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2014年7月14日月曜日

分析家と黒人の召使い

◆Zizek 『Connections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture』冒頭より私意訳。

さてでは始めてたい、ほとんどナルシシスティックな反省からね、――どうして私はこんなにしばしば大衆文化の事例に頼るんだろう?と。シンプルな答は、ジャーゴン(専門用語)のたぐいを避けるためだな、そしてできるかぎりの明晰さを得ようとするためさ、読者のためだけじゃないんだな、私自身のためだね。ようするに愚か者のためさ、なんとかして理論的なポイントを出来うるかぎりクリアにしようとするのは。そしてその愚か者というのは、究極的には私自身なんだ。読者に恩着せがましくするつもりはないよ。大衆文化からの事例というのは、私にとってラカンのパスーーつまり分析主体から分析家へのパッセージ(移動)ーーと同じように根本的なものなのさ。分析主体と分析家、すなわち二つの仲介、二人のpasseurと同じ役割ということ。フランスで人気のあるラカン派季刊誌、――たぶんきみたちは知っているだろうーー、それがL'Âne、つまりロバと呼ばれるのは偶然のことじゃない。この考え方というのは、ある意味で、きみは全的な外在化を受け入れなければならないということ、すなわちどんなわずかな初歩的閉回路の知識さえとも縁を切るということだね。これがまさに私にとっては、大衆文化に依拠する役割なのさ。愚かさの介入による外在化を完全に受け入れることで、どんな初歩的な秘密をも根本的に拒絶すること。これが、ラカンの倫理を正しく価値あるものにしていると、とにかく私はそう理解しているわけさ。

I would like to begin with an almost narcissistic reflection. Why do I resort so often to examples from popular culture? The simple answer is in order to avoid a kind of jargon, and to achieve the greatest possible clarity, not only for my readers but also for myself. That is to say, the idiot for whom I endeavor to formulate a theoretical point as clearly as possible is ultimately myself: I am not patronizing my readers. An example from popular culture has for me the same fundamental role as the Lacanian procedure of the passe - the passage of analysand into the analyst; the same role as the two mediators, the two passeurs. I think it's not an accident that the Lacanian popular quarterly in France, as you probably know, is called L'Âne - the Donkey. The idea is that in a way you must accept a total externalization: you must renounce even the last bit of any kind of initiated closed circuit of knowledge. And precisely this is for me the role of my reference to popular culture. In this full acceptance of the externalization in an imbecilic medium, in this radical refusal of any initiated secrecy, this is how I, at least, understand the Lacanian ethics of finding a proper worth.
大衆文化に依拠するやり方、この必要性、われわれはこのラディカルな――もしきみが望むならロバの愚かさのーー外的な仲介を通り抜けていかなくちゃならないと私は感じているのだが、これはラカンが、すくなくとも最後の段階で、分析家のポジション、対象aの場所を占める分析家のポジションにまつわる“主体の脱解任”として言及したもののひとつのヴァージョンなんだ。このポジションというのは、私が思うに、一見したところ以上に、とてもラディカルでパラドキシカルなものだね。

I think that the way I refer to popular culture, this necessity that I feel that we must go through this radical, if you want, imbecilic, external medium, is a version of what Lacan, in his last phase at least, referred to as the 'subjective destitution' that is involved in the position of the analyst, of the analyst as occupying the place of the objet petit a. This position, I think, is far more radical and paradoxical than it may appear.
さあここでいくらか悪趣味な事例で説明してみよう。市民戦争以前のアメリカの南部の話からだ。ジェイムズ・ボールドウィンの小説を読んだんだ。市民戦争前の古いニューオーリンズの古い南部の娼家の話さ。そこではアフリカン・アメリカンの黒人の召使いは、人間と見なされていなかったのだけれど、たとえば白人のカップルーー娼婦と彼の客――はまったく気にしなかったんだな、黒人の召使いが飲み物を部屋に運んできたって。彼らはシンプルに自分たちの「仕事」を続けていたんだ。性交やらなんやらをね。というのは召使いのまなざしはほかの人間のまなざしとは見なされていなかったわけでね。そしてこの意味で、分析家とは黒人の召使いと同じなんだな。

Let me illustrate it by an example in rather bad taste, a story from the American South before the Civil War. I read in some novel by James Baldwin, I think, that in the whore houses of the old South, of the old New Orleans before the Civil War, the African-American, the black servant, was not perceived as a person, so that, for example, the white couple - the prostitute and her client - were not at all disturbed when the servant entered the room to deliver drinks. They simply went on doing their job, with copulation and so on, since the servant's gaze did not count as the gaze of another person. And in a sense, I think, it is the same with that black servant as with the analyst.
われわれは分析家に向かって話をするとき、自分の恥のすべてを取り除く。愛や憎悪などの最も深い秘密を打ち明けることができるようになる。分析家との関係はまったく個人の感情を交えず、真のフレンドシップの親密さが欠けているにもかかわらずね。これはもっとも決定的なことだと私は思うね。分析家との関係は、きみはたぶん知っているだろうけど、相互主観的な関係ではないのだな。というのはまさに分析処理中の分析家は、他の主体ではないのだから。この意味で分析家は対象の役割を占める。われわれは彼らのなかに私自身を打ち明けるのだな、いかなる親密なフレンドシップもなしにね。

We rid ourselves of all our shame when we talk to the analyst. We are able to confide the innermost secrets of our loves, our hatreds, etc., although our relationship to them is entirely impersonal, lacking the intimacy of true friendship. This is absolutely crucial, I think. The relationship with the analyst, as you probably know, is not an inter-subjective relationship precisely because the analyst in the analytic disposition is not another subject. In this sense, the analyst occupies the role of an object. We can confide ourselves in them without any intimate relationship of friendship.

…………

◆ラカン『セミネールⅧ』より

われわれはフロイトがやったような分析家のポジションではもはやっていくことはできない。フロイトは父のポジションをとって分析をしたのだが……そしてそれが、われわれはどこにいったらいいのかもはやわからない理由だ。というのはわれわれはどのポジションに立って出発したらいいのかはっきりと学んでいないからだ。

“Nous savons bien que nous ne pouvons pas non plus opérer dans notre position d'analyste comme opérait Freud, qui prenait dans l'analyse la position du père. … Et c'est pour cela que nous ne savons plus où nous fourrer — parce que nous n'avons pas appris à réarticuler à partir de là quelle doit être notre position à nous.”( J. Lacan, Le Séminaire, Livre VIII, Le Transfert, Texte établi par J.-A. Miller)

ラカンはのちに分析家のポジションは「知を想定された主体」、すなわち対象aのふりをするサンブラン(みせかけ)としているが、ジジェクが「分析家は黒人の召使い」と語っているのは、ほぼこのことであろう(参照:ラカン派の「転移」のいろいろ)。


上に「主体の脱解任」というラカン用語が出てくるが、ジジェクは最近の書(2012)では次のようなことも書いている。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? (……)神秘的な“パーソナリティの深層”はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。(……)彼は脱-主体化されてしまうのだ。これをラカンは“主体の脱解任”と呼んだ。(『LESS THAN NOTHING』--ソクラテスのイロニーとプロソポピーア

ラカンはフロイトが分析状況において「父」の位置をしめたと言っているが、フロイト自身もそのまずさは認めていたようだ。


Privately, Freud admitted that he took the position of the father during the transference, and he even added that this made him a bad analyst.(”Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.”Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq )
フロイトさえ、「狼男」といわれるロシアの青年に対しては、自分の設定した枠組みを守れなかった。ロシア革命後は生活費を援助したり、結婚の、次いで離婚の面倒を見ている。1910年に得意の絶頂にあったというフロイトだが、この年に狼男が出現すると、人生に奇妙なかげりや波風が立ちはじめ、その後、二、三年のうちにアードラー、ユング、シュテーゲルらとの決裂が相次いで起る。これは、狼男を背負い込んだためのフロイトの精神衛生の低下、余裕の消失でありうる。個人症候群のレベルにおけるすさまじい患者と治療者との心理的暗闘は現場を踏んだ者んびは痛いほど分る。その過程で治療者は周囲から孤立しがちである。ようやく長年の孤立から脱したフロイトが再び孤立への道を歩む分岐点に、私は「狼男」の影がさしはじめているのを感じてしまう。(中井久夫『治療文化論』第七章 P91)

以上は、ラカン派の標準的な分析家のとるべきポジション、あるいはジジェクにおいては書き手としてさえも「父」の位置をとってしまうことを避けるための戦略ともいえるべきものだ。やはり論文形式で書いてしまえば、ラカンの四つの言説のうちの「大学人の言説」になってしまう(この「大学」とは学校システムの「大学」ではないことに注意)。


「飼い慣らされていない」対象(「社会化されていない」子ども)に知を植えつけることによって、主体を作り出すのである。この言説の「抑圧」された真実は、われわれが他者に分与しようとする中立的な「知」という見かけの背後に、われわれはつねに主人の身振りを見出すことができるということである。(大学人のディスクール(ジジェク=ラカン)の備忘

ロラン・バルトならこう言う。


知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

バルトにとっては、教師だけでなく、知識人・評論家も「父性原理」の書き手である。

パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」

ジジェクは、この「父性原理」からつねに逃れようと試みているのだろう。

もういちど精神分析家、いやもっと大きく精神科医の話に戻れば、中井久夫自身、「父」から逃れるためだろう、「精神科医の自己規定」として次のように書いている。たとえば精神科医は傭兵のようなものではないか、と言う(『治療文化論』)。

「苦しい時だけの傭兵だのみ」(……)傭兵が状況をこえることができないのは、精神科医と同じである。時に突然解雇される。決して、秩序回復の日に招待され表彰されることはない。

そして信頼できるのは自らの技術と状況把握力のみである。傭兵にもっとも必要とされる資質は「即興能力」ability of improvizationであるという。眼前の状況をとっさに把握し、手持ちの材料だけを用いて、状況から最大のメリットを搾り出す能力ability of exploitationということができる。やま場において、雇い主はもちろん、状況の中にいるひとたちの誰をも頼りにしてはいけないし、できないのである。

相似性については、なお尽きないが、とにかく精神科医は、以上のことを「歎き節」ではなく、いうまでもない自明の前提条件として受け容れるものでなくてはならないと私は思う。

ビンスヴァンガーに、「きみは二階の陽光をたのしみたまえ、ぼくは地下室で仕事をする」といったフロイトは、この辺りの事情がよくわかっていたのであろう。

だが傭兵だけではない、売春婦でもある、と。

もうひとつの、私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。

そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。

患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。

精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。

実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。

職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただのpromiscuousなひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。)

しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。

以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(P197-198)