私ともあろう者がこの著者に先を越されるとは! こんなヤツは、本なんか書く前にさっさとくたばってしまえばよかったのだ! アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』の序文(ジジェク)
結局、「お前の妹(姉さん、母さん)、すぐにやらせてくれるって話じゃないか」などといった罵り文句は、「〈女性〉は存在しない」という事実、ラカンの言葉を借りれば、彼女が「完全ではない」、「完全に彼のものではない」という事実を、下世話な言葉で表現したものである。「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい。それは、男性の存在の内、象徴界における女性の役割の内に注ぎ込まれた部分を脅かすのである。この種の中傷に対する男性の極端な、全く法外な反応――殺人を含む――を見てもいいだろう。これらの反応は、男性は女性を「所有物」だと見なしている、という通常の説明で片づけられるものではない。この中傷によって傷つけられるのは、男性がもっているものではなく、彼らの存在、彼らそのものである。関連する命題をもうひとつ紹介して、ドン・ジュアンに返ろう。「〈女性〉は存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男性の定義は次のようなものになる――男性とは「自分が存在すると信じている女性である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』冨樫剛訳)
What, after all, are insults like 'your sister (or mother) is a whore' other than vulgar reminders of the fact that 'Woman doesn't exist', that she is 'not whole' or 'wholly his [ toute a lui] ' , as Lacan put it? Thus, the point is that the dictum 'woman is not-all' is most unbearable not for women but for men, since it calls into question a portion of their own being, invested as it is in the symbolic roles of the woman. This is best established by the extreme, utterly disproportionate reactions which these insults occasion, up to and including murder. Such reactions cannot be accounted for by the common explanation that man regards woman as his 'property'. It is not simply his property, what he has, but his being, what he is, that is at stake in these insults. Let us conclude this digression with another dictum. Once we accept the fact that 'Woman doesn't exist', there is only one way to define a man: a man is - as Slavoj Zizek put it in one of his lectures - a woman who believes she exists. (ALENKA ZUPANCIC『 Ethics of the Real Kant, Lacan』)
Now it is perhaps clear why woman is, according to Lacan, a symptom of man - to explain this, we need only remember the well-known male chauvinist wisdom often referred to by Freud: women are impossible to bear, a source of eternal nuisance, but still, they are the best thing we have of their kind; without them, it would be even worse. So if woman does not exist, man is perhaps simply a woman who thinks that she does exist. (ZIZEK THE SUBLIME OBJECT OF IDEOLOGY)
さてジュパンチッチに戻れば、冒頭の文の前に書かれている文もすばらしい。
《'Woman doesn't exist' is not a result of the oppressive character of patriarchal society; on the contrary, it is patriarchal society (with its oppression of women) which is a 'result' of the fact that 'Woman doesn 't exist'》
「〈女〉が存在しない」のは父権制社会の抑圧的特質の結果ではなく、「〈女〉が存在しない」という事実の結果が父権制社会なのである、とされている。
At this point, we can introduce Lacan's infamous statement that 'Woman [la f emme] doesn't exist'. If we are to grasp the feminist impact of this statement, it is important to realize that it is not so much an expression of a patriarchal attitude grounded in a patriarchal society as something which threatens to throw such a society 'out of joint'. The following objection to Lacan is no doubt familiar: 'If "Woman doesn't exist", in Lacan's view, this is only because the patriarchal society he upholds has oppressed women for millennia; so instead of trying to provide a theoretical justification for this oppression, and this statement, we should do something about it.' Yet -as if the statement 'la femme n'existe pas' were not already scandalous enough by itself - what Lacan aims at with this statement is even more so. The fact that 'Woman doesn't exist' is not a result of the oppressive character of patriarchal society; on the contrary, it is patriarchal society (with its oppression of women) which is a 'result' of the fact that 'Woman doesn 't exist', a vast attempt to deal with and 'overcome' this fact, to make it pass unnoticed. For women, after all, seem to exist perfectly well in this society as daughters, sisters, wives and mothers. This abundance of symbolic identities disguises the lack that generates them. These identities make it obvious not only that Woman does indeed exist, but also what she is: the 'common denominator' of all these symbolic roles, the substance underlying all these symbolic attributes. This functions perfectly well until a Don Juan shows up and demands to have - as if on a silver platter - this substance in itself. not a wife, daughter, sister or mother, but a woman.
これは柄谷行人が、マルクス、ニーチェ、スピノザ、あるいはアリエスなどを引用しつつの結果と原因を取り違える「遠近法的倒錯」のことを語っている。
系譜学的な思考、つまり原因と結果の遠近法的倒錯を見出す思考は、《超越論的》な思考に固有のものである。実際に、そのことを最初にいったのは、前章で引例したようにスピノザである。
……いまや、自然が自分のためにいかなる目的因もたてず、またすべての目的因が人間の想像物にすぎないことを示すために、われわれは多くのことを論ずる必要はない。(中略)だが私は、さらにこの目的に関する説が自然についての考えをまったく逆転させてしまうことをつけくわえておきたい。なぜならこの目的論は、実は原因であるものを結果と見なし、反対に<結果であるものを原因>と見なすからである。(『エチカ』第一部付録)(柄谷行人『探求Ⅱ』P191)
ところで、女性が《「完全ではない」、「完全に彼のものではない」という事実を、下世話な言葉で表現したものである。「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい》とあるが、逆にそれだからこそ〈女〉に魅惑されるのだとも言える。
《女は存在しないil n’y a pas La femme》の否定は、定冠詞Laにかかっており、femmeにかかっているのではないことに注意しなければならない。
存在するのは女達les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。(……)
女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。(ミレール 『エル ピロポ』)
無意識には女についての男の無知そして男についての女の無知の点があります。それをまず次のように言うことができます。二つの性は互いに異邦人であり、異国に流されたものである、と。
しかし、このような対称的表現はあまり正しいものではありません。というのも、この無知は特に女性に関係するからです。他の性について何も知らないからなのです。ここから大文字の他の性Autre sexsというエクリチュールが出て来ますが、それはこの性が絶対的に他であるということを表わすのです。実際、男性のシニフィアンはあります。そしてそれしかないのです。(……)
科学があるのは女性というものla femmeが存在しないからです。知はそれ自体他の性についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)
さて、科学さえもが女が存在しないためにあるとされているが、それはこの際うっちゃるとしても、〈女〉は女たちにとっても〈他者〉であるには相違ない。
「女」 もまた「男」にとってというよりはむしろ「主体」にとっての他者なのであり、この決定的な他者性が表象する /されるの関係の成立を原理的に阻害することになる。何ものも表象せず、また何ものによっても表象されえないものが「女」なのだ。(……)
西欧の男根的なまなざしが「女」を裸にすることにかくも執着してきたのは、実のところはそれが、剥いても剥いても実体が露わにならず、よそよそしい他者であることを やめない永遠の「不気味なるもの」だからこそなのではなかったか。(死体と去勢──あるいは「他なる女」の表象 | 松浦寿輝)
世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)
「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)
…………
※附記:ジジェク『斜めから見る』より。
ジョゼフ・マンキエヴィッツの古典的ハリウッド流メロドラマ『三人の妻への手紙』……失踪する婦人は、スクリーンには一度も登場しないのだが、ミシェル・シオンの言う<幻の声>として、つねにそこにいる。画面の外から聞こえる、小さな町に住む宿命の女、アッティー・ロスの声が、ストーリーを語る。彼女は、日曜日に河下りをしている三人の妻のもとに一通の手紙が届くように手配した。その手紙には、ちょうどその日、彼女たちが町にいない間に、彼女たちの夫の一人と駆け落ちするつもりだと、書かれている。旅を続けながら、女たちはそれぞれ自分の結婚生活の問題点をフラッシュバックで回想する。三人とも、アッティーが駆け落ちの相手として選んだのは自分の夫ではないか、という不安に駆られる。なぜなら彼女たちにとって、アッティーは理想的な女性である、妻には欠けた「何か」をもった洗練された女性であり、結婚そのものが色褪せて見えてしまうくらいなのだ。第一の妻は看護婦で、教養のない単純な女性で、病院で出会った裕福な男と結婚している。二番目の妻は、いささか下品だが、ばりばり仕事をする女性で、大学教授であり作家である夫よりもはるかに稼ぎがいい。三番目の妻は、たんに金目当てに裕福な商人と愛のない結婚をして労働者階級から成り上がった女である。素朴なふつうの女、仕事ができる活発な女、狡猾な成り上がり女、三人とも妻の座におさまりきらず、結婚生活のどこかに支障をきたしている。三人のいずれにとっても、アッティー・ロスは「もう一人の女the Other Woman」に見える。経験豊富で、女らしい細やかな気配りがあり、経済的にも独立している、と。(……)
アッティーは三番目の女の夫である裕福な商人と駆け落ちするつもりだったのだが、彼は土壇場になって気が変わり、家に帰り、妻にすべてを打ち明ける。彼女は離婚して相当な慰謝料をもらうこともできたのだが、そうはせずに夫を許し、自分が夫を愛していることに気づく。かくして最後に三組の夫婦が一同に会する。彼らの結婚生活を脅かしているように見えた危険は去った。しかし、この映画の教訓は、第一印象よりもいささか複雑である。このハッピーエンドはけっして純粋なハッピーエンドではない。そこには一種の諦めがある。いっしょに暮している女は<女>ではない、結婚生活の平和はつねに脅かされている、つまり、結婚生活に欠けているように思われるものを体現した別の女がいつ何時あらわれるかもしれない……。ハッピーエンド、すなわち夫が妻のもとに戻ることを可能にしているのは、まさしく、<もう一人の女>は「存在しない」のだ、彼女は究極的にはわれわれと女性との関係の隙間を埋める幻の存在にすぎないのだ、という経験的知である。いいかえれば、妻との間にしかハッピーエンドはありえないのだ。もし主人公が<もう一人の女>を選んだとしたら(もちろんその典型的な例はフィルム・ノワールにおける宿命の女だ)、その選択によって彼はかならずや無残な状況に陥り、命を落とすことすらある。ここにあるのは近親相姦の禁止、すなわちそれ自体すでに不可能なものの禁止、というパラドックスと同じパラドックスである。<もう一人の女>は「存在しない」からこそ禁じられる。<もう一人の女>が恐ろしく危険なのは、幻の女と、たまたまその幻の位置を占めることになった「経験的な」女とは、結局のところ一致しないからである。(ジジェク『斜めから見る』p157-158)
《ふつう気づかれていないことは、ラカンの断言、“La femme n'existe pas”――“〈女〉は存在しない”は、決して象徴的秩序の外にある言いようのない女性的なエッセンスのたぐいに言及しているのではないということだね。象徴秩序に統合されえない、言説の領域の彼岸にあるものでは決してないということだ。》(ジジェク 象徴界(言語の世界)の住人としての女)