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2013年5月15日水曜日

コード・レッド

「この今」流行中の、時事問題をめぐっては、あまり書かないようにはしているのだが、二日ばかりおいたので、「政治家」や「評論家」の発言への直接の批判(吟味)はさけ、まあ少しメモ程度に。

…………

中井久夫の『復興の道なかばで――阪神淡路大震災一年の記録』に兵士の「戦闘消耗」をめぐる叙述がある。

ベテラン下士官などが、馬鹿馬鹿しい、どうでもなれ、と銃を捨てて寝そべってしまう現象(……)。これを防ぐために、ナチス・ドイツは末期まで三週間ごとに休暇を与え、ベトナムの米軍はヘリコプターでサイゴンに兵士を送り返していたのである。 

サイゴンの目抜き通りのバーには、十数年前はその名残りが残っていて、当時の生き残りのやり手婆風の棺桶に半分足を突っ込んだようなばあさんが、百戦錬磨の風情でカウンターの奥で眼を光らせて、客の風体・様子をみて、いくつかの「倒錯的カード」を出して誘ってくる。中部のダナンのバーなんかもそうで、、そこには、アメリカ海兵隊の大規模な米軍基地があり中央直轄市だったわけだけれど、やっぱり得体の知れないばあさんがいたね。 最近は代替わりが進んで、かつての「隠微さ」はほとんど消えてしまったけれど。

中井久夫は、別のエッセイでだが、しばしば、トインビーの《人間の二大悪は戦争と階級である》を引用しつつ「人の心性」について語っているのだけれど、戦争状態の兵士にとっては、「サイゴン」入りはやむえないのだろうよ。

女性兵士を採用した米軍の内実はこのようなのだから。
米英軍主導の侵攻から20日で10年を迎えるイラクや国際部隊の駐留が続くアフガニスタンに派遣された米女性兵士延べ28万人の3割以上が、上官らから性的な暴行を受けていたことが分かり、米国内で「見えない戦争」と問題視されている。連邦上院の軍事委員会で13日、「軍内性的トラウマ(MST)」と呼ばれる心的ストレスに関する公聴会が初めて開かれた。新たな被害を恐れ沈黙を余儀なくされてきた被害者は「風穴が開いた」と歓迎している。 (駐留部隊:米女性兵士の3割、軍内部でレイプ被害


さる話題の議論のたぐいがあると、「フェミニスト」やフェミ親和を気取る「思想家」たちが、あいもかわらず判で押したように、ジェンダーとは、文化や社会、歴史的に構成されたもの云々とか、家父長制社会のヘテロセクシズムによる暴力公認の生き残りとかの指摘があるのだけれど、ジェンダー研究に疎いわたくしのようなものはどうもピンとこない。

レイプとは、「文化や社会、歴史的に構成されたもの」に関わるだけではなく、たとえば、女性が強くなって、かりに男性を強姦しようとすることが頻発しても、男性は、身体構造的に、レイプされにくい特徴がある。つまり恐怖や嫌悪で勃起しないことが多い(参照:メイル・レイプ)。(張形のたぐいで菊座を狙われたり、時間をかけて嬲られたら別かもしれないが、――いや漢字は「嫐る」のほうだがね) 

もっとも、男性でさえ、暴力と強姦は両立しにくいのではないか、という指摘がある。
強姦の際に勃起するのはごく一部の男性であろうと思えならない。暴力をふるう時には勃起できないのが生理的に順当だからである。射精に至っては、交感神経優位系が副交感神経優越系に急速に交代しなかればならず、それが暴力行為の最中に起こるのは生理学的に理解しがたい。しかし、そういう男がありうるのは事実で、古典的な泥棒は侵入してまず排便したというが、それと似ていようか(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収pp.314-315)


さて、ここで ごく一般的な戦争と強姦の関わりようの見解を挙げよう。

すさまじい殺意と暴力の激発する戦争において、兵士たちの心は鬼畜と化すゆえに、無垢なる民衆を殺戮し、女性を強姦するという不幸な偶然が生じるのは戦争の必然であると捉える見解は、意外に根強い。戦場において一切の抑制から解き放たれた性的欲望が、野性と化して女性を襲うのだとする見解も有力である。これらの見解は男性のみならず、女性にも内面化されており、戦争と強姦とは一体的とみなされてきた。(大越愛子「従軍慰安婦」問題のポリティックス『批評空間』1996-Ⅱ所収) 

大越さんの論は、この見解への批判として書かれているのだけれど、まあ、この見解はやっぱり根強いんだよな 。


ビーヴァーによると、赤軍兵士のドイツ人女性に対するレイプは4つの段階に分けられるという。第一段階は、ドイツに攻め入り、その領内の生活水準の高さを知った赤軍の兵士たちが怒りを燃やして、その怒りの矢を女性に向けていた段階。この段階のレイプには激しい暴力を伴っている。第二段階はやや落ち着いたものの、性的な戦利品として扱った段階。

 ここまでは「戦時においては無規律な兵隊が、恐怖も処罰もなければ急速に原始的なオスの性衝動に立ち返る」段階だと思う。しかも「赤軍の実例が示すように、集団レイプの慣行が団結を固める形態のひとつにさえなりうる」のだから始末におえない。

 次の段階はドイツ人女性の側からの接近として考えられる。レイプに暴力が伴わなくなれば、飢餓が進行する中であれば、特に食べさせなければならない子供をかかえている女性は、食物と交換で積極的に春をひさぐ段階だ。第二次大戦期の米軍兵士にレイプが必要なかったのも、大量にタバコや食料を保有していたからだ、としている。この段階でレイプと性的共用の区別はあいまいになり、最終的な第四段階では、「占領地妻」として同棲するようになっていったという。社会的な段階とでも呼べるだろうか…。

被害を受けたのは一般のドイツ人だけではなかった。古くからのドイツ共産党員たちは、解放軍として赤軍を迎え、自分たちの妻やガールフレンドを炊き出しや看護のボランティアとして差し出したのだが、そうした人たちも集団レイプの対象となり、比較的裕福な層が収容されていたユダヤ人収容所でも、解放されたとたんに女性たちはレイプの対象になっていったという。(『ベルリン陥落 1945』その2

兵士による主体性の回復のためのレイプという指摘もある。

軍服を着せられているということは、要するに、兵隊にならされているということだ。兵隊とは、つまるとこり、「もの」にほかならない。主体性を剥奪されて客体と化せしめられた存在だ。この点では、「慰安婦」もおなじ存在であるのだろう。

 ただ、「慰安婦」がほとんど絶対的に客体と化せしめられているのに対して、兵隊のほうには、つかのまであれ、失われたその主体性(個人・自由)をとりもどしえたかのように幻覚しうるときがある。性的行為においてだ。

 そこにおいては、彼は、かろうじて、「兵」という客体ではなく「男」という支配的主体ー快楽を味わいうる自由な個人ーでありうるかのように感じることがーよし錯覚であれーできる。また、そうありたいと望むからこそー意識をするとしないとにかかわらず、兵隊は「女」である「慰安婦」を求めるのだ(彦坂諦『男性神話』)。
上記の引用文は、「男性の<性>の謎をめぐって」からの孫引きであり、そこには、他にも、暴力と性をめぐっての示唆豊かな引用がある。

…………


まあかりに「政治家」や「評論家」の話の内容には間違いがなくても、「建前」と「本音」の話があって、ホンネはいうべきではないという議論も当然のごとく出てきている。それについては、柄谷行人と浅田彰の対話をまずは思い出しておこう。


柄谷〕夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。

むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。

(浅田)理念は絶対にそのまま実現されることはないのだから、理念を語る人間は何がしか偽善的ではある…。

(柄谷)しかし、偽善者は少なくとも善をめざしている…。

(浅田)めざしているというか、意識はしている。

(柄谷)ところが、露悪趣味の人間は何もめざしていない。

(浅田)むしろ、善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思いますね。



(柄谷)日本人は異常なほどに偽善を嫌がる。その感情は本来、中国人に対して、いわば「漢意=からごごろ」に対してもっていたものです。中国人は偽善的だというのは、中国人は原理で行くという意味でしょう。中国人はつねに理念を掲げ、実際には違うことをやっている。それがいやだ、悪いままでも正直であるほうがいいというのが、本居宣長の言う「大和心」ですね。それが漱石の言った露悪趣味です。日本にはリアル・ポリティクスという言い方をする人たちがいるけれども、あの人たちも露悪趣味に近い。世界史においては、どこも理念なしにはやっていませんよ。



(浅田)日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。

(柄谷)偽善には、少なくとも向上心がある。しかし、人間はどうせこんなものだからと認めてしまったら、そこから否定的契機は出てこない。自由主義や共産主義という理念があれば、これではいかんという否定的契機がいつか出てくる。しかし、こんなものは理念にすぎない、すべての理念は虚偽であると言っていたのでは、否定的契機が出てこないから、いまあることの全面的な肯定しかないわけです。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』浅田彰 小学館1994 P243-248)

でも、この議論よりも先に、米軍内部の不文律、「コード・レッド」に触れてしまったのだろう、と想起したけれどね。 要するに、「建て前」=自我理想は、それをささえる不問律=猥雑な超自我による掟によって支えられているのであり(そうだなよ、われわれの小学校時代から)、「建て前」と「本音」の二項対立を指摘しただけではなく、{「建て前」/「本音」}という分子をささえる分母が自我理想である「建て前」ではなく、猥雑な超自我の掟としての「本音」であることを、図らずも突いてしまったんじゃないか。

第二項は、「第一項/第二項」の対立に属すると同時に、第一項において不可避的に生じる「不両立関係」(パラドックス)を回避するために見出されるメタレベルであり、そしてこの上下(クラスとメンバー)の混同を禁止するところに、いわば「形而上学」がある。つまり、プラトン以来の哲学は、たんなる二分法によるのではなく、この対立がもつ自己言及的なパラドックスを“禁止”するところにあった。
しかし、それはけっして“禁止”できない、というのは、それは形式的にコンシステントであろうとするかぎり、「決定不能性」におちいるからである。(柄谷行人『隠喩としての建築』(講談社版)pp.115-119)
柄谷行人は、ペレルマンの『レトリックの帝国』における「概念の分割」の指摘やら、初期デリダの「自己再固有化の法則」などを援用しつつ、上のように書いている。

さて最後に自我理想=建て前と、超自我=不問律の掟(コード・レッド)を語るジジェクを引用する。

公的な法はなんらかの隠された超自我的猥褻さによる支えを必要とする事実が、今日ほど現実的になったことはかつてない。ロブ・ライナー監督の『ア・フュー・グッド・メン』を思い出してみよう。ふたりの米海軍兵士が、同僚を殺した罪で軍法会議にかけられる。軍検察官は計画的殺人だと主張するが、弁護側(トム・クルーズとデミ・ムーアという最強コンビだから裁判に負けるはずはない)は被告人たちがいわゆる「コード・レッド」に従っただけなのだということを立証してみせる。このは、海兵隊の倫理基準を破った同僚を夜ひそかに殴打してもよいという、軍内部の不文律だった。このような掟は違法行為を宥恕するものであり、非合法であるが、同時に集団の団結を強化するという役目をもっている。夜の闇に紛れ、誰にも知られず、完璧におこなわれなければならない。公の場では、誰もがそれについて何も知らないことになっている。いや積極的にそのような掟の存在を否定する(したがって映画のクライマックスは、予想通り、殴打を命じた将校ジャック・ニコルソンの怒りの爆発である。彼が公の場で怒りを爆発させたということは、彼の失脚を意味する)。

このような掟は、共同体の明文化された法に背いている一方で、共同体の精神を純粋な形で表象し、個々人に対して強い圧力をかけ、集団の同一化を迫る。明文化された<法>とは対照的に、このような超自我的で猥雑な掟は本質的に、人から見えない所で密かに口にされる。そこに、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』の教訓がある。カーツ大佐という人物は野蛮な過去からの生き残りなどではなく、現代の権力そのもの、<西洋>の権力の必然的結果である。カーツは完璧な兵士だった。そしてそれゆえに、軍の権力システムへの過剰な同一化を通じて、そのシステムが排除すべき過剰へと変身してしまったのである。『地獄の黙示録』の究極の洞察はこうだーー権力はそれ自体の過剰を生み出し、それを抹殺しなければならなくなるが、その操作は権力が戦っているものを映し出す(カーツを殺すというウィラードの任務は公式の記録には残らない。ウィラードに命令を下す将軍が指摘するように、「それは起きなかった」ことなのである。)(ジジェク『ラカンはこう読め!』P152-153)
まあ、こう引用したからといって、レイプを米軍が裏では許容していると言いたいわけではないが、米軍内の女性兵への強姦の記事が事実だったとして、どのように扱っているんだろうね。


それ以外に、今回も同様、反政治家、反評論家の発話が氾濫するなかで、彼らの批判のありようは、次の三つの区別がまったくなされず、趣味判断の領域での批判か、それにわずかに道徳判断の領域が絡み、認識的な判断に突っ込むものは殆んど目に入ってこないということだね、まあさっと眺めただけだけど。その相変らずの「感情家」ぶり、ナントカナラナイカネ。主張者が「理性判断」、(真か偽か)で語っているのに、応答する側は「趣味判断」(快か不快か)や「実践判断」(善か悪か)で応答するため、えんえんと徒労な議論が続くといういつものやつだよ

カントは、ある対象に対するわれわれの態度を、これまでの伝統的区別にしたがって、三つに分けている。ひとつは、真か偽かという認識的な関心、第二に、善か悪かという道徳的な関心、もうひとつは、快か不快かという趣味判断。(柄谷行人「建築の不純さ」


→ 「戦争と性欲処理」に続く