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2014年7月26日土曜日

アンドレイの恋

以下は、アウステルリッツの戦闘で負傷、妻との死別などで、鬱屈した生活を送っていたアンドレイ公爵がナターシャとめぐり合い、恋に陥る箇所で、『戦争と平和』のなかでも、最も美しい場面のひとつだろう。というか十代半ばに初めてこの書を読んだとき、もっとも魅了された箇所ということであり、ほかの人がなにを言っているのかはしらないし、引用されているのは見たことがない(この作品で頻繁に言及される名高い箇所は、〔「あなたは読まないで話していますね」、あるいは『戦争と平和』〕にいくらか引用してある)。


◆トルストイ『戦争と平和』(二) 米川正夫訳 岩波文庫p251~

アンドレイ公爵は貴族団長のところへいったら、なんとなんとをきかなくてはならないと考えて、もの思わしげな浮かぬ顔つきをしながら、愉楽村〔オトラードノエ〕なるロストフ家をさして、庭園の並木路を進んでいった。と、右手に当って、木立のかげからうきうきした女の叫び声が聞え、彼の幌馬車の前を横ぎる少女の一群が目に入った。一人のやせたーーおかしいほどやせた、瞳の黒い黒髪の少女が、ちかぢかと公爵の馬車に駆けよった。少女は黄色い更紗の着物をきて、白いきれで頭を結えていたが、ほぐれた髪の束がそのかげからはみ出ていた。少女はなにやらおおきな声で叫んだが、見知らぬ人に気がつくと、そのほうを見ないようにして、笑い声をあげながらもときたほうへ駆け出した。

アンドレイ公爵はなぜかしら、急に苦しいような気持ちになってきた。空は美しく、太陽はあかるく、あたり全体がうきうきとして見える。ところが、このやせた可愛い女の子は、彼という人間の存在を知りもしなければ、また知ろうとも思わない。しかも、それでいて自分一個のばかばかしい(きっとそうに違いない)、けれども楽しい幸福な生活に満足して、仕合せに感じているではないか!『あの子は何がうれしんだろう? 何を考えているのだろう? まさか操典のことだの、リャザンの年貢の整理なんかじゃあるまい。何を考えているのかなあ? なぜあんなに仕合せなんだろう?』われともなしにアンドレイ公爵は、好奇心に誘われて腹の中でこうきいてみた。




……退屈な一日のあいだじゅう、主人側の年長者や、客の中でも地位のある人たちが、アンドレイ公爵をもてなした(……)。そのあいだ、アンドレイ公爵は、べつな若い人たちの仲間にまじってなにがおかしいのかしきりとはしゃいで笑っているナターシャのほうを、いく度もなく見やりながら、『いったいあの娘はなにを考えているのかしら、なにがうれしいのだろう?』とたえず自問するのであった。

その晩、一人きりになると、彼は新しい土地へきたために、長いあいだ寝つくことができなかった。しばらく読書していたが、やがて、いったん蠟燭を消してまたつけた。内から窓枠をはめた部屋の中は蒸し暑かった。彼は、入り用の書類が町においてあってまだとってきてないからといって、自分を引き止めたあのばかな老人(彼はロストフ伯爵をこう呼んだ)にむかっ腹を立ててみたり、ずるずるひき止められた自分自身をののしってみたりした。

アンドレイ公爵は起き上がって窓に近より、戸を開けにかかった。月光は窓が開くやいなや、まるでずっと前から外に張り番をしながらこの機会を待ちもうけていたかのように、さっと室内へ流れこんできた。彼は窓の戸を開けた。それはすがすがしい、静まりかえった明るい夜であった。彼のすぐ前には一方の側が黒くて、いま一方の側を銀色に照らし出された、枝を刈りこんだ木立が一列並んでいた。木立の下はなにかしら露にみちてむくむくして、しっとりと濡れた草があって、ところどころ葉や茎が銀色に輝いている。黒い木立の向こうには露に光る屋根が見え、やや右よりには幹や枝のくっきりと白い、もくもくした大きな木があって、その上には満月に近い月が、ほとんど星のない明るい春の空にかかっている。アンドレイ公爵は窓に頬づえをついた。彼の眼はこの空にすわった。




※Nuit d'Étoiles(星の夜)は、ドビュッシーの1876年(14歳)の作品とか1880年(18歳)の作品とか言われているが、詳細は不明。いずれにしろ最も初期の作品のひとつ。

アンドレイ公爵の部屋は二階であったが、その上の部屋にも人がいて、やはり寝ていないような気配であった。彼は上から響いてくる女の声を聞きつけた。

「たったもう一ぺんだけよ。」と三階の女の声が言った。アンドレイ公爵はすぐにそれが誰かわかった。

「いったい、まあ、あんたはいつ寝るの?」といま一人の声が答えた。

「あたし寝ないことよ、寝られないんですもの、しかたないわ! ねえ、もう一ぺんお名残りに……」二人の女の声は、なにかの末尾になるらしい音楽の一節を歌いだした。

「ああ、なんていい気持ちなんでしょう! さあ、もう寝るのよ、これでおしまい。」

「あんたお寝なさい。あたしだめよ。」第一の声が窓に近よってこう答えた。察するに、彼女はすっかり窓にのりだしてしまったらしく、衣ずれから息づかいまで聞えるのであった。あたりは月とその光と影と同様にしんとして、化石のようになってしまった。自分が偶然こんなところにいあわせたことを気取られまいとして、アンドレイ公爵は身じろぎさえもはばかった。




「ソーニャ、ソーニャ!」と第一の声がふたたび響いた。「まあ、どうして寝たりなんかできるんでしょう! まあ、ちょっとごらんなさいな、なんていいんでしょう! ほんとになんていいんでしょうねえ! さあ、お起きなさいってばよう、ソーニャ」彼女はほとんど涙声でこう言った。「だって、こんな美しい晩はけっして、けっしてありゃしないわ。」

ソーニャはしぶしぶなにか答えた。

「いやよ、まあちょっとごらんなさい、なんて月でしょう! ……本当になんて美しい景色でしょうねえ! あんたもちょっとここへきてごらんなさいよ。あたしの好きなソーニャ、ここへきてごらんなさいってばさあ。ほらね、見てて? ここんとろこへしゃがんでね。ほら、こんなふうに自分の膝を抱いてねーーしっかり、できるだけしっかり抱かなくちゃだめよーーそしてひと思いに飛んでみたらどうでしょう? こんなふうにして!」

「およしなさいよう、落っこちてよ……」

相争うような物音が聞えた。ソーニャは不平らしい声で、「だってもう一時すぎてよ」。

「ああ、あんたはいつもいつも水をさすんだわ。さあ、あっちぃいらっしゃい、いらっしゃい。」

ふたたびしんと静まりかえった。けれど、アンドレイ公爵は、彼女が依然としてそこに座っていることを知っていた。ときにひそやかな身じろぎの音、ときにため息が聞えたからである。

「あああ、本当になんというこったろう!」とふいに彼女は叫んだ。「どうせ成るものは寝るんだわ!」と言い、窓をぱたりと閉めた。

『そうだ、俺の存在などにはなんの用もなにんだ。』なぜかこの少女が自分のことをなにか言い出しはしないかと、恐ろしいような期待をいだきながらこの話し声に耳を傾けているうちに、アンドレイ公爵はふいとこう考えついた。『それに、またしもあの娘! まるでわざとのようだ!』と思った。

とつぜん、彼の全生活に矛盾する若々しい想念と希望の入りまじった渦巻が、思いがけなく心中に沸いてきた。とても自分の心持ちをはっきりさせることはできない、そう思って彼はすぐ眠りに落ちてしまった。