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2014年7月13日日曜日

症例ドラのソマティックなフェラチオ欲動

ソマティックという形容詞はアントニオ・ダマシオのソマティック・マーカー仮説」などにより英語読みのまま流通しているが、通常「身体の」「身体的な」とか訳されるのだろう。ソマティックsomatic」の「ソマsoma」、ギリシア語が語源で「生きている身体」とか「流動する身体」という意味であるそうだ。

さてダマシオの仮説については、わたくしの知るかぎり、ジジェク(『パララックス・ヴュー』)や、日本ではラカン派の向井雅明などによる強い批判がある。

ダマシオのシステムにとって他者は必要ない。たとえば愛情というものを感じたとしてもそれは誰かにたいする愛情ではなく、愛情に相当する身体状態を表すニューラルマッピングによって引き起こされた感情でしかない。憐憫の感情にしても誰かかわいそうな人にたいして感じるというのではなく、身体の情動的変化によって引き起こされるのだ。(……)

ダマシオだけではなく、一般的にニューロサイエンスや生物学だけで人間を説明しようとする試みはすべて同じ過ちを犯している。真に人間的な次元を扱うには、人間世界は自然界との切断によって生まれる、あるいは、語る存在としての人間は生命体とは切り離されている、さらにあるいは、 主体とは身体とは超越したものであるということを前提にしなければならない。(向井雅明『 Dの誤り、ダマシオ批判』)

『パララックス・ヴュー』は手元に英文しかないので、ここでは敢えて引用はしないが、ジジェクの態度は次の如し。

ジジェクはむしろ、脳科学や認知科学の成果を肯定する。その上で、そこにパララックスを見いだすのである。たとえば、「意識」はニューロン的なものと別次元にあるのではなく、ニューロン的なものの行き詰まり(ギャップ)において突然あらわれる、という。こうして、ジジェクは、現象学や精神分析といった人文科学的な観点に立つかわりに、現在の認知科学そのものの中に、ドイツ観念論(カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)が蘇生している、と考えるのである。(柄谷行人 パララックス・ヴュー 書評

だが、ここではダマシオ云々をめぐって書くつもりはない。 そもそもダマシオの著書などにかすったこともない身だ。

また「Somatization身体化」という語もあるらしく、DSM-IIIRでは、身体表現性障害(Somatoform Disorder)のなかに位置づけられているそうだが、最近のDSMⅤではどうなっているのかは知るとことではない。

ところで「ソマテック」については、フロイトにも“Somatisches Entgegenkommen”という用語があり、『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ)に頻出する。独語はまったく読めない身だが、英訳では”somatic compliance”とされている。人文書院の旧訳では、このSomatisches Entgegenkommen”は「身体側からの対応」と訳されている(岩波の新訳ではどうかは知らない)。

このSomatisches”が「生きている身体の」とか「流動する身体の」という意味なら、たちまち「欲動」のイメージを抱かせる。事実、ラカン派のポール・ヴェルハーゲによれば、フロイトは後年この用語を「欲動の固着」、「欲動のルーツ」などに言い換えられているとしている。英訳で探してみたが、直接には「欲動の固着」にあたる語はないが、"the fixation of the libido"という訳語が、『性欲論』などに何度か出てくる。

ヴェルハーゲ他はSomatisches Entgegenkommen”について次のように書いている。

フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercqーー症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」

DSM批判の急先鋒のひとりヴェルハーゲーー同じラカン派でありながら、ジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」概念の代表的批判者でもある(参照:ラカン派の「ふつうの精神病」概念をめぐって)ーーが、なぜ現在、初期フロイトに戻って、“Somatisches”に拘るのかは、Lecture in Dublin, 2008 (A combination that has to fail: new patients, old therapists  Paul Verhaeghe )を読むとよく分かる。

the new symptoms have mainly to do with the body, and moreover with the somatic.
Concerning the importance of the body, it is quite obvious that in the new symptoms the somatic aspect is central in a direct, unmediated way. In the classic symptoms, the reality of the body is kept outside the psychopathology

古典的な心因性の症状(象徴界の症状)とは異なるソマティックな欲動の領野の新しい症状(現実界の症状)が、現在の患者の主流であるからこそ、初期フロイトに戻っているのだ。

Today, a hundred years after Freud, we are confronted with totally different symptoms. Instead of phobic constructions, we meet with panic disorders; instead of conversion symptoms, we find somatization and eating disorders. Instead of acting-out we are confronted with aggressive and sexual enactments, often combined with self-mutilation and drug abuse. Furthermore, the aspect of “historization” is missing: i.e., the elaboration of a personal life history in which these symptoms find a place, a reason and a meaning. Finally, the development of a useful therapeutic alliance is not forthcoming. Instead, we meet with an absent-minded, indifferent attitude, together with distrust and a generally negative transference. Indeed, such a patient would have been refused by Freud. I can say, with some exaggeration, that the well-behaved psychoneurotic patient of the past has almost disappeared.


さてここでは、フロイトの『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ)より、「身体側からの対応somatic compliance」の使い方のサンプルを、人文書院旧訳とフロイトの標準的な英訳(Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)より二つばかり抜き出してみることにする。

たとえばこうある。

私の見るかぎり、ヒステリー症状には、どれも心身両面の関与が必要なのである。それはある身体器官の、正常ないし病的現象によってなされるある種の身体側からの対応somatic complianceがなければ、成立しない。

As far as I can see, every hysterical symptom involves the participation of both sides. It cannot occur without the presence of a certain degree of somatic compliance offered by some normal or pathological process in or connected with one of the bodily organs.


以下の例は、人文書院の訳では、「空想」と訳されている“fantasy”を「ファンタジー」とした。現在のフロイト・ラカン派の訳語なら「幻想」でもよいだろう。


いわゆる性倒錯のなかで、比較的厭わしくない者は、医師の著述家をのぞき世人が皆知っているように、我が国民中に広く存在している。というよりも、むしろ著者たちもそのことを知っている、というべきかもしれない。ただ彼らは、それについて書こうと筆をとる瞬間に、そのことを忘れようと努めるだけなのである。それゆえ、このような性交(性器の吸啜)が存在することを耳にしていたわれわれのやがて十九歳になるヒステリー嬢が、無意識で、このような空想(ファンタジー)を展開させ、頸部の刺激感覚と咳によって表現したことは、驚くにはあたらない。そして私が他の女性患者について確定しえたと同じように、彼女が外から教えられなくて、このようなファンタジーに到達できたとしても、これまた驚くにはあたらない。というのは、彼女の例では、倒錯の実際行為とやがて重なりあるこのようなファンタジーを、独力でつくりあげるための身体的前提条件somatic prerequisiteが、注目すべき事実であたえられたのである。彼女は自分が子供のころ、「指啜りっ子」であったことをよく憶えていた。父もまた、彼女にその習慣をやめさせるのに、四歳か五歳になるまでかかったことを思いだした。ドラ自身も、彼女が左の親指をしゃぶりながら、片隅の床に坐り、右手で、そこに静かに座っている兄の耳たぶをむしっていた幼年時代の光景をはっきり記憶している。これこそ指しゃぶりによる自慰の完全な例であって、それについては他の患者もーー後には感覚麻痺の患者やヒステリーの患者もーー報告してくれたのである。私はそのなかのひとりから、この特異な習慣の由来を明らかにする報告をうることができた。この少女は、指しゃぶりの悪習をどうしてもやめられなかったのであったが、子供のころを回想したさいーー彼女のいうところでは、二歳の前半のことーー乳母の乳房を吸いつつ、乳母の耳たぶをリズミカルにひっぱっている自分の姿を思いだした。唇と口腔粘膜が一次的な性感帯と見なしうることには、誰も異論を差しはさまぬだろう。なぜなら、この意味の一部分は、正常なものとされている接吻にも温存されているのであるから。この性感帯の早期における十分な活動が、後日、唇からはじまる粘膜道の身体側からの対応somatic complianceの条件となるのである。そして本来の性的対象、つまり陰茎をすでに知っている時期に、温存されていた口腔性感帯の興奮がふたたび高進するような事情が生れると、すべての源である乳首、それからその代理をつとめていた手指のかわりとして、現実の性的対象、すなわちペニスのイメージを自慰のさいに用いることには、創造力をたいして使う必要もない。こうして、このはなはだ厭わしい、ペニスを吸うという倒錯的ファンタジーも、もっとも無邪気な源から発している。それは母または乳母の乳房を吸うという、先史的ともいえるファンタジーの改変されたものなのであり、普通、それは乳をのんでいる子供との交際でふたたび活発化したものなのである。その場合、たいていは乳牛の乳首が、母の乳首とペニスのあいだの中間表象として使用される。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』人文書院 フロイト著作集5 PP310-311)
The less repellent of the so-called sexual perversions are very widely diffused among the whole population, as every one knows except medical writers upon the subject. Or, I should rather say, they know it too; only they take care to forget it at the moment when they take up their pens to write about it. So it is not to be wondered at that this hysterical girl of nearly nineteen, who had heard of the occurrence of such a method of sexual intercourse ( sucking at the male organ), should have developed an unconscious phantasy of this sort and should have given it expression by an irritation in her throat and by coughing. Nor would it have been very extraordinary if she had arrived at such a phantasy even without having had any enlightenment from external sources - an occurrence which I have quite certainly observed in other patients. For in her case a noteworthy fact afforded the necessary somatic prerequisite for this independent creation of a phantasy which would coincide with the practices of perverts. She remembered very well that in her childhood she had been a thumb-sucker. Her father, too recollected breaking her of the habit after it had persisted into her fourth or fifth year. Dora herself had a clear picture of a scene from her early childhood in which she was sitting on the floor in a corner sucking her left thumb and at the same time tugging with her right hand at the lobe of her brother's ear as he sat quietly beside her. Here we have an instance of the complete form of self-gratification by sucking, as it has also been described to me by other patients, who had subsequently become anaesthetic and hysterical.

One of these patients gave me a piece of information which sheds a clear light on the origin of this curious habit. This young woman had never broken herself of the habit of sucking. She retained a memory of her childhood, dating back, according to her, to the first half of her second year, in which she saw herself sucking at her nurse's breast and at the same time pulling rhythmically at the lobe of her nurse's ear. No one will feel inclined to dispute, I think, that the mucous membrane of the lips and mouth is to be regarded as a primary ‘erotogenic zone', since it preserves this earlier significance in the act of kissing, which is looked upon as normal. An intense activity of this erotogenic zone at an early age thus determines the subsequent presence of a somatic compliance on the part of the tract of mucous membrane which begins at the lips. Thus, at a time when the sexual object proper, that is, the male organ, has already become known, circumstances may arise which once more increase the excitation of the oral zone, whose erotogenic character has, as we have seen, been retained. It then needs very little creative power to substitute the sexual object of the moment (the penis) for the original object (the nipple) or for the finger which does duty for it, and to place the current sexual object in the situation in which gratification was originally obtained. So we see that this excessively repulsive and perverted phantasy of sucking at a penis has the most innocent origin. It is a new version of what may be described as a prehistoric impression of sucking at the mother's or nurse's breast - an impression which has usually been revived by contact with children who are being nursed. In most instances a cow's udder has aptly played the part of an image intermediate between a nipple and a penis.