ひとりの思想家について論じるということは、その作品について論じることである。これは自明の事柄のようにみえるが、必ずしもそうではない。たとえばマルクスを知るには『資本論』を熟読すればよい。しかし、ひとは、史的唯物論とか弁証法的唯物論といった外在的なイデオロギーを通して、ただそれを確認するために『資本論』を読む。それでは読んだことにならない。“作品”の外にどんな哲学も作者の意図も前提しないで読むこと、それが私が作品を読むということの意味である。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』P9 講談社文庫)
これは『マルクスその可能性の中心』の冒頭の文だが、この作品は、1974年に「群像」に連載され、その後、大幅な改稿を経て1978年に刊行された、と文庫版解説にある。
1977年に刊行された『反=日本語論』所収のエッセイ「「あなた」を読む」にも、上の文と似たような内容の文がある(このエッセイ自体、この書の刊行以前に雑誌に発表されたものである)。
誰もが一度は読んだことがあるか、そうでなくともその題名ぐらいは耳にした記憶もあろうギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』(1857)と呼ばれる一篇の小説は、あの『人間喜劇』のバルザックが没して数年たったままその後継者を持ちえずにいたロマン主義文学の退潮期の小説空間に不意に出現し、その処女作とも思えぬ傑出した作風もさることながら、宗教と良俗をそこなたかどで発売とともに筆禍事件をひき起こし多大の反響を呼んでからというもの、「レアリズム文学の祖」とか、「近代小説の源流」であるとか、あるいは、あまりに名高い「ボヴァリー夫人は私だ」という作者フローベールの逆説的言辞、等々のおびただしい数の「文学的神話」にまといつかれ、徐々に、その真の相貌を人目にさらすことがまれになってしまった不幸な作品の一つである。人は、その言葉にじかに触れることを忘れ、できあいの文学史的な常識にあっさりと安住してしまう。エンマ・ボヴァリーの大きすぎるロマネスクの夢が、卑俗な現実に触れてむなしくついえさってゆく過程が、「私」を殺した「客観的」な筆つかいで、七月王政下の沈滞しきった「田舎風俗」を背景に生なましく描きだされている。『ボヴァリー夫人』とは、せいぜいそんなものだと高をくくるのが一般のやり方なのだ。それに加えて、ジッド、ヴァレリー、といった今世紀前半を代表する華々しい新文学の旗手たちの揶揄や嘲笑があったりしたものだから、つい一昔前には、誰もがとっくにフローベールを清算したつもりになっていた。(蓮實重彦「「あなた」を読む」『反=日本語論』所収 筑摩書房 P105)
半年ほどまえその冒頭が文芸雑誌に発表された蓮實重彦の「『ボヴァリー夫人』論」には、そもそも『ボヴァリー夫人』という「テクスト」には「エンマ・ボヴァリー」という固有名詞は一度たりとも出てはこないと書いている(参照:擬態と脈動――「『ボヴァリー夫人』論」を読む)。
フローベールが、その処女作である長編小説のヒロインをあえて作中で「エンマ・ボヴァリー」とは呼んでいないという「テクスト的な現実」にふさわしく、『ボヴァリー夫人』は読まれねばならない。
確かに、人は、何よりもまず「作品」の言葉を読む。だが、そのとき、ある文章の中(略)で「彼女」と呼ばれている人物が「エンマ」にほかならぬと同定することさえ意味を失う瞬間が「テクスト」に書きこまれているのを察知することが、「読む」ことにほかならぬと理解されねばならない。あるいは、「エンマ」が言語記号として消滅しながら、その消滅そのものさえが意味を持つ文脈がかたちづくられることを、「散文」がまぎれもない現実として誇示しているといったらよいだろうか。それと同じ理由で、「エンマ・ボヴァリー」という記号の不在に驚くこともまた「読む」ことなのである。
実際、もはや名ざされることすらない匿名の個体と化した存在が、不意に距離なしに接しあう世界とひとつになってひそかに生の鼓動を脈打ち始める瞬間、言葉がみずからの脈動を介してその震えに同調するといった事態に立ちあうわれわれは、それが物語の数ある挿話のひとつでしかないことをあやうく失念しそうになる。読むものは、言葉のもらす吐息ともいうべきものに聞き入るのみであり、それこそ、「優れた散文の文章」の力によるものにほかならない。その気配を受けとめることなく、この挿話を「エンマ・ボヴァリーは姦通した」という文章で「要約」することなどもはや誰にもできはしまい。そこには、「エンマ・ボヴァリー」はいうまでもなく、「エンマ」さえもが不在というほかはないからだ。
…………
《流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。》(蓮實重彦発言『闘争のエチカ』 柄谷行人との対談集)
反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)
《希望は腕の間をすり抜けていく可愛い娘である。想起は今ではもう役に立たない美しい老婦人である。反復は、けっしてあきることのない愛妻である。なぜなら、あきがくるのは新しいものだけだからである。古いものはけっしてあきることがない。》(キルケゴールーーツイッターBOTからだが、おそらくキルケゴールの『反復』からではないか。)
同一的な規則を前方に想定するような行為は「想起」(キルケゴール)にほかならないが、そうでない行為、規則そのものを創りあげてしまうような行為は、「反復」または「永劫回帰」とよばれる。(ドゥルーズ『探求Ⅱ』)
・ギリシア人は、あらゆる認識は追憶である、と教えたが、同じように新しい哲学は、全人生は反復である、と教えるだろう。
・反復を選んだ者だけが本当に生きるのである。
・反復は発見されなくてはならぬ新しい範疇である。(キルケゴール『反復』)
モネの最初の睡蓮こそが、他のすべての睡蓮を反復するのである。だからわたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりでの一般性と、特異(サンギュリエ)なものに関する普遍性としての反復を対立したものとみなすのである。(ドゥルーズ『差異と反復』)
ここで私は混乱を避けるために言葉を定義することにしよう。まず一般性と普遍性を区別する。これらはほとんどつねに混同されている。したがって、個別性ー一般性という対と、単独性ー普遍性という対を区別しなければならない。たとえば、ドゥルーズは、キルケゴールの「反復」に関してこう述べている。《わたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりの一般性と、単独的なものに関する普遍性としての反復とを対立したものとみなす》(『差異と反復』。ドゥルーズは、個別性と一般性の結合は媒介あるいは運動を必要とするのに対して、単独性と普遍性の結合は直接(無媒介)的であるといっている。これは別の言い方でいえば、個別性と一般性は、特殊性によって媒介されるが、後者はそうではないということである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p156)
…………
※附記
……フロイトは、疑いもなくそのことを知っていた。というのは、彼は抑圧の偽装よりもより深い証拠を探し求めていたからだ。もっとも彼はそれを“原”抑圧という似たような語彙にて考えていたが。われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ。さらに言えば、――それは結局は同じことだがーー我々は、抑圧するから偽装するのではない。偽装するから抑圧するのだ。そしてわれわれは反復の決定的な核心の力によって偽装する。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳)
Freud, no doubt, was aware of this, since he did search for a more profound instance than that of repression, even though he conceived of it in similar terms as a so-called 'primary' repression. We do not repeat because we repress, we repress because we repeat. Moreover - which amounts to the same thing - we do not disguise because we repress, we repress because we disguise, and we disguise by virtue of the determinant centre of repetition.
◆Slavoj Žižek: The Pure Differenceより
……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』(私意訳)
……for Lacan, repetition precedes repression—or, as Deleuze put it succinctly: “We do not repeat because we repress, we repress because we repeat.”65 It is not that, first, we repress some traumatic content, and then, since we are unable to remember it and thus to clarify our relationship to it, this content continues to haunt us, repeating itself in disguised forms. If the Real is a minimal difference, then repetition (which establishes this difference) is primordial; the primacy of repression emerges with the “reification” of the Real into a Thing that resists symbolization—only then does it appear that the excluded or repressed Real insists and repeats itself. The Real is primordially nothing but the gap that separates a thing from itself, the gap of repetition.
注)この《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)の帰結は、反復と想起の関係の倒置を伴うことになる。フロイトの有名なモットー、“われわれは、想い出すことを出来ないことに反復を強いられる。”――この文は、次のように反転させるべきだ。すなわち、「われわれは、反復できないことに取り憑かれ記憶することを強いられる」。過去のトラウマから免れる方法は、そのトラウマを想起しないことではない。キルケゴール的な意味での反復を充分に行なうことが、過去のトラウマから免れる方法である。
65. The consequence of this also involves an inversion in the relationship between repetition and re‐memoration. Freud's famous motto “what we do not remember, we are compelled to repeat” should thus be reversed: what we are unable to repeat, we are haunted with and are compelled to memorize. The way to get rid of a past trauma is not to rememorize it, but to fully repeat it in the Kierkegaardian sense.