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2014年7月16日水曜日

「アンコール」における「サントーム」の図

◆ラカンのセミネールⅩⅩ第八章冒頭にある図式より





・象徴界のリアル化a:対象a(象徴界を発動させる「〈現実界〉における穴」)、幻想の物語が投影されるスクリーン。

・現実界の想像化Φ:享楽を物質化するあるイメージ

・想像界の象徴化S(A/):大他者(象徴秩序)における欠如、その非整合性を意味するシニフィアン、すなわち大他者は閉じた整合的全体としては存在しないことを示す印=現実界の小さな欠片(象徴界の究極的無意味性のシニフィアン)

中心J:享楽の渦巻=サントーム

ーーとはミレール=ジジェクの説明である。


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この図式を説明している論はとても少ない。ウェブ上には、ミレール、ジジェク、そしてテヘラン在住のラカン派小説家Shahriar Vaghfipourがわずかに触れているだけだ(Benjamin, Adamite Language and Pastiche Master)。

Shahriar Vaghfipourには、ほかにラカンの愛の定義をめぐる小論”Workings of Love”(美しく簡潔なヴィトゲンシュタイン風の文)がある。


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まずジジェクが『斜めから見るlooking awry』にてパトリシア・ハイスミスの小説をもとに、ラカンの概念を説明している箇所の引用。

【ブラック・ハウス】――<対象a

舞台はアメリカの小さな田舎町。男たちは夕方になると居酒屋に集まり、昔話に花を咲かせて郷愁に浸っている。町に伝わる伝説―――たいていは彼らの若い頃の冒険談―――はどういわけかどれも、町外れの丘に立つ廃屋と関係がある。その不気味な「ブラック・ハウス」には何か呪いがかかっているらしく、男たちの間では、誰もあの家に近づいていけないという暗黙の了解がなされている。あそこに入ると生命の危険があるとすら思われている(あの家には幽霊がいるとか、孤独な狂人が住みついていて浸入する者を片っ端から殺すとか、噂されている)のだが、同時に、男たちの青春の思い出はすべてその「ブラック・ハウス」に結びついている。そこは彼らが初めて「侵犯」、とくに性体験に係わる侵犯を経験した場所なのだ(男たちは、昔あの町でいちばんきれいな女の子と初めてセックスをしたとか、あの家で初めて煙草を吸ったとかいった話を飽きもせずに繰り返し話す)。

物語の主人公は町に引っ越してきたばかりの若い技師である。彼はそうした「ブラック・ハウス」にまつわる神話を耳にして、男たちに、明晩あの不気味な家を探索してみるつもりだと告げる。その場にいた男たちはそれを聞いて、口には出さないが、激しい非難の目で主人公を見る。翌晩、若い技師は、何か恐ろしいこと、あるいは少なくとも予期せぬことが自分の身に起こるのではないかと期待して、問題の家を訪れる。彼は期待と緊張で体をこわばらせ、暗い廃屋に入り、ぎしぎし音を立てる階段を上り、一つ一つの部屋を調べるが、朽ちかけた敷物がいくつか床に散らばっているだけで、他には何もなかった。彼はすぐ居酒屋に戻り、誇らしげに、「ブラック・ハウス」はただの汚い廃屋にすぎず、神秘的なところも魅力的なところもない、と断言する。男たちはぞっとすると同時に強烈な反感を抱く。若い技師が帰ろうとしたとき、男たちの一人が狂ったように襲いかかる。技師は運悪く仰向けに地面に倒れて頭を打ち、しばらくして死ぬ。

どうして男たちは新来者の行動にこれほど激しい反感をおぼえたのであろうか。現実と幻想空間という「もうひとつの光景」との差異に注目すれば、彼らの憤りが理解できる。男たちが「ブラック・ハウス」に近づくことを自分たち自身に禁じていたのは、そこが、彼らが自分たちの郷愁にみちた欲望、すなわち歪曲された思い出を投射できる、からっぽの空間だったからである。闖入者たちは、「ブラック・ハウス」はただの廃屋にすぎないと公言することによって、男たちの幻想空間を陳腐な日常空間へと貶めたのである。彼は現実と幻想空間の差異をなくしてしまい、男たちから、彼らが自分たちの欲望を表現できるような場所を奪ってしまったのである。

(ラカン):幻想とは不可能な視線のことである。幻想の「対象」は、幻想の光景そのもの、つまりその内容ではなく、それを目撃している不可能な視線である。


【池】――<サントーム>

最近離婚した母親が幼い息子を連れてカントリー・ハウスに引っ越してくる。その裏庭に深くて暗い池があり、そこから奇怪な根が伸びている。だがその池は不思議な力で幼い息子を惹きつける。ある朝、母親は根に絡まって溺死している息子を発見する。失意の母親は園芸業者を呼ぶ。作業員たちがやってきて、根を殺す目的で池じゅうに毒を散布する。ところが毒は効果をあらわさず、根はますます勢いよく伸びていく。ついに母親は、強迫的な決心をかため、斧や鋸で根を切るという作業にみずから取り組む。彼女は、根が生きていて、彼女の行動に反応しているように感じる。攻撃すればするほど、彼女は根の罠に深くはまっていく。結局、彼女は抵抗をやめ、根の魅惑の中に息子の呼び声を聞き、根の抱擁に身をまかせることにする。

これはまさしくサントームの一例である。池は「自然の開いた傷口」、すなわち、われわれを惹きつけると同時に撥ねつける享楽の核である。


【不思議な墓地】―――Φ(通常、象徴的ファルスのマテームだがジジェクはそう書いていないことに注目しておこう)、<現実界>の想像化

オーストリアの小さな町で、地元の病院の医師たちが、助かる見込みのない患者たちに、放射線を使った奇妙な実験をする。どんなことをしても、その赤いぶよぶよしたものの成長を止めることができない。町の住人は、最初は気味悪がっていたのだが、やがてあきらめるようになり、その奇怪なこぶのおかげで町は観光地になり、やがて、その「享楽の芽」をうたった詩が書かれるようになる。

これらの奇怪なこぶを、ラカンのいう<対象a>、すなわち欲望の対象=原因と同じものだと考えるのは理論的に誤りである。<対象a>はむしろ、パトリシア・ハイスミスの別の作品に出てくる「ブラック・ハウス」のようなものである。つまり、<対象a>それ自体はごくありふれた日常的な物であるが、「<物自体>の地位に引き上げ」られたとたん、一種のスクリーンとして、つまり主体が自分の欲望を支えている幻想を投射できるような空っぽの空間として機能しはじめる。われわれはこの<現実界>の剰余に突き動かされて、享楽との最初の外傷的な出会いを繰り返し何度も物語る。「ブラック・ハウス」の例は、<対象a>が純粋に形式的なものであることを明快に示している。それは空虚な形式であり、誰もが自分の幻想でそれを埋めることができる。

それとは対照的に、オーストリアの小さな町の墓地に生えてきたこぶは、あまりにもありありとそこに現前していて、ある意味で、形式のない内容であり、その内容はその大きな不活発な存在性、つまり気持ちの悪いぶよぶよした塊を、われわれに押しつけてくる。

この両者の対立の中に欲望と欲動の対立を見てとることは難しくない。ブラック・ハウスのような<対象a>は、われわれの欲望を発動させる到達不能な剰余の空無に名前を与えるが、一方、池が例証しているものは不活性な対象、すなわち欲動がそのまわりを巡回している享楽の具現化である。欲望と欲動の対立はまさしく次のような事実の中にある。すなわち、欲望は定義からしてある弁証法に囚われており、いつでもその対立物に変わりうるし、一つの対象から別の対象へと横滑りしうる。欲望はその対象と思われるものを絶対に目指さず、つねに「何か他のものを欲する」のである。それに対して、欲動は、不活性的であり、弁証法的な運動に巻き込まれることに抵抗し、その対象のまわりを巡回する。その対象は、欲動がそのまわりで脈動している点に固定されている。

It would, however, be a theoretical mistake to equate these strange protuberances with the Lacanian objet petit a, the object-cause of desire. The "object small a" would be rather the "black house" in another Patricia Highsmith story (cf. chapter 1): a quite ordinary, everyday object that, as soon as it is "elevated to the status of the Thing," starts to function as a kind of screen, an empty space on which the subject projects the fantasies that support his desire, a surplus of the real that propels us to narrate again and again our first traumatic encounters with jouissance.The example of the "black house" demonstrates clearly the purely formal nature of the "object small an\ it is an empty form filled out by everyone's fantasy. In contrast, the protuberances at the Austrian cemetery are almost too present, they are in a way a formless content forcing upon us the massive, inert presence, their nauseous, glutinous bulk. It is not difficult to recognize, in this pposition, the opposition between desire the object small a names the void of that unattainable surplus that sets our desire in motion, while the pond exemplifies the inert object, the embodiment of the enjoyment around which the drive circulates. The opposition between desire and drive consists precisely in the fact that desire is by definition caught in a certain dialectic, it can always turn into its opposite or slide from one object to another, it never aims at what appears to be its object, but always "wants something else." The drive, on the other hand, is inert, it resists being enmeshed in a dialectical movement, it circulates around its object, fixed upon the point around which it pulsates.

しかし、この対立ですら、われわれが精神分析において出会う対象の幅をすべて網羅しているわけではない。第三の、おそらく最も興味深い対象があり、それは右に述べた欲望の対象と欲動の対象の対立を擦り抜ける。そうした対象は、たとえば、パトリシア・ハイスミスの『ボタン』におけるボタンのようなものである。


【ボタン】―――S(A/)、<現実界>の小さなかけ


マンハッタンに住む一家にダウン症の子どもいる。小さくて太ったその障害児は何一つ理解することができず、ただぼうっと笑っていて、食べ物を吐き出す。父親は、このダウン症の子が生まれてからかなり経っていても、その子に慣れることができないでいる。彼にはその子が、無意味な<現実界>の闖入、神あるいは運命の気まぐれ、まったく身に覚えのない罰としか思えない。その子のクックッという声は彼に毎日、世界の非整合性とまったくの偶然性、すなわち究極的な無意味さを想起させる。ある晩遅く、彼はその子に(そして、嫌悪感を抱きながらも自分の障害児に対してなんとか愛情を抱こうとする妻にも)辟易して、人気のない通りを散歩する。暗い角で、彼は酔っ払いとぶつかって、取っ組み合いの喧嘩になり、運命の不公平にかねてから抱いていた怒りが爆発して、その酔っ払いを殺してしまう。気がつくと、彼は酔っ払いが着ていたオーバーから取れたボタンを握りしめている。だが彼はそれを捨ててしまわずに、いわば思い出の品として取っておく。それは<現実界>の小さなかけらであり、運命の不条理を思い出させるものであると同時に、自分が少なくとも一度は、運命に劣らず無意味な行為によって運命に復讐できたという事実を思い出させるものである。そのボタンのおかげで、以後、彼は癇癪を起こさなくなる。それは、彼が障害児を抱えているという辛い日常生活と折り合いをつけていけることを保証する、いわばお守りのようなものである。

このボタンはどのような働きをしているのか。<対象a>とは違って、このボタンにはなんらかの換喩的・到達不可能的なところがない。それはただの<現実界>の小さなかけらであり、他のあらゆる対象と同じく、われわれはそれを手に持って操作することができる。また、墓地に生えてきたこぶとは違って、われわれを魅惑する恐ろしい対象でもない。それどころか、このボタンはわれわれを落ち着かせ、安堵させる。それが自分の手の中にあるだけで、自分は世界の非整合性や不条理性を耐え忍んでいけるであろうことが保証されるのだ。

したがって、このボタンのパラドックスは次のようなものである。すなわち、それは、世界の究極の無意味性を証明している<現実界>の小さなかけらであるが、われわれが世界の無意味性をそのボタンの中に凝縮し、位置づけ、物質化するかぎり、つまりその対象が世界の無意味性を表象する役割を果たしているかぎり、それは、われわれが非整合性の直中で持ちこたえてくれるのを助けてくれるのである。


ジジェクは、これらの四つのタイプの対象(「ブラック・ハウス」墓地に生えたこぶ、ボタン、池)は、ラカンの『ENCORE』の第七章冒頭にある図式を使って、表現することができる、とする(冒頭に示したように、これは第七章ではなく、第八章の誤記)。





ジャック=アラン・ミレールが指摘しているように、この図式における三本のベクトルは因果関係を示しているわけではない。I→Sは「<想像界>が<象徴界>を決定する」という意味ではなく、むしろ<想像界>の象徴化の過程を示している。したがって<対象a>は、象徴化を発動させる「<現実界>における穴」である(たとえば「ブラック・ハウス」のような、われわれの幻想の物語が投影されるスクリーンである)。Φ(capital phi)、すなわち「<現実界>の想像化」は、吐き気を催すような享楽を物質化するある種のイメージである(たとえば、オーストリアの墓地に生えたこぶ)。そして最後にS(A/)、すなわり<大他者>(象徴的秩序)における欠如、その非整合性を意味するシニフィアン、つまり「<大他者>は(閉じた整合的全体としては)存在しない」ことを示す印は、<現実界>の小さな手かけらであり、(象徴的)世界究極的無意味性のシニフィアンとして機能する(たとえばボタン)。中央の深淵(享楽をあらわすJの文字を囲む風船みたいな部分)はもちろん、パトリシア・ハイスミスの小説における池のように、今にもわれわれすべてを呑み込もうとしている享楽の渦巻であり、われわれを破滅へと誘う深い穴である。おそらくこの三角形の各辺上にある三つの対象はそれぞれ、中心にあるこの外傷的な深淵から一定の距離を保とうとする三種類の方法である。そこで次のように、ラカンの図式に、パトリシア・ハイスミスの小説に出てくる対象の名前をいれてみることができる。

As Jacques-Alain Miller has pointed out, the three vectors in this schema do not indicate a relation of causality: I—>S does not mean "the imaginary determines the symbolic," it marks rather the process of the symbolization of the imaginary. The object small a is thus the "hole in the real" that sets symbolization in motion (the "black house," for example: the screen for the projection of our fantasy narrations); capital phi, the "imaginarization of the real," is a certain image that materializes the nauseous enjoyment (the protuberances at the Austrian cemetery, for example); and finally S(A/), the signifier of the lack in the big Other (the symbolic order), of its inconsistency, the mark of the fact that "the Other (as a closed, consistent totality) doesn't exist," is the litde bit of the real functioning as the signifier of the ultimate senselessness of the (symbolic) universe (the button, for example). The abyss in the middle (the balloon encircling the letter }—jouissance) is of course the whirlpool of enjoyment threatening to swallow us all, like the pond in Patricia Highsmith's story: the pothole exerting its fatal attraction. The three objects on the sides of the triangle are perhaps nothing but the three ways to maintain a kind of distance toward this traumatic central abyss; we could thus repeat Lacan's schema by inserting in it the names of the objects found in Patricia Highsmith's stories.




※なおジジェクは『イデオロギーの崇高なる対象』にて次のように述べている。

【対象a】:大衆文化における最も有名な<対象a>は、ヒッチコックのマクガフィンである。マクガフィンとは事件の発端となって物語を出発させる「秘密」であるが、それ自体はまったく取るに足りないもの、「なんでもない」ものであり、ただの空無にすぎない(暗号化されたメロディ、秘密の公式、等々)。

あるいはヒッチコックの別の映画から。

【<現実界>の想像化】:大文字のファイとしての享楽の恐ろしい具現化(鳥、巨大な彫像、等々)

【<現実界>の小さなかけら】:S(A/)として循環する「現実界の断片」(結婚指輪、ライター、等々)

あるいは、三種類の「消え去る婦人」

『三人の妻への手紙』のアティ・ロス、すなわち「ふつうの」結婚の挫折と行き詰まりを暴露する「もう一人の女」は、いわばS(A/)、すなわち他者の非整合性のシニフィアン。

『バルカン超特急』で消える魅力的な老婦人は、<対象a>として、すなわち謎を象徴化したい、秘密を解明したいというわれわれの欲望を掻き立てる対象=原因として機能している。

『めまい』のマデリンは、大文字のファイ、すなわち死にいたる享楽の魅惑的なイメージ。

つまり、これらの三人の女性は、中心のJ(サントーム)から距離を保つ、すなわち深淵に呑み込まれるのを避けるための三つの方法に他ならない、と。