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2014年7月8日火曜日

聾になるための訓練

作曲家というものは音楽のための耳を持っていると言われる。これは大抵、彼らが耳に届くものを何も聴いていないという意味だ。作曲家の耳は自身の想像上の音で塞がれてしまっている。(ジョン・ケージbot)

ケージが囀っている。いやケージ(籠)は小鳥を探す、かつてはわれわれの身近にあったのにいつもまにかいなくなってしまった「音楽」を探しもとめる、《鳥籠が鳥を探しに旅に出た》(カフカ)

あらゆる音に対して開かれた耳には、すべてが音楽的に聞こえるはずです。私達が美しいと判断する音楽だけでなく、生そのものであるような音楽。音楽によって生はますます意味深いものとなるでしょう。(『小鳥たちのために』)
かつて音楽は、まず人々の―特に作曲家の頭の中に存在すると考えられていた。音楽を書けば、聴覚を通して知覚される以前にそれを聞くことができると考えられていたんです。私は反対に、音が発せられる以前にはなにも聞こえないと考えています。ソルフェージュはまさに、音が発せられる以前に音を聞き取るようにする訓練なのです……。この訓練を受けると、人間は聾になるだけです。他のあれこれとかの音ではなく、決まったこの音あの音だけを受け入れられるよう訓練される。ソルフェージュを練習することは、まわりにある音は貧しいものだと先験的に決めてしまうことです。ですから〈具体音の〉ソルフェージュはありえない。あらゆるソルフェージュは必然的に、定義からして〈抽象的〉ですよ……。(同上)

《私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。》(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)



ラカン派の向井雅明氏に、《音に関して言えば、音を感覚だけで聞くと世界は様々な騒音に満ちあふれている。知覚はフィルターを通すので静かな世界が可能となる。耳は閉じられないが知覚としての耳は閉じることができる。私たちの耳は聞かないためにある》とする文がある。

◆向井雅明「自閉症と身体」(『言語文化27号』 ――●「ラカン研究の現在」)より。

自閉症児は外界からの刺激に対して普通の子どもには見られないような特殊の反応を見せることがある。たとえば、痛みを感じなかったり、ローソクの上に手をかざしても平気で、手にやけどさえしなかったりなどである。

自閉症と身体をめぐって書かれた論だが、ここではその主題そのものをめぐってではなく、その過程で説明される「暗示」効果をめぐる箇所を抜き出す。

催眠術では術師が被験者に催眠状態で「あなたは今やけどをしている」と言うだけで、実際に被験者には水ぶくれなどのやけどの症状ができる。

ここでは自閉症における状況と逆の状況が再現されている。自閉症ではやけどをしたという知覚がないので情報が自律神経系に達せずに症状が生じないのに対して、催眠では言語による偽の情報が自律神経に作用してやけどの症状が生まれると考えられる。つまり言語による情報は知覚による情報と同じ作用を生み出すのだ。

感覚は知覚とは違う(……)。感覚が知覚になって初めてわれわれは意識的に何かを感じるようになる。(……)

モルヒネは痛みの伝達を遮って鎮痛効果を与えるとされる。しかしモルヒネは、実際は痛みを麻痺させるのではなく、逆に麻薬効果によって知覚のフィルターを弱め、原始的な感覚を増大させて痛みの知覚を無差別的な感覚のなかにおぼれさせてしまうのだ。

ここで重要なのは感覚と知覚を異なったものとして扱っていること。感覚は受動的なものでわれわれは単にそれを選択せずに受け取るだけなのに比べて、知覚は能動的で選択的。知覚があって初めて私たちは何かを差異的、具体的に感じることができる。それにたいして感覚は非差異的。感覚の世界は混乱しており構造化されていない。

音に関して言えば、音を感覚だけで聞くと世界は様々な騒音に満ちあふれている。知覚はフィルターを通すので静かな世界が可能となる。耳は閉じられないが知覚としての耳は閉じることができる。私たちの耳は聞かないためにある。(向井雅明 「心的装置の成立過程における二つの翻訳」より)

「やけど」の話がでてきているので次の文を附記しよう。



ニューヨークのコロンビア大学医学部のハーバート・スピーゲルが実験したことだ。彼はイマジネーションを利用する実験で、米国陸軍のある伍長を被験者にした。彼は、この伍長に催眠術をかけて催眠状態にしたうえで、その額にアイロンで触れる、と宣言した。しかし、実際には、アイロンのかわりに鉛筆の先端で、この伍長の額に触れただけだった。

その瞬間、伍長は、「熱い!」と叫んだ。そして、その額には、みるみるうちに火ぶくれができ、かさぶたができた。数日後にそのかさぶたは取れ、やけどは治った。この実験は、その後四回くり返され、いつもまったく同じ結果が得られた。

さて、五度目の実験の時には、状況はやや違っていた。この時には伍長の上官が実験に同席していて、この実験の信頼性を疑うような言葉をいろいろ発していた。被験者に迷いや疑惑を生じさせる状況のもとでおこなわれたこの時の実験では、もはや伍長にやけどの症状が現れることはなかった。

…………

冒頭のケージの文はもちろん音楽家だけの話ではないので、たとえば「理論」を学べば盲目になる、あるいは《勘を鈍らせるものがパラダイムである》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)としたっていい。

まずトーマス・クーンのパラダイム概念を思い起してみよう。

ある一時期に おけるある分野の歴史を細かく調べてみると、いろんな理論が概念や観測や装置に応用される際に、標準らしき一連の説明の仕方が繰り返されていることに気付 く。これらがその専門家集団のパラダイムであって、教科書や講義や実験指導の際に現れてくるものである。(『科学革命の構造(The structure of scientific revolutions)』)

《T.S.クーンは、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはから客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。つまり、経験的なデータが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわり認識論的パラダイムで見出される、とする。》(柄谷行人『隠喩としての建築』)

すなわち、これも冒頭のケージ文の変奏なのであって、パラダイムを学べば、その「窓枠」を通してしか経験的データを拾うことができない。蓮實重彦ならそれをあっさりと、《解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかない》(『表層批判宣言』)という。すなわち音を聞く耳が、ソルフェージュ理論による音の分節化をすでに蒙った音を聞き取らされる耳でしかない、ということになる。

ここで《見ることは見ずにおくことの技術の体系》をめぐるフーコーのエピステーメ概念(『臨床医学の誕生』)を想起してもいい。

さらに言えば、これは専門「理論」だけではないので、われわれは人生においてある種の理論めいたものを学んで、盲になったり聾になったりする。

プルーストの「知った人に会う」知的行為とはそのことを語っている。われわれの愛情が、憎悪が、先入観が、知人の真の顔を見えなくしている。ふと写真をみてやっと、彼は(たとえば父は、妻は)ああこんなに面がわりをしていたのだと気づくことは誰にもであるだろう。

「知った人に会う」とわれわれが呼んでいる非常に単純な行為にしても、ある点まで知的行為なのだ。会っている人の肉体的な外観に、われわれは自分のその人についてもっているすべての概念を注ぎこむ。したがってわれわれが思いえがく全体の相貌のなかには、それらの概念がたしかに最大の部分を占めることになる。そうした概念が、結局相手の人の頬にそれとそっくりなふくらみをつくり、その鼻にぴったりとくっつけた鼻筋を通してしまい、その声に、それがいわば振動する二つの透明な膜にすぎないかのように、さまざまなひびきのニュアンスを出させることになるのであって、その結果、われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである。(プルースト「スワン家のほうへ」)

 《カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。》(柄谷行人『トランスクリティーク』P312

ーーこれはラカン派なら、想像界(感覚)はすでに象徴界によって(感性の形式によって)構成されている、という。

さらに言語を学べば、これも世界が見えなくなる。すくなくとも日本語だけを知っているひとと、英語だけを知っているひとでは、世界の見え方が異なる。

用語の抽象度の差異は知的能力によって左右されるものではなく、一民族社会の中に含まれる個別社会のそれぞれが、細部の事実に対して示す関心の差によってきまるのである。(……)「カシワ」、「ブナ」、「カバノキ」などが抽象語であることは、「樹木」が抽象語であるのと同じである。二つの言語があって、その一方には「樹木」という語だけしかなく、他方には「樹木」にあたる語がなくて樹木の種や変種を指す語が何十何百となるとしたら、いま述べた観点からすれば概念が豊富なのは前者の言語ではなく後者の方である。(レヴィ=ストロース『野生の思考』)
職業語の場合がそうであるように、概念が豊富であるということは、現実のもつ諸特性にどれだけ綿密な注意を払い、そこに導入しうる弁別に対してどれだけ目覚めた関心をもっているかを示すものである。このような客観的知識に対する意欲は、われわれが「未開人」と呼んでいる人びとの思考についてもっとも軽視されてきた面の一つである。それが近代科学の対象と同一レベルの事実に対して向けられることは稀であるにしても、その知的操作と観察方法は同種のものである。どちらにおいても世界は、欲求充足の手段であるとともに、少なくともそれと同じ程度に、思考の対象なのである。

どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に支配されていると思い込む誤ちを犯すとき、われわれは、野蛮人の方も同じ批判をわれわれに向けていることや、また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方がわれわれの知識欲より均衡のとれたものだと思われていることに注意をしていない。(同上)

もちろん、色彩についても次のようなことがいえる。

名辞による色彩の分割(色わけ)は民族と時代によって異なる。近代文化内でも英国、オランダ、日本の各々の100色以上の色鉛筆セットを比較すれば色名の文化的差異と色分布の違いは一目瞭然である。英国の標品が暗色、オランダのが褐色が多く、繊細な相違を強調し、逆に、100色以上においても日本の標品で「黄色」とされる「明るい菜種色」などを欠いていることが多い。

しかし、言語化困難だとはいえ、色や味覚や嗅覚は言語化がなければ、まったく個人の自閉的世界にとどまってしまうだろう。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)


さて、最後はラカンの「大文字の他者」だ。いやそのまえに『トランスクリティーク』からもう一度引いておこう。

彼(カント)が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。(柄谷行人『トランスクリティーク』P101)

「大文字の他者」、すなわち言語によって構成された世界、象徴界(象徴形式)の世界である。

「私はただ相対的に愚かに過ぎないよ、つまり他の人たちと同じでね。というのは多分私はいくらか啓蒙されてるからな」

“I am only relatively stupid—that is to say, I am as stupid as all people—perhaps because I got a little bit enlightened”?  (Lacan“Vers un signifiant nouveau” 1979)

啓蒙されているから愚かになってしまったというのは、象徴界の世界の住人だから、ということ。ただし前段の「相対的に愚か」というのは、《この「相対性」は、"完全には愚かではない"と読むべきだ、すなわち厳密な意味での非-全体の論理として。…ラカンの中には愚かでないことは何もない。愚かさへの例外はない。ラカンが完全には愚かでないのは、彼の愚かさのまさに非一貫性にある》(ジジェク「『LESS THAN NOTHIG』私訳)

というわけだが、われわれは共同体の「先例」と「慣習」を学ばないわけにはいかない。理論やパラダイムを学ばないわけにはいかない。ただそれを信じ込むなということだ。

もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

現実をゆらめかすこと、現実の非一貫性を知ることだ。ラカンの幻想の横断traversée du fantasmeとは、そのことを言っている。

“Traversing the fantasy” does not mean going outside reality, but “vacillating” it, accepting its inconsistent non‐All. (ZIZEK"LESS THAN NOTHING")