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2014年7月20日日曜日

禁断の大麻の地と聖なるふにゃちん

隣国に小旅行。旅行といっても、パイプにつめる煙草と干物の魚の買い出しがおもな目的だが、しばしば訪れる。食事がおいしいのは王国だからか、今住んでいる土地の料理も日本では好まれるようだが、隣国の料理は、よく選べば、味の繊細さという面では段違いだ。とくに行きつけの場末にあるあまり綺麗とはいえない食堂、そこの香菜と揚げた魚の鰭をタマリンドのソースであえたサラダのなんという美味なこと。これが当地の黄色く澱んだ米焼酎にぴったりだ。何度も訪れているので、そこの女主人とは顔馴染みで四階建てのその住まいの三階と四階が貸間になっていて、そこに宿をとる(女主人? ばあさんだ…だが娘がいる…美人で…上品で…艶があって、しなやかで、やせている…三十前で、やくざの三下のような夫がいる、ヒモのような野郎だ…これが玉にきずだ…かすかな悪徳…翡翠の笛…水ぎわの物語…月光の露…ほとんど子どものようなからだ…四人で花札のようなカードゲームをやった…膝の崩し方がなんともいえない…軀は痩せているのに、その太腿の緊りのない肉づきの猥褻さ、輪廓の素直さと品位とを闕いているどこか崩れたような貌…いや、ばあさんのほうさ、ばあさんって言ったって、オレより五歳ほどは若い…)

おんぼろバスに揺られて五時間ほどの買い出しなのだが、今回は雨季ということもあり、また痛風のぐあいを惧れるので、アンコール・ワットまでは行かなかった(隣国の首都からさらにバスなら五時間ほどかかり腰が痛くなるのもある)。途中にあるメコン川でバスはフェリーに乗るのだが、その川の濁流がいつもにも増して見事だった。あの川幅は二百メートル以上はあるのではないか。うまくいけば、河海豚にだって廻り会える(といってもたぶん三十回以上は往復していて、オレの場合一度だけだが)。





ジボナノンド・ダーシュの『美わしのベンガル』(臼田雅之訳)の至高の詩句、「ベンガル」に「メコン」を代入してもいいくらいだ。

君たちはどこへでも好きな所に行くがいい、私はこのベンガルの岸に
残るつもりだ そして見るだろう カンタルの葉が夜明けの風に落ちるのを
焦茶色のシャリクの羽が夕暮に冷えてゆくのを
白い羽毛の下、その鬱金(うこん)の肢が暗がりの草のなかを
踊りゆくのを-一度-二度-そこから急にその鳥のことを
森のヒジュルの樹が呼びかける 心のかたわらで
私は見るだろう優しい女の手を-白い腕輪をつけたその手が灰色の風に
法螺貝のようにむせび泣くのを、夕暮れにその女(ひと)は池のほとりに立ち
煎り米の家鴨(いりごめのあひる)を連れてでも行くよう どこか物語の国へと-
「生命(いのち)の言葉」の匂いが触れてでもいるよう その女(ひと)は この池の住み処(か)に
声もなく一度みずに足を洗う-それから遠くあてもなく
立ち去っていく 霧のなかに、-でも知っている 地上の雑踏のなかで
私はその女(ひと)を見失うことはあるまい-あの女(ひと)はいる、このベンガルの岸に

ーーメコンの濁流の生と死の過剰、メコンの稲田の上にただよう靄の湿り、密林に鳴く鳥の声、乙女の黒髪の匂い…私はこのメコンの岸に残るつもりだ…酔っ払って、死んだら灰にしてメコンに流してほしいと妻に向かってくだを巻くのはただのジョークではない。

いずれにせよメコンのカフェオーレ色の水が水量を増して渦巻いているのを眺めるのは、何度見ても素晴らしい。海よりも川が美しいことがありうるのを知ったのは、メコンに出逢ってからだ。この川の下流に妻の故郷の町があるのだが、かつては(クメール・ルージュの時代は)頭をちょん切られた屍がプカプカ流れてきたとは、妻の母や叔父たちから聞いた。きっと今でも川の水は滋養溢れ、魚が美味なのはそのせいだろう…。河岸の住まいの女たちはいまでもこの川水で風呂に入る。美しい黒髪、大理石の肌、頭を洗うときに垣間見える腋毛の翳…柔らかな昆布の繊毛から滴り落ちる水滴…死の匂い、エロスとタナトスのかおり…トラクターで運ばざるをえなかった夥しい髑髏の山の成果…





(この髑髏の陳列室に入ると臭う。肉の細片が残っているわけでもないだろうが。五分以上の長居をしたくないにおいである。)



自宅から、バスに揺られて二時間すれば隣国との国境だが、そこからさらに二時間強行くと隣国の首都だ。帰路、そこのフェリーの待ち時間のあいだ河岸で、香菜や生の川魚も買う。物売りの老婆や中年の女、少女たちが寄ってきて、ときにこちらの肘やら手の甲に触れたりして、押売りするのは相変わらずだ。慣れない当初は、それが鬱陶しかったが、これもあしらい方のこつをつかんで、いまでは楽しいやりとりのひとつになった(デルタの土地だよ…メコンデルタ、黄金の三角形…禁断の大麻の地…大文字のママ、母なる神…聖なる川の楽園…)。ーー《あまりにゴヤ的なゴヤ的な/それからホウガスの小海老売りの女/も安い複製の通りの女がいた/また買ってくれたお客をよろこばす/ために閨房のまねをする梨売り女》(西脇順三郎「第三の神話」)

宿泊は上に記したように壁の薄い安宿。空調はなく天井扇だけ。シャワーも温水はでないが、そのかわりひどく安い宿賃だ。近傍に薄暗いマッサージ屋もある。だが、ここでは、《手をとり、足をとり、ひっくりかえし、裏返し、表返し、男は熟練の技で、いささか手荒く、けれど芯はあくまで柔らかくつつましやかにといったタッチで……》(開高健『玉、砕ける』)とだけにしておこう(いやクメール風マッサージのあとは、追加料金を払ってラベンダーの匂いが主なアロマオイルを使ってもらうのはいつものことだ…初老の男はいつのまにか若い女にかわっているなどということはないか…気怠るさの感覚…決して無垢ではないある種の陶酔感…何かに触れ、あるいは触れられるような悪徳の指先の動きの蠢動…太陽の光を十分にすいこんだ枯れ草のにおいのようであったり、かすかに腐乱した果実のようなにおいであったりする女たちの腋窩やデルタの匂い…デルタの匂い?…いやメコンデルタの泥水の淀み饐えた匂い…)合間に女がすすめるジャスミン茶…ひどく色濃い…まるで翡翠の粋…なにか別のものが入っていないか…《無上のソクラテス、緑色をした冥府の飲み物…ギリシア人たちの地獄…亡霊たちの隙間風…ブルブル! ところがなんと、わが子たちよ、この毒薬はこともあろうに軟膏だったのだ…制淫剤…これはかつて秘密の儀式で使われていた…ウルトラ秘密主義の儀式…聖地エレウシス…偉大なる巫女と偉大なる神官が、宇宙の豊穣を保証する模擬交接を二人で執り行うに際して、聖なる洞窟のなかの神秘の穴の奥で、いままさに偉大なる神官のペニスに毒ニンジンが塗られようとしていた…そうやって、神官はふにゃちんのまま、敬虔で、聖なる状態にとどまっていたのだ…》(ソレルス『女たち』)いや毒ニンジンなどなくたって、最近はほとんどふにゃちんのままさ、安心しな、仏顔の美少女たちよ






中井久夫は八十歳近くになってベトナム語を学んでいるそうだが、オレもブログなどぐたぐた書いておらずに、クメール語を学ぶべきかもしれない。




夜半、ラベンダー油の薄い膜をまとったをベッドに横たえる…古い植民地時代のつくりの家のため、天井はひどく高い…天井扇が不規則にカラカラと鳴る、そろそろ寿命ではないか…窓はいささか傷み過ぎてきるが鎧戸で覆われており、さいわいにも今晩は虫も蚊もいない…薄い壁の向うの隣室から、なにかが蠢く気配…ささやき声…シーツの擦れる音…いつものことだ…《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》(吉岡実)気がする…あるいは、《そして突然夢のなかでサン=ルーは愛人がいつものくせのように官能の瞬間に規則正しく間歇的に発するあのさけび声をはっきり耳にしたのであった》(プルースト)…かつて歌舞伎町にある新宿プリンスを常宿にしていた…学生時代によく馴染んだ高田馬場の盛り場にも近い…馬場には安いイタリア料理屋があった…つまみが豊富で、サフランのリゾットがいけた…ワインもボトル二本開けたって予算内で済む…なんの話だ…歌舞伎町のプリンスホテルの壁だったな…あそこの壁はひどく薄い…しかも客層がわるい…ひどく悪い…なんど間歇的なさけび声を聞いたことか…