「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢がまるでちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年とるとまったく駄目ね。」(徳田秋声『爛』)
そんなことありませんわ秋声先生
最近じゃあ三十歳あたりまで色つや保てるらしいですよ
ほら初婚年齢だって男を追い抜かす勢いなんです
先生だって『黴』ではこう言ってるじゃあありませんか
「そのくらいなら、どこへ行ったって、自分一人くらい何をしたって食べて行きますわ」(徳田秋声『黴』)
結婚するくらいなら、何をしたって食べて行けますわ
安易の風に吹かれて一生独身ほうがいいくらい
だっていまどき甲斐性のあるいい男なんて
めったにいやしないですから
浅井の調子は、それでも色の褪せた洋服を着ていたころと大した変化は認められなかった。人柄な低い優しい話し声の調子や、けばけばしいことの嫌いなその身装などが、長いあいだ女や遊び場所などで磨かれて来た彼の心持と相応したものであった。(……)
ワイシャツ一つになって、金縁眼鏡をかけて、向う前に坐っている浅井の生き生きした顔には、活動の勇気が、溢れているように見えた。(『爛』)
どこにいるっていうのかしら
女遊びで磨かれた活動の勇気が溢れた男なんて
きびきびして蓮っ葉な物馴れた女はいっぱいいるのに
《お島のきびきびした調子と、蓮葉な取引とが、到るところで評判がよかった。物馴れてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った》(『あらくれ』)
あらでもこんな女もいなくなってしまったわ
一つは人に媚びるため、働かずにはいられないように癖つけられて来たお島は、一年弱の鶴さんとの夫婦暮しに嘗めさせられた、甘いとも苦いとも解らないような苦しい生活の紛紜から脱れて、何処まで弾むか知れないような体を、ここでまた荒い仕事に働かせることのできるのが、寧ろその日その日の幸福であるらしく見えた。(『あらくれ』)
…………
徳田秋声は、女性を書かせたら神様というのが一部の読み巧者の評判であった。
「日本文学は、源氏、西鶴、それから秋声に飛ぶ」とするのは川端康成だ。
前期の徳田秋声の小説には「安易」という語が頻出する。
お庄は唯笑つてゐたが、此女の口を聞いていると、然うした方が、何だか安易なやうな氣もしてゐた。(德田秋聲『足迹』)
これはまだ日本橋の堅いところに奉公していた頃、例の朋輩に茶屋奉公をすすめられたときの、お庄のふとした思いであるが、この中の《安易》という言葉には独特の意味合いがあるようだ。たとえば今の箇所のすこし前の、不貞た朋輩の話に耳を貸しながら、《お庄も足にべとつく着物を捲く上げて、戸棚に凭れて、うつとりして居た》とある、その姿その体感に通じるものである。頽れるにまかせて流されていく安易さ、その予感のうちにすでにある懈さ、と言えば説明にはなる。しかし生活欲の掠れた倦怠ではない。お庄は若いが上に生活欲の盛んな女であり、その点では滅多に頽れはしない。むしろ生活欲のおもむく、埒を越して溢れ出すその先に、安易の予感はあるようなのだ。秋聲の人物の多くがそうである。生活欲に振りまわされる只中で、行き場に迷う力がふと妙な向きを取りかかり、懈怠に捉えられる。(古井由吉『東京物語考』「安易の風」)
・どうかすると鼻っ張りの強いその気象と同じに、とても征服しきれない肉塊に対してでもいるような気がしていたが、それもだんだん頽されそうになって来た。
・そんな周囲の事情は、お銀のちょっとした燥いだ口の利き方や、焦だちやすい動物をおひゃらかして悦んでいるような気軽な態度を見せられるたんびに、笹村をして妻を太々しい女のように思わしめた。(『黴』)
そして『爛』にも『あらくれ』にも秋声の〈対象a〉はいる。
・お今に自分が浅井の背を流さしておいた湯殿の戸の側へ、お増はそっと身を寄せて行ったり、ふいに戸を明けて見たりした。「いい気持でしょう。」などと、お増は浅井の気をひいて見た。
・階下に寝ているお今のつやつやした髪や、むっちりした白い手なども、幻のように浮んで来た。(『あらくれ』)
◆”Conversations with Ziiek”(Slavoj Zizek and Glyn Daly)ーー『ジジェク自身によるジジェク』として邦訳されているが、原文しか手元にないので、私テキトウ訳。
幻想の役割において決定的なことは、欲望の対象と欲望の対象-原因のあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだね(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。欲望の対象とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームでいうとすれば、私が欲望するひとのこと。欲望の対象-原因とは、逆に、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは欲望の対象-原因が何なのか気づいてさえいない。――そうだな、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについてね。
欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的なんだな、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるんだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだね。たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言うんだな、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。でもあなたは確信することだってありうるんだ、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったりするのを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだけれど、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物だね。
《秋声の自然主義の道は、明治四十一年、秋声三十七歳の『新世帯』にひらけ、四十三年から大正二年の、『足迹』、『黴』、『爛』で峠に達し、大正四年の『あらくれ』でまた新たな頂を極めたと見られる》(川端康成 新潮文芸時評 1993.4
)
安易の風のふく女は当地にいっぱいいて
この土地の「お庄」に魅せられたんだけど
(かつてはだな)
最近は「日本化」してきたんじゃないか
二十年近く前はこんなたぐいの虎視眈々とした女が
月ドル換算にして百ドルぐらいで暮らしてたんだから
五十ドル払って衣裳でも買って食事でもすれば(以下略)
いずれにせよ初老の身でとっくの昔に引退だよ
いまはむしろ西脇順三郎の女たちの
淡い自堕落さや嘲弄感が対象aだな
麦酒か米焼酎一緒に飲んで
なめらかな舌でも眺めてるのがいいなあ
――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人にういてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)
・イボタの繁みから女のせせら笑いが/きこえてくる。
・美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを/かたむけてシェリー酒をのんでいる
・女神は足の甲を蜂にさされて/足をひきずりながら六本木へ/膏薬を買いに出かけた
・女の旅人突然後を向き/なめらかな舌を出した正午
荒木の写真に出てくる女性たちは、たいてい裸である。そのうえ大股を広げたり、尻を突き出したりして性器を露に見せることも少なくない。時にはまさに性交の最中に撮られたと思われる写真もある。写された女性たちの姿は、暴力的なポルノグラフィーの姿とほとんど変わりはない。にもかかわらず荒木の写真がポルノグラフィーではないのは、作者の存在があるからであった。(……)シーレの絵の中の女性も荒木の写真の中の女性も、彼女たちの視線を向けている方向をみると、自分の目の前に存在する作者のことしか考えていないように思われる。どんなに笑いかけていても、煽情的なポーズをとっていても、彼女たちの視線は「見る」ものの視線を飛び越えていく。モデルたちはカメラに振られていることに対しては充分に自覚的だが、その背後にある写真を見るであろう無数の視線には反応を示さない。自分にとって重要で、意味を成すのは目の前にいる写真家との関係だけだからだ。(「私的な視線によるエロティシズム : 荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察」秦野真衣)
はてしない女と
五月のそよかぜのようなと
この柔い女とこのイフィジネの女と
頬をかすり淋しい。
涙とともにおどる
このはてしない女と。」(西脇順三郎「無常」)