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2014年7月15日火曜日

「わかりませーん」

ラカンの三つの身体」にて、斎藤環氏に触れた箇所をめぐって、問いというかコメントがあるけれど、そこにも書いたとおり、ーーというか正確には書いてなかったかもしれないがーーわたくしは斎藤環氏の書物を読んだことがないので、よくわからない。ただ、かつて雑誌に書かれた論やウェブ上で拾った文への齟齬感を書いただけなので、繰り返しておけば、それで判断してください。わたくしはただのディレッタントでラカン派でもなんらかの専門家でもない。

人格、メディア、ともにラカンの精神分析においては単に「存在しない」、あるいはいずれも、想像的なものとして価値切り下げの憂き目にあうだろう。なぜならば、そう、「メタ言語は存在しない」からだ。記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた。メタ記号はありえてもメタ・シニフィアンは不可能である。(斎藤環「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」『批評空間』 2001 Ⅲ―1所収)

①《記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた》とある。

私が言語の機能を重視するのは、人間の心的装置をつくり上げているものが、徹底して言語的な成分であるというラカン派の公準にもとづいています。正確にはシニフィアンということになりますが、読者の便宜を考えて、ここはあえて近似的表現をもちいます。(……)

フロイト=ラカンが発見したのは、こうした言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね。じつはここにこそ、精神分析の真骨頂があるのです。(斎藤環から茂木健一郎への手紙「第3信  「人間」と「言語」、あるいは偶有性のアスペクト」(2010年)より

②《人間の心的装置をつくり上げているものが、徹底して言語的な成分であるというラカン派の公準

③《言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね》


この①②③と次のミレールの文をともに読んで、どう判断するか、ということ。逆に教えてほしいね、斎藤環氏を擁護するなら。

ラカンの影響と呼ばれるものが認められるところでは常に、彼の教育はシニフィアンの作用の重視に還元されてしまいました。しかしながら、ラカンはそのようなものではまったくありません。(……)

いわゆる、「ラカンの影響」が「シニフィアンの作用」というものの一方的評価として受け取られる場合、分析経験にはまったくの混乱がもたらされます。(ジャック=アラン・ミレール「もう一人のラカン」

要するに「欲望」や「症状」のたぐいは前期ラカン(象徴界、あるいは言語のシステム)の語彙群であり、セミネールⅩⅠ以後、現実界のラカンに変っているということ。それがもう一人のラカン。→ 参照:二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome


このような〔理論〕構築において、二つの用語が前景に出てきます。象徴的ファルスの機能が消去され、欲望の価値が下がるということが、ラカンの〔理論〕構築において起こるのです。ラカン理論の綿密な練り上げのすべての期間において、ラカンは欲望における生きた機能を支えようとしました。しかし、ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するようになります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。

幻想と欲動がラカン理論の中心に移動するのです。(「欲望と欲動(ミレールのセミネールより)」)

ミレールは1982年の段階ですでに「From Symptom to Fantasy and Back」というレクチャアをしている。


※参考:「SUBJECT ANDBODY. Lacan's Struggle with the Real. 」(Paul Verhaeghe)より。

This real is the drive in its inability to be represented. LACAN Seminar 11, p. 60; (Le Séminaire, livre XI, pp. 59).
……this part of Lacanian theory can very well be understood from a Freudian point of view. In Freud's theory, the pleasure principle functions "within the signifier", that is, with representations (Vorstellungen) to which a "bound" energy is associated within the so-called secondary process. What lies beyond the pleasure principle, cannot be expressed by representations and operates with a "free" energy within the primary process. The latter has a traumatic impact on the ego (Beyond the Pleasure Principle, S.E. XVIII, p. 67ff). The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation. “Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language (Freud, letters to Fliess, dd. 30th May 96, 2nd Nov.96).