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2014年7月5日土曜日

「何度やってもダメだったからって、それがどうしたのだ」(ベケット)

シニカルな人はラカンのいうところの〈さまよえるだまされない者〉なのだ。彼らは幻想の象徴的効用を、幻想が社会の現実を生みだす活動を左右することを、理解していない。シニシズムの見解は大衆の知恵である。典型的なシニックなら、さしずめ声をひそめ て耳打ちするところだ。「わからないか? 世の中[金、力、セックス……]だってことよ。ごりっぱな主義だの価値観だのは、無意味なカラ文句にすぎな い」。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』栗原百代訳)
cynics are les non-dupes who errent; what they fail to recognize is the symbolic efficacy of illusions, the way they regulate activity which generates social reality. The position of cynicism is that of popular wisdom-the paradigmatic cynic tells you privately, in a confidential low-key voice: "But don't you get it? That it is all really about [money, power, sex . . . ], that all high principles and values are just empty phrases which count for nothing?"(First As Tragedy, Then As Farce [Slavoj Zizek]) 

ここに〈さまよえるだまされない者〉とされている語句は、通常「騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent」、あるいは「騙されない人は間違える」とも訳される。訳者の栗原氏は”who”が挿入されているためにこのように訳されたのだろうか。

とみれば“illusion”が“幻想”と訳されているが、”ファンタジーfantasy”が、通常「幻想」と訳されているはずで、これでは区別がつかない。わたくしの知るかぎり “illusion”は「空想」とか「錯覚」と訳されるのがフロイト、ラカン系譜の翻訳の最近の慣例のはずだが、たまたま気づいただけで、あまりえらそうなことは言えない。このあたりは今でも混乱があるのだろうし、わたくしもしばしば間違える(たとえばフロイトの人文書院旧訳の『ある幻想の未来』 Die Zukunft einer Illusionは、岩波新訳では『ある錯覚の未来』とされてはいる)。

もっともここでは翻訳にいちゃもんをつけるために書いているわけではない。上の文のようなことーー「わからないか? 世の中[金、力、セックス……]だってことよ。ごりっぱな主義だの価値観だのは、無意味なカラ文句にすぎな い」ーーは、シニック派によってしばしば言われるだろうことを指摘したいだけだ、たとえば「デモなんてやったって変わりゃしないよ」と。

ところで、ラカンの「騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent」は、これもラカンの定式「真理は取り違えから現れるla vérité surgit de la méprise」(あるいは「真理とは知を想定された主体の取り違えから現われる」)に触れられつつ、ジジェクによって説かれている。

Lacan’s dictum la vérité surgit de la méprise—more precisely, de la méprise du sss (sujet supposé savoir): one cannot get directly at the inexistence of the big Other, one has first to be duped by the Other, because le Nom‐du‐Père means that les non‐dupes errent: those who refuse to succumb to the illusion of sss also miss the truth concealed by this illusion.(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”2012)

”le NomduPère(父--名)”については藤田博史氏が次のように説明している、

Les non-dupes errent 「騙されない人々は彷徨う」。この文章を耳で聞くと「父の名」Les Noms-du-Père と同じ音になります。つまり「騙されない人々は彷徨う」という表現の背景には、騙されないために必要なものは、Nom-du-Père ですよ、「父の名」ですよ、という暗示がある》(藤田博史セミネール断章 2012.3より

ーーこの説明の後半にはにはいささかの異和感があるが、ここでは触れない(参照:騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent)。いまは《Les non-dupes errent 「騙されない人々は彷徨う」。この文章を耳で聞くと「父の名」Les Noms-du-Père と同じ音》になるという指摘を尊重する。

騙されないために必要なものが、「父の名」であることについてのジジェクの説明を聞いてみよう( 以下の文の「象徴的機能」を「父の名」として読もう)。

マルクス兄弟の映画の一本で、嘘を見破られたグルーチョが怒って言う。「お前はどっちを信じるんだ? 自分の眼か、おれの言葉か?」 この一見ばかばかしい論理は、象徴的秩序の機能を完璧に表現している。社会的仮面のほうが、それをかぶっている個人の直接的真実よりも重要なのである。この機能は、フロイトのいう「物神崇拝的否認」の構造を含んでいる。「物事は私の目に映った通りだということはよく知っている。私の目の前にいるのは堕落した弱虫だ。それにもかかわらず私は敬意をこめて彼に接する。なぜなら彼は裁判官のバッジをつけいてるので、彼が話すとき、法が彼を通して語っているのだ」。ということは、ある意味で、私は自分の眼ではなく彼の言葉を信じているのだ。確固たる現実しか信じようとしない冷笑者(シニック)がつまずくのはここだ。裁判官が語るとき、その裁判官の人格という直接的現実よりも、彼の言葉(法制度の言葉)のほうに、より多くの真実がある。自分の眼だけを信じていると、肝腎なことを見落としてしまう。この逆説は、ラカンが「知っている[騙されない]人は間違える(Les non-dupes errent)」という言葉で言い表そうとしたことだ。象徴的機能に目を眩ませることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているということである。美徳について説教する腐敗した司祭は偽善者かもしれないが、人びとが彼の言葉に教会の権威を付与すれば彼の言葉は人びとを良き行いへと導くかもしれない。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

…………

ところでもうひとつ、ジジェクの『ポストモダン共産主義』にはレーニンの「最初から始めるto begin from the beginning」をベケットの“Worstward Ho「いざ最悪の方へ」” のなかの言葉"Try again. Fail again. Fail better“と反響させて語る箇所がある。

Lenin concludes: "Communists who have no illusions, who do not give way to despondency, and who preserve their strength and flexibility 'to begin from the beginning' over and over again in approaching an extremely difficult task, are not doomed (and in all probability wil not perish):" This is Lenin at his Beckettian best, echoing the line from Worstward Ho: "Try again. Fail again. Fail better:' His conclusion-" to begin from the beginning over and over again"-makes it clear that he is not talking about merely slowing down progress in order to fortify what has already been achieved, but more radically about returning to the starting point: one should "begin from the beginning:' not from the peak one may have successfully reached in the previous effort.

ベケットの文は前段も含めて引用すれば次のようになる。

Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.--Samuel Beckett "Worstward Ho" (1983)

この文が次のように訳されていることにたいしていささか齟齬を感じている方の記事に出会った、《やることなすこと、何もかもうまく行かなかったとしても、気にすることはない。 またやって、また失敗すればいい。前より上手に失敗すればいい。》

次のようなほうがいいんじゃないの? と。とても良い訳だ。

何度やってもダメだったからって、それがどうしたのだ。もう一度やって、もう一度ダメになればいいのだ。以前よりマシならば、それでいいのだ。

ーーとすれば現在の文脈なら、反原発官邸前デモ、反秘密保護法デモ、反集団的自衛権のデモ、《何度やってもダメだったからって、それがどうしたのだ。もう一度やって、もう一度ダメになればいいのだ。以前よりマシならば、それでいいのだ》としたいところだが、《前より上手に失敗している》かどうかは知るところではない。


…………

さて冒頭の文脈に戻れば、ジジェクのいう「象徴的虚構の効果」は、カントのいう「理論的信」やら「統整的理念」とどう異なるのだろう。似たようなものか。--いずれにせよシニカル批評派は、この「理論的信」がないひとたちのことをいうのだろう。とすれば、彼らは「騙されないから彷徨う」のだ。それはもっとモラリスト風にいえば、《幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ》(アラン)を知らない人たちのことであるとしてもよい。

《私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。》(アラン「オプチミスム」

さてここで柄谷行人の「原爆製造」と「詰め将棋」の話、--これは過去から(『探求Ⅰ』だったか『探求Ⅱ』の頃から)繰り返し語られる話だがーーそれを挿差しておこう。

一般的な通念では、カントは、『純粋理性批判』において、感性を触発してそれに内容を与えるものを物自体とみなし、『実践理性批判』では、超越論的主観を物自体とみなしたとされる。つまり、前者は理論的な問題、後者は実践的(道徳的)問題だとみなされている。しかし、このような区別はおかしい。たとえば、ハンナ・アーレントは、「理論的」の反対概念は「実践的」ではなく「思弁的」であるといっている。実は、科学における理論も「実践的」であるほかない。それは自然が解明されるはずだという「統整的理念」なしにはありえないからだ。カントは「理論的信」についてこう語っている。

《ところで実践的判断の意見には信という語が適合するから、これに倣って理論的判断における信を理論的信と名づけてもよい。私達に見える遊星のうちの少なくともどれか一つに住民がいるということを、もしなんらかの経験によって確めることができるものなら、私はこの命題の真であることに対して全財産を賭けたいとさえ思っている。つまり私が言いたいのは、地球以外の世界にも居住者があるということは、単なる意見ではなくて強固の信だということである(私はかかる確信が正しいということに対しては、私の生涯の数多の利益を賭けてもよいくらいである)。(『純粋理性批判』)

これは、科学認識(綜合的判断)はスペキュレーション(思弁)ではないが、ある種のスペキュレーション(投機)をはらんでいるということを示している。だからこそ、それは「拡張的」でありうるのである。

しかし、理論的/実践的を簡単に分けることができないように、物自体を物と他我(主観)に分けて考えることはできない。科学的仮説(現象)を否定(反証)するのは、物ではない。物は語らない。未来の他者が語るのだ。しかし、この他者は、反証するためには、必ず感性的なデータ(物)を伴っていなければならない。したがって、物自体が他者であるということは、物自体が物であるということと背反しない。肝心なのは、物であれ、他者であれ、その「他者性」である。とはいえ、それは何ら神秘的なものではない。「物自体」によって、カントは、われわれが先取りできないような、そして勝手に内面化でいないような他者の他者性を意味している。したがって、カントは、われわれが現象しか知りえないということを嘆いているのではない。「現象」の認識(綜合判断)の普遍性は、むしろそのような他者性を前提するかぎりで成立しうるのである。

カントは、そうした他者を先取りしてしまうことを「思弁的」と見なす。だが、他方で、彼はそれが仮象であるとしても不可欠な仮象(超越論的仮象)であると考えた。たとえば、われわれが自然を認識できるだろうという「統整的理念」は、事実、発見的に働くのである。マンハッタン・プロジェクトに関与したというノーバート・ウィーナー(サイバネティックスの創始者)は、原爆製造に成功した後、防諜上最大の機密とされたのが、原爆の製造法ではなく、原爆が製造されたという情報であったといっている。同時期にドイツ・日本でもそれぞれ原爆の開発を進めていたので、それが製造されたという事実がわかれば、たちまち開発に成功するからである。詰め将棋の問題は実戦におけるよりはるかに易しい。かならず詰むという信が最大の情報である。自然界が数学的基礎構造をもつというのもそのような理論的な「信」である。この意味で、もし近代西洋においてのみ自然科学が誕生したとしたら、このような「理論的信」があったからだといってよい。(柄谷行人『トランスクリティーク』 p83-84)


「統整的理念」は「構成的理念」とは異なることに注意しなくてはならない。

理性の統整的使用と構成的使用の差異は、事前と事後という立場の差異として考えることができる。出来事を、事後の立場からふりかえって見るとき、理性の構成的使用が可能である(規定的判断力)。事前の立場から見ると、理性の統整的使用が必要となる(反省的判断力)。

 一般に、カントは、事前の立場に立っている。未知の未来に対して、何らかの目的論を想定する必要がある。理性の統整的使用とは、目的がある「かのように」想定することである。それに対して、ヘーゲルは事後の立場に立つ。つまり、すべてを結果から見る。「本質は結果においてあらわれる」。

 ヘーゲルに対する批判者として、キルケゴールがいる。彼の考えでは、いまここにイエスがいるとしよう。このみすぼらしい男をキリスト(メシア)だと信じるのは、「命がけの飛躍」である。ところが、ヘーゲルは、イエスがキリストであるということは、現にキリスト教が世界的に広まっているという事実によって証明されるという。

 キルケゴールは、「思弁は後ろ向きであり、倫理は前向きである」といった。その意味で、彼はヘーゲルからカントに戻っている。実は、マルクスも同様である。彼もヘーゲルからカントに向かったのだ。未来に向かって現状を乗り越える、つまり事前の立場に立つ者は、理性の統整的使用を必要とする。マルクスは歴史に関して構成的理念を一切斥けた。つまり、未来社会についての設計を語らなかった。彼にとって、コミュニズムは統整的理念である。そして、彼はそれを生涯保持した。

 しかるに、コミュニズムを歴史の必然として、社会を理性的に構成しようとしたマルクス主義者は、ヘーゲルの事後的な立場を、事前の立場に持ち込んだことになる。そのようにして、統整的理念と構成的理念が混同される。「理性の構成的使用」は暴力的強制となる。その結果、理念一般が、あるいは理性一般が否定されるようになった。(柄谷行人 第一回 長池講義 講義録


《理性の統整的使用とは、目的がある「かのように」想定することである》と書かれている。他方、ヘーゲルの人であるジジェクはこの同じ「かのようにAS IF」を使って、柄谷行人のカント顕揚ではなく、ヘーゲル顕揚に向かう→ • PHILOSOPHY •.........Spinoza, Kant, Hegel and... Badiou!(.Slavoj Zizek

ーーというわけだが、ここでは柄谷行人のジジェクの主著『パララックス・ヴュー』の書評から次の文を抜き出すだけにしておく。

私がカントのパララックス的把握を重視したのは、それによってヘーゲルによる弁証法的総合を批判するためであった。しかし、ジジェクは、ヘーゲルにおける総合(具体的普遍)にこそ、真にパララックス的な見方がある、したがって、私のヘーゲル観は的外れだ、というのである。それに対して、私は特に、反対しない。私のカントが通常のカントと異なるのと同様に、ジジェクのヘーゲルも通常のヘーゲルではないからだ。(柄谷行人 「パララックス・ヴュー 書評」--「強い視差 parallax」、あるいは「超越論的」

すなわち、柄谷行人の70年代の仕事のひとつに『マルクスその可能性の中心』と名づけられた書があるが、両者ともカントとヘーゲルの「可能性の中心」を読んでいることになる。


…………

さて最後にもうひとつ「騙されない人は彷徨う」に関して書いておく。

@hazuma憲法が非現実的なことを書いているから、解釈でなんとでもされてしまうんだよ。小林節さんが言っていたように、憲法そのものに集団的自衛権発動の条件を書き込めばいい。(東浩紀 2014.5.16ツイート)

ここで語られる「非現実的なこと」とは次のようなことだろう。

外国の憲法と比べた場合、(……)平和主義は、それが徹底した形で、日本国憲法において徹底した形では外国にないですね。少なくともほとんど全くないですね。 特徴だと思います。(加藤周一国会参考人による発言(「第150回国会 憲法調査会 第2号 平成十二年十一月二十七日(月曜日) 」)

だがこの「非現実的な」平和主義は、すこぶる有効な機能を果たしている。

「日本は、アジアに対する謝罪をしたと思ったら取り下げるみたいなことを繰り返してきた。 しかし、それで済んでいるのはなぜかというと、実は平和憲法が『大きな謝罪』として、『反 省』だとして受け止められている。だから、たとえ宮台さんの言うような正当な理由があった としても、憲法 9 条を変えるということは、その『謝罪』を撤回したというニュアンスになりか ねない。」 (土井たか子ーー資料:憲法の本音と建て前

たとえば柄谷行人は次のように語っている。

柄谷)憲法第九条は、日本人がもっている唯一の理念です。しかも、もっともポストモダンである。これを言っておけば、議論において絶対に負けないと思う。むろん実際的にやることは別だとしても、その前にまず理念を言わなければいけない。自衛隊の問題でも、日本は奇妙に正直になってしまう。自衛隊があるから実は憲法九条はないに等しいのだとか、そんなことは言ってはいけない。あくまで憲法九条を保持するが、それは自衛隊をもつことと矛盾しない、と言えばよい。それで文句を言う者はいないはずです。アメリカだって、今までまったく無視してきた国連の理念などを突然振りかざしてくる。それが通用するのなら、何だって通用しますよ。ところが、日本では、憲法はアメリカに無理やり押しつけられたものだから、われわれもしようがなく守っているだけだとか、弁解までしてしまう(笑)。これでは、アジアでやっていけるわけがないでしょう。アメリカ人は納得するかもしれないけれど。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』浅田彰1994)

さらにより一般論に近づけて憲法の「統整的理念」の性格を次のようにいう、《人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということ》


これらは再度加藤周一国会参考人発言を引けば、次の変奏だといってよい(発言の時期をみれば加藤周一は2000年に発言しているのだから、加藤周一が柄谷発言を変奏させたとも言い得るが、ここでは誰が起源であるかを問うつもりは毛頭ない)。

現在の問題は、憲法を現実に近づけるか現実を憲法に近づけるか、どっちかということになると思う。それが根本的な仕方ですね。 今までの私のお話ししたことで、ちょっとはしょりますが、結論は、今後の日本の行き先と しては、先取りの憲法は世界で早く徹底した平和主義をとったから先取りというだけではな くて、日本の将来にとって有効な政策を憲法が先取りしているというふうに私は考えます。 ですから、変えるよりも変えない方がいい。なぜならば、憲法にあらわれていることを実現することが日本の将来を開くのであって、憲法を変えて現在の現実に近づけることが将来を開くんじゃないんですね。 その状況はほとんど米国憲法のシビルライツに似ていますね。人種の平等をうたっているわけだから、米国憲法は。ところが、差別は非常に強かった。憲法を変えてそれを現実 に合わせたんじゃなくて、憲法に現実を合わせようとしたのがシビルライツです。そして、 その成果はかなり大きかった、六〇年代から七〇年代にかけて。ですから、日本国憲法 の場合にも同じような構造があると私は考えます。


「父--Nom-du-Père」に騙されないひとは間違える。「憲法」は「父の名」といってよい。統整的理念としての「憲法」に騙されない人は彷徨う。

それはわれわれの日常生活においても同じである。礼儀や信頼関係などはほとんどの場合「偽善」かもしれない。だがその象徴的効果を侮ってはならない。上にアランの《幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ》などの言葉が明らかにするように。

だが果たしてこれだけだろうか。加藤周一や柄谷行人の見解を額面通りに受け取っていいものだろうか。


ジジェクの『Less Than Nothig』 (2012)の第一章は、“Vacillating Semblances”という表題をもっている。その「FROM FICTIONS TO SEMIBLANCES」の節より。

How do we distinguish pretending [that fiction is true] from pretending to pretend?” It is here that Lacan enters, with his distinction between imaginary lure and symbolic fiction proper: it is only within the symbolic space that we can pretend to pretend, or, lie in the guise of truth.
The key formula of semblance was proposed by J‐A. Miller: semblance is a mask (veil) of nothing. Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void. Semblance is like a veil, a veil which veils nothing—its function is to create the illusion that there is something hidden beneath the veil.

「みせかけsemblant」の礼儀とは、親愛の気持などないことを隠すための偽りの微笑を言うのではなく、みせかけの微笑の後ろにはなにもない、だがその微笑の挨拶のしたには何か計り知れない謎を隠しているというイリュージョンを生むことを言うようだ。かの有名な日本人の「曖昧なほほえみ」はその効果を生んでいるに相違ない。

この曖昧模糊たるほほえみの国民の抱える憲法、春風駘蕩たる日本の憲法における至高の「平和主義」という統整的理念、その「みせかけ=偽善」が、その裏に何か計り知れない謎を隠しているというイリュージョンを生むとしたら? やはりここで、強すぎる「自衛隊」の存在が気になってこざるをえない。

また《日本では、憲法はアメリカに無理やり押しつけられたものだから、われわれもしようがなく守っているだけだ》という曖昧な態度はこの種の「イリュージョン」をすでに国際社会に生んでしまっているのかもしれない。このあたりがシニカル批評派ーー別名、「プラグマティスト」ーーにつけいれられる弱点なのであり、政治家や高級官僚の徹底的な「タテマエ」の態度が必要なのだろうが、さてそんな毅然とした態度が彼らにいまさら取りうるものだろうか。