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2010年12月28日火曜日

ラカンの「知を想定された主体」[subject supposed to know, sujet suppose savoir]

分析家の万能的能力を表すものとして誤解されがちな、ラカンの「知を想定された主体」の意味をまとめたものに当たったのでここに抜粋する。

知を想定された主体[sujet suppose savoir](よくS.s.Sと省略される)は英語に翻訳しがたい用語である。シェリダンは、この用語を「subject supposed to know(知っていると想定された主体)」と翻訳し、この訳語はラカンに関するほとんどの英語の著作において踏襲されている。しかし、シュナイダーマンは、それは主体であって知ではなく、想定されるものであるという理由から、別の訳語である「supposed subject of knowledge(知の想定主体)」を推奨している(Schneiderman, 1980:vii)
この語句は自己意識[Selbstbewuβtsein]が知るという行為それ自体において透明であるという幻影を指摘するために、ラカンが1961年に導入したものである(意識を見よ)。この幻影は、鏡像段階において生まれ、精神分析によって問題とされるようになった。精神分析は、知[savoir]はどのような特定の主体にも位置づけられることができず、実際は関主観的なものであることを明らかにした(Lacan, 1961-2:1961/11/15のセミネール)
1964年には、知がある主体に起因すると考えることとして転移を定義したが、その際にこの語句が取り上げられた。「知を想定された主体がどこかにいるや否や、そこに転移があります(S11,232)。この定義は、分析のプロセスを開始するのは、分析主体がある主体を知っている主体だと想定することであり、分析家が実際に所有している知ではない、ということを強調している。
「知を想定された主体」という用語は、分析家そのものを指示するのではなく、治療において分析家が体現するようになる機能を指示しているのである。転移が設立されたといいうるのは、分析主体によって分析家がこの機能を体現していると知覚されたときのみである(S11, 233)。ならば、分析家が所有しているとされる知とはどのようなものなのだろうか? 「それを言い表すや否や、そこから誰も逃れられないものを彼は知っていると想定されています――それは無条件に、意味作用[signification]です(S11, J342/Fr228邦訳を改変) 言い換えれば、分析家はしばしば患者の言葉の隠された意味、そして話し手が気づいてすらいない会話の意味作用を知っていると考えられている。この想定(分析家は知っているものだという想定)のみが、それなくしては意味を持たない細部(偶然の仕草、曖昧な発言)に、「想定する」患者にとっての特別な意味を遡及的にもたらす。
治療のまさに最初の瞬間から、あるいはそれ以前に、患者が分析家を知っている主体として想定することが起こるかもしれないが、ふつうは転移が成立するまでにはいくらかの時間を要する。後者の場合では、「主体が分析に入ったとき、彼は分析家にこの〔知を想定された主体の〕位置を与えることからはほど遠い」(S11,233) つまり、分析主体は最初、分析家を道化師とみなしているか、分析家の無視を維持するために情報を与えないでいることがある。しかし、「疑問視された当の分析家に対してすら何らかの無謬性の信用のようなものがどこかで与えられてしまいます」(S11,J316/Fr212) 遅かれ早かれ、分析家のなんらかの偶然の仕草が分析主体によって、なんらかの隠された意図、隠された知の徴候として扱わるのである。この点において分析家は知を想定された主体を体現する。すなわち、転移が成立するである。
分析の終わりは、分析主体が分析家の知を脱-想定したときにやってくる。そして分析かは知を想定された主体の位置から転落する。
「知を想定された主体」という用語はまた、分析家の独特の位置を構成するのが、知への特定の関係だという事実をも強調している。分析家は自らに帰せられた知と自分自身のあいだには分裂があることに気づいている。言い換えれば、分析家は(分析主体によって)知っていると推測された人物の位置を占めているだけであるということに気がついていなくてはならず、自分に属せられた知を本当に持っているのだと勘違いしてはいけないのだ。分析主体によって彼に属せられた知について、自分は何も知らないということに分析家は気づいておかなくてはならない(Lacan, 1967:20)。しかし、分析過程の頼みの綱が想定された知であるという事実は、分析家が実際に所有している知よりも、それゆえ分析家が何も知らないことに満足することが出来るということを意味しない。反対に、分析家はフロイトを真似て文化、文学、言語学的な事柄の専門家にならなくてはならないとラカンは言っている。
ラカンはまた、分析家にとって分析主体は知を想定された主体であるとも言っている。分析家が分析主体に自由連想の基本的ルールを説明するとき、分析家は実際に「さあ、なんでも言ってください。すべては素晴らしいものになるでしょう」というのだ(S17,59)。言い換えれば、分析家は分析主体にすべてを知っているかのように振舞うように言い、それが分析主体を知を想定された主体として成立させる。
An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis, pp.197-198
a la lettreさんHPより、ディラン・エヴァンス紹介