の独自性は危険で馬鹿げたものとして辱めてやる必要がある。」》

…………

 かなりレヴェルを落として書いてみよう(つまりオレのレヴェルだ)。


・バッハのBWV12の二番目の合唱は、不協和音の美の極致のようなで最高です!

・カフカの『城』で、フリーダが宿の食堂の電燈のスイッチを切り、カウンター台の下でKと絡まる部分は奇跡的な官能を与えてくれます!

・クララ・ハスキルのシューマンの心に絡みついてくる親密な音色とスタイルは稀にみる詩情に溢れています!

――などと「最高」とか「奇跡的」とか「詩情あふれる」などと語られるのをきいたとき、ーーいやオレがよくやったんだがーーおい、やめてくれよ、そんなありきたりな表現は!、と先ずはそういう目というのか耳を持つ必要があるのだろうよ(オレのレヴェルなら、”ときには”、でいいよな)。


「言葉を見失った者」に属する、いや属さないまでも、彼らの文章に震撼したものたちは、こんなありきたりな表現を避けようとするに違いない、もっとも、日常会話でつい気を許して、やむなく、あるいは相手のレヴェルにあわせて、という場合はあるのだろうし、たとえばフィクションとしての使うってことはあるが。

たとえば蓮實重彦曰くは、

僕は、共同体というのは形容詞と非常に近い関係にあると思うんです。事実、ある種の申し合わせがなければ、形容詞というのは出ませんよね。それから形容詞が指示すべき対象とも違って、共同体の中で物語化されたあるイメージを使わない限り、形容詞というのは出てこないと思うんです。

その意味で、柄谷さんの文章はそれを全部廃している。つまり、共同体に対してはぶっきらぼうなんです。ところが僕の文章は非常に形容詞が多い。これはほとんど同じことをやっているんだけれども、方向ば別で、フィクションとしての形容詞を使っているわけですね。“美しい”という言葉を僕はよく使うことがあるんだけれども、その「美しい」という言葉は全部フィクションで、現実の美しさにも、共同体が容認するイメージにも絶対に到達することがないと確信しているがゆえに使っているにすぎない(『闘争のエチカ』)

蓮實重彦が「美しい」をどのように使ったか、ひとつだけ例をあげよう

「知」のあらゆる領域で、あの波がしら、あの蒸気船、あの湿った綱、あの白い壁、あの髪、あの日傘、あの扉、あの噴水、あの手袋といったものを、構図を超えて饗応させねばならない。あの声、あの身振り、あの空、あの水、あの炎、あの老眼鏡、あのペン先。そしてあの長方型、あの円運動、あの直線を共鳴させねばならない。とりわけあの美しい畸型の怪物たち、あの過激なる現在を荒唐無稽に嫉妬しなければならない。(蓮實重彦『表層批判宣言』)

しかし、ここに書かれている語句でさえ、いまでは紋切型として使い難いのではないか、「美しい畸型の怪物たち」、「過激なる現在」、「荒唐無稽に嫉妬」など、つまりは蓮實重彦の弟子筋に多用されてきたせいで。


この言葉の紋切性については、金井美恵子が吉岡実を語るなかで、つぎのように語っている。かなり長いが、ああ、そうか、と感心した箇所なので引用してみよう(前半は読み飛ばしてもよいだろうが、わたくしのメモとして引用する)。

……すると、詩人は、身を乗り出すようにして眼を大きく見開きーー自分の言葉と言うか、あらゆる開かれた、外の言葉というものに対する貪欲な好奇心をむき出しにする時、この詩人は身を乗り出して眼を大きく見開くのだがーーロリータねえ、うーん、ロリコンってのは今また流行っているんだってね、と言って笑うのだが、吉岡さんとは長いつきあいではあるけれど、いつも、このての、普通の詩人ならば決して口にはしない言葉、ロリコンといったような言葉を平気で使われる時――むろん、私はロリータ・コンプレックスと、きちんと言うたちなのだーーいわば、自分の使い書いている言葉が、ロリコンという言葉の背後に吉岡実の「詩作品」という、そう一つの宇宙として、それを裏切りつつ、しかし言葉の生命を更新させながら、核爆発しているようなショッキングな気分にとらえられる。吉岡実は、いや、吉岡さんはショッキングなことを言う詩人なのだ。また別のおり、これは吉岡さんの家のコタツの中で夫人の陽子さんと私の姉も一緒で、食事をした後、さあ、楽にしたほうがいいよ、かあさん、マクラ出して、といい、自分たちのはコタツでゴロ寝をする時の専用のマクラがむろんあるけれど、二人の分もあるからね、と心配することはないんだよとでも言った調子で説明し、陽子さんは、ピンクと白、赤と白の格子柄のマクラを押入れから取り出し、どっちが美恵子で、どっちが久美子にする? 何かちょっとした身のまわりの可愛かったりきれいだったりする小物を選ぶ時、女の人が浮べる軽いしかも真剣な楽し気な戸惑いを浮べ、吉岡さんは、どっちでもいいよ、どっちでもいいよ、とせっかちに、小さな選択について戸惑っている女子供に言い、そしてマクラが全員にいき渡ったそういう場で、そう、「そんなに高くはないけれど、それでも少しは高い値段」の丹念に選ばれた、いかにも吉岡家的な簡素で単純で形の美しいーー吉岡実は少年の頃彫刻家志望でもあったのだし、物の形体と手触りに、いつでもとても鋭敏だし、そうした自らの鋭敏さに対して鋭敏だーー家具や食器に囲まれた部屋で、雑談をし、NHKの大河ドラマ『草燃える』の総集編を見ながら、主人公の北条政子について、「権力は持っていても家庭的には恵まれない人だねえ」といい、手がきの桃と兎の形の可愛いらしい、そんなに高くはないけど気に入ったのを見つけるのに苦労したという湯のみ茶碗で小まめにお茶の葉を入れかえながら何杯もお茶を飲み、さっき食べた鍋料理(わざわざ陽子さんが電車で買いに出かけた鯛の鍋)の時は、おとうふは浮き上がって来たら、ほら、ほら、早くすくわなきゃ駄目だ、ほら、ここ、ほらこっちも浮き上がったよ、と騒ぎ、そんなにあわてなくったって大丈夫よ、うるさがられるわよ、ミイちゃん、と陽子さんにたしなめられつつ、いろいろと気をつかってくださったいかにも東京の下町育ちらしい種類も量も多い食事の後でのそうした雑談のなかで、ふいに、しみじみといった口調で、『僧侶』は人間不信の詩だからねえ、暗い詩だよ、など言ったりするのだ。

もちろん、たいていの詩人や小説家や批評家はーー私も含めてーー人間不信といった言葉を使ったりはしない。

 なぜ、そうした言葉に、いわば通俗的な決まり文句を吉岡さんが口にすることにショックを受けるのかと言えば、それは彫刻的であると同時に、生成する言葉の生命が流動し静止しある時にはピチピチとはねる魚のように輝きもする言葉を書く詩人の口から、そういった陳腐な決り文句や言葉が出て来ることに驚くから、などという単純なことではなく、ロリコンとか人間不信といった言葉、あるいは、権力は持ったけれど家庭的には恵まれなかった、といった言い方の、いわばおそるべき紋切り性、と言うか、むしろ、そうではなくあらゆる言葉の持つ、絶望的なまでの紋切り性が、そこで、残酷に、そしてあくまで平明な相貌をともなう明るさの中で、あばきたてられてしまうからなのだ。吉岡さんは、いつも、それが人工的なものであれ、自然なものであれ、平板で平明な昼の光のなかにいて、言葉で人を傷つける、いや、言葉の残酷さを、あばきたててしまう。(「「肖像」 吉岡実とあう」ーー『現代の詩人Ⅰ 「吉岡実」(中央公論社1984)』所収)

吉岡実はその詩作において、一度成功してしまった表現やスタイルは、その後二度と使わなかったそうだ。これも《あらゆる言葉の持つ、絶望的なまでの紋切り性》を避けるためということだろう。どんなすぐれた表現でも繰り返されれば、紋切型に陥りざるをえない。

ここで遠く遡って、アンドレ・ブルトンの初期の詩論のタイトル『皺のない言葉』、--つまり手垢にまみれていない言葉を追い求めた態度を思い出してもよい。(いや「皺のない」は、どういうわけか、いまだそれなりの鮮度があるがーーオレのようなブルトン共同体外の人間にとってはだぜーー、「手垢にまみれていない」という形容句は、とっくの昔に「手垢にまみれた」表現だよな)

詩人や文学者、あるいは大きく「芸術家」たちが、《創造的でありつづけることは、創造的となることよりもはるかに困難》(中井久夫)だろう。最初の成功をおさめた後、古典芸能の俳優のように芸の質を落とさないように精進しているだけの作家たちが殆んどのなかで、いやむしろ、成功作の萌芽的豊穣さを犠牲にして、光りを当てられた部分だけを反復している作家たちが多いなかで、吉岡実の「自己模倣」拒否の姿勢は特筆されてもよい。『僧侶』の成功から『サフラン摘み』の成功までの、過渡期十数年、『紡錘形』、『静かな家』、『神秘的な時代の詩』の三つの詩集はあるにしても、『僧侶』のスタイルを真似ることなく、まさに「神秘的な時代」を潜ったわけだ。


「沈黙」…。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」
…………


さてかなり寄り道したが、われわれ凡人は、「〜の語りの魔術師」などという表現を、ひそかに暗記して、しかも自分の台詞として「得意面」で繰り返し使用してしまう。

まあそれでも「最高だ」とか「奇跡のよう」、「詩情あふれる」よりはマシだがね、そんなもの要するにカワイイの類じゃないのかい? 《早い話が、べつに大人が見て、それを可愛いと思わなくても、若い子たちが“カワイイ”とかいっているのは、つまり“カワイイ”と表現したいわけではなくて、“カワイイ”ということで共同体への所属を無邪気に確認しているわけでしょう》(蓮實重彦)


古井由吉は『東京物語考』でつぎのように書いている。

徳田秋声の『足迹』。葬式の、納棺の場面がある。そろそろ葬儀屋が棺をしめる折。《「さあ皆さん打っ着けてしまいますよ。」葬儀屋の若いものと世話役の安公とが、大声に触れ立てると、衆〔みんな〕はぞろぞろと棺の側へ寄って行った。》女たちがもめる、死者が生前に好んだ人形、色々の着物を縫って着せるのが楽しみだったそれを棺に入れるかどうか。《「入れないそうです。」と、誰やらが大分経ってから声かけた。衆〔みんな〕が笑い出した。》

ーーそして、《衆〔みんな〕が笑い出した。》と、変に印象に残る一行であった、と文芸時評家の流儀に従えば、それで済みもすることなのだが、としつつ、その変な印象の由来を念入りに書き綴ることになる。

《変に印象に残る一行》、これも「最高」だとか「奇跡」とか「詩情」の類の仲間だが、まだマシというべきなのか、文芸時評家さんたちよ

しかし文芸時評などというものは、あの繊細さを誇るはずの詩人・小説家の松浦寿輝でさえ、字数制限のせいなのか、「クレオール的な混淆文体の超絶技巧、小説の自由への獰猛なマニフェスト。」 松浦寿輝 書評『晰子の君の諸問題』(朝日新聞/425日/文芸時評より)などと書いてしまうわけで、止む得ないというべきなのか。

それとも「〜の語りの魔術師」とか「変に印象に残る一行」とかほどには、紋切型への傾斜による劣化を受けていないというべきなのか……いや、「超絶技巧」「獰猛なマニフェスト」ってのは、「〜の語りの魔術師」式と同様で、「エンタ系」の書き手以外は、もはや《フィクションとして》としてしか使い難いのではないか。(わかってるよ、そんなこと言ってたら、何も書けなくなるのは)。


でも、「すぐれた」書評家たちでも、”やむなく”かどうかは知らねど、こういうことをするのだから、ツイッターで140字範囲で、どこかの馬の骨が書けば、そのほとんどはこういった表現で溢れかえる(まあ、だから何度も連発するなよな、ってことだよ、口癖のようにして。連投しなかったら目を瞑るぜ)。

それは致し方ないにしても、ときにはそれを恥じる資質があるかが、繊細さの感覚の有無というものだろう。連発して「最高」とか「詩情」「奇跡」などとノタマウ手合いはまったく恥じていないことは明らかで(しかもそんな輩が文学好きなどと自称しているなどということがあれば尚更)、お前さんは「才能がない」と一言いうしかないね。--金井美恵子あたりだったら、なんというかね、島田 雅彦とか高橋源一郎あたりまで糞味噌だぜ、彼女にかかったらーーまさかその文学好きは金井美恵子ファンではあるまいよ(まあつまりこれもオレのことだ)


このあたりを古井由吉は、最近も、《感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる》としているが、これが《変に印象に残る一行》や《〜の語りの魔術師》の「ありきたりさ」というものだ。


今どき文学上のリアリズムっていうと、まあ多少文学を考える人はまともに付き合うまいと思うでしょう。リアリズムというのは、人がどこで得心するか、なるほどと思うか、そのポイントなんですよ。つまり人は論理で納得するわけじゃない。論理を連ねてきてどこか一点で、なるほどと思わせるわけです。その説得点あるいは得心点ともいうべきところで、形骸化されたリアリズムが粘るというのが、文学としてはいちばん通俗的じゃないかと思うんです。説得点にかかるところだけはすくなくとも人は真面目にやってほしい。つまりこんな言い方もあるんです。今どき文章がうまいというのは下品なことだと。それをもう少し詰めると、感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる。筋の通ったあり来たりならいいですよ。もしもそういう筋の通った『俗』がわれわれにとって、説得点として健在ならば。しかし時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む、そういう文章のうまさ、工夫、これは僕はすべて悪しき意味の通俗だと思う。これがいわゆるオーソドックスな純文学的な文章にも、ミナサンの文学にも等しくあるわけだ。これをどうするのかの問題でね。(古井由吉・松浦寿輝『色と空のあわいで』)
ーーというわけで、紋切型やらありきたりの表現もやむえないよ、そんなものいつも気にしてたら何も書けなくなる、ただし「思考の上でのポイントに入るところで」だけは、それらの表現をさけて、「真面目に」やろうぜ。



ヴィトゲンシュタインに言わせればこういうことになる。

凡庸な物書きは、あら削りで不正確な表現を正確な表現に、あまりにもすばやく置きかえてしまわないよう、用心すべきである。置きかえることによって、最初にひらめきが殺されてしまうからである。そのひらめきは、柄は小さくても、生きた草花ではあったのだ。ところが正確さを得ようとして、その草花は枯れてしまい、まったくなんの価値もなくなってしまう。いまやそれは肥だめのなかに投げ込まれかねないわけだ。草花のままであったなら、いくらかみすぼらしく小さなものであっても、なにかの役にはたっていたのに。 ──ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン「反哲学的断章」

ーーということで、この文も「あら削りで不正確な表現」に満ち溢れているだろう、今一度読み返してみて、それに気づかないオレは「才能がない」、ミナサンと等しく(「まあ」ってのが多いよな、それくらい気づいたよ、これでも今だいぶ削ったんだがな、それと丸括弧多用だよな、この丸括弧内の文はだいたい一度書いたあと、追記しているんだがね)。


※追記:あいつらを「間抜け」というのはやや繊細さに欠けたな、ナボコフのいう如く「真の俗物」としておこう。


俗物根性は単にありふれた思想の寄せ集めというだけではなくて、いわゆるクリシェ、すなわち決まり文句、色褪せた言葉による凡庸な表現を用いることも特徴の一つである。真の俗物はそのような瑣末な通念以外の何ものも所有しない。通念が彼の全体の構成要素そのものなのである。─ナボコフ『ロシア文学講義』