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2014年3月28日金曜日

不平等きわまる肉体的素質と精神的才能(フロイト、アラン)

私自身、若いころ、貧乏の辛さを嫌というほど味わい、有産階級の冷淡さ・傲慢さを肌身に感じたことのある人間なのだから、財産の不平等およびそこから生まれるさまざまな結果を除去しようという運動にたいしてお前は理解も好意も持っていないのだなどという邪推は、よもや読者の心に萌すまい。もちろん、こうした運動の目標が、「万人の平等こそ正義なり」などという抽象的なものであるなら、さっそく次のような反論が起こるだろう。すなわち、「自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能をあたえることによって種々の不正を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか」と。(フロイト『文化への不満』人文書院 旧訳)

これはコミュニズム運動をめぐる叙述の註に附された文だが、《不平等きわまる肉体的素質と精神的才能》が人間には元来備わっているとある。

フロイトの同じ論文の、すこし異なった文脈で書かれている箇所なのだが、それを上の文脈で読んでみよう。

今日の教育は、若い人々がいずれは他人の攻撃欲動の対象にされるにちがいないのに、そのための心の準備をしてやらないという点で罪を犯している。若い人々をこれほど間違った心理学的オリエンテーションのまま人生に送りこむ今日の教育の態度は、極地探検に行こうという人間に装備として、夏服と上部イタリアの湖水地方の地図を与えるに等しい。そのさい、倫理の要求のある種の濫用が明白になる。すなわち、どんなきびしい倫理的要求を突きつけたにしても、教師のほうで、「自分自身が幸福になり、また他人を幸福にするためには、人間はこうでなければならない。けれども、人間はそうではないという覚悟はしておかねばならない」と言ってくれるなら、大した害にはならないだろう。ところが事実はそうではなくて、若い人々は、「他の人たちはみなこういう倫理的規則を守っているのだ。善人ばかりなのだ」と思いこまされている。そして、「だからお前もそういう人間にならなければならないのだ」ということになるのだ。(『文化への不満』)

では、われわれは、子供のころから、「人間は差別的に生まれている」と教えるべきだろうか。

人間の秩序のうちでは、信頼が事実の一部分を占めているから、そこではとくに、私が私自身の信頼をまるで考えにいれていないなら、私は大へんな見込みちがいにおちいる。倒れそうだ、とおもったとたんに、私は実際に倒れる。なにをする力もない、とおもったとたんに、私はなにをする力もなくなる。自分の期待にあざむかれそうだ、とおもったとき、私の期待が私をほんとうにあざむくことになる。そこによく注意しよう。私がよい天気をつくる、暴風雨をつくるのだ。まず自己のうちに。そして自分のまわりにも、人間たちの世界のうちにも。けだし、絶望は、そして希望もだが、雲ゆきがかわるよりも早く人から人にと伝わってゆく。私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。そして、つぎのこともまた十分に考えたまえ。期待というものは意欲によってのみ保持され、平和、正義と同様に、やりたいと思えばこそ実現をみるだろうもののうえに築き上げられる、ということを。しかるに、絶望のほうはどうかといえば、絶望というものは、今あることの力によって尻をすえ、ひとりでに強まるのである。さてこれで、宗教はすでにそれをうしなってしまったが、もともと宗教のうちにあって、救い出すに足りるところのものを救い出すには、いかなる考察の道すじによるべきかがはっきりした。私はあのうつくしき望みのことを指しているのだが。(アラン「オプチミスム」 『人生語録集』(プロポ集 )彌生選書 1978 井沢義雄・杉本秀太訳) 

 《私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである》とある。

人間は元来差別的に生まれているという前提に立てば、人間は差別者として平然と振舞うようになる。かりに元来から差別的であろうとも、隔てのない「平等」な態度で他人に接すれば非差別的になる。

たとえばここで、ニーチェの言葉を変奏して、人間に本来的に備わる差別は、悪く陰険に考察されると、悪い陰険なものになる、とすることができる。

悪く考えることは、悪くすることを意味する。 ――情熱は、悪く陰険に考察されると、悪い陰険なものになる。 (ニーチェ『曙光』76番)

あるいは、差別は、まわりじゅうに差別を見出す眼差しそのものの中にある、ともすることができるだろう。

「悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある」というヘーゲルの言明を言い換えるならば、<他者>に対する不寛容は、不寛容で侵入的な<他者>をまわりじゅうに見出す眼差しの中にある。(ジジェク『ラカンはこう読め』)


信頼を寄せれば自他ともに非差別的になる、とは標準的なモラル(生きていく上で欠かすことができない道徳)としては今も十分に生きている。そしてわれわれの生活は、その通俗道徳で九十九%は生きていける。だがその道徳ではカヴァーできないことがあるのを忘れてはならないだろう。

アランは第二次大戦直前まで、「絶対的平和主義者」として振舞った。

ヒトラーはまたしても大演説を行った後、オーストリアに進駐した。(……)サルトルはもう騙されなかった。平和を守れる見込みはますます心細くなった。(……)

私はなおも自分を騙そうとしていた。私は状況を正視しなかった。しかし未来が自分の足もとで崩れ去るような気がして、苦悶に近い不安を感じていた。(ボーヴォワール『女ざかり』上 p300 朝吹登水子・二宮フサ訳)
ドームでメルロー=ポンティに会ったのを覚えている。彼とはジャンソン=ド=サイイー高等中学校での教育実習以来ほとんど顔を合わせたことがなかったが、その日は長いあいだしゃべった。私は彼に、チェコスロヴァキアがイギリスとフランスの裏切りにたいして憤慨するのは当然だが、どんなことでも、もっとも残酷な不正でさえも、戦争よりはましだといった。私の考え方はメルロー=ポンティにも、サルトルにも、近視眼的だといわれた。

《きりもなくヒトラーに譲歩することはできない》
とサルトルは私にいった。しかし彼もたとえ頭では戦争を承知するつもりになっていたにせよ、やはり、ほんとうに戦争が始まることを思うと厭でたまらなかったのだ。p313
ジオノやアランはあい変わらず絶対的平和主義を主張していた。多くの知識人は彼らに同調して、《民主主義諸国は全世界に平和を宣言した》とくりかえしていた。さらに《平和は民主主義諸国に貢献する》というスローガンも広まっていた。共産党はミュンヘン協定反対を決議した。しかし彼らもただ憤慨をきりもなくくりかえしているわけにはいかなかった。p314

…………

ーーと、ここまでは標準的な見解だろう。


ところで性的魅力や聡明さ等々の不平等を、「自分にふさわしくない」ものとして見なせるのが資本主義社会のメリットであると説いている(と読める)ジジェクの文章がある。

2005年十二月、新しく選ばれた英国保守党の党首デイヴィッド・キャメロンは、保守党を恵まれない人びとの擁護者に変えるつもりだと述べ、こう宣言した。「あらゆる政治にとっての試金石は、もてない者、すなわち社会の底辺にいる人びとに対して何ができるかということであるべきだ」。不平等が人間外の盲目的な力から生じたと考えれば、不平等を受け入れるのがずっと楽になる、と指摘したフリードリヒ・ハイエクですら、この点では正しかった。したがって、自由主義資本主義における成功あるいは失敗の「不合理性」の良い点は(市場は計り知れない運命の近代版だという古くからのモチーフを思い出そう)、そのおかげで私は自分の失敗(あるいは成功)を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。まさに資本主義の不正そのものが、資本主義のもっとも重要な特徴であり、これのおかげで、資本主義は大多数の人びとにとって許容できるものなのだ。(ジジェク『ラカンはこう読め!』

仮に自分の低いポジションが「自分にふさわしい」ものだとしたらどうだろう。格差社会では起こらない「怨恨」が、格差のない社会では暴発するというのが、ジジェクやデュピュイ(日本では『ツナミの小形而上学』で著者として名が知れた)の考え方であり、「ヒエラルキー」の仕組みは、社会的下位者が、社会的上位者、特権者に屈辱感を抱かせないシステムとされる。

たとえば、知能豊かで性的な魅力溢れる女性がいるとしよう。彼女が、裕福な家庭で両親に慈しまれて育った女性である場合と、他の女性とまったく格差のない環境で育った女性である場合の、どちらの女性により強く羨望・嫉妬するだろうか。多くの場合、前者のほうが、「育った環境」が異なるのであの女性が「女王」のようであるのはやむ得ないとして、嫉妬心が弱まるのではないだろうか。


ジャン=ピエール・デュピュイは、『La marque du sacré(2009)で、ヒエラルキーを四つの様相を挙げている(ZIZEKLess Than Nothingより孫引き)。

<hierarchy itselfヒエラルキーそれ自身>An externally imposed order of social roles in clear contradistinction to the immanent higher or lower value of individuals—I thereby experience my lower social status as totally independent of my inherent value.

<Demystification脱神秘化>The critico‐ideological procedure which demonstrates that relations of superiority or inferiority are not founded in meritocracy, but are the result of objective ideological and social struggles: my social status depends on objective social processes, not on my merits—as Dupuy puts it acerbically, social demystification “plays in our egalitarian, competitive and meritocratic societies the same role as hierarchy in traditional societies” (La marque du sacré, p. 208)—it enables us to avoid the painful conclusion that the other's superiority is the result of his merits and achievements.

<Contingency偶然性>The same mechanism, only without its social‐critical edge: our position on the social scale depends on a natural and social lottery—lucky are those who are born with better dispositions and into rich families.

<Complexity複合性>Superiority or inferiority depend on a complex social process which is independent of individuals' intentions or merits—for example, the invisible hand of the market can cause my failure and my neighbor's success, even if I worked much harder and was much more intelligent.