このブログを検索

2014年7月25日金曜日

「自分の声をさがしなさい」

《自分の声をさがしなさい》(須賀敦子)

文章が表現しようとする内容の混濁と、にもかかわらず文章そのものの音調の明解さというのがありますね。僕は還暦の頃になってようやく、ひとつの極端な例だけど、わかったんですよ。マラルメです。

何を言っているのかわからないんだけど、その言葉の音調だけがきわめて明晰なものとして残るでしょう。そこまで表現として極端にはできないけど、僕は同じようなことを下のレベルでやっていたんじゃないかなと思いましたね。

僕の口調の明澄さを保証するものは何なのか。努めて音調を練ってできるだけ明澄さをつくり出そうとした覚えが、実はないんです。どこかでインプットされたものなのでしょうが、とにかく人間としてもそうだけど、作家としてもいちばんわからないのは自分の本質なんですね。(古井由吉「文藝」2012年夏号)





中井久夫ならこう言う。

「文体」を獲得して初めて、作家は、机に向かわない時も作家でありうる。なぜなら、「文体」を獲得した時、言語は初めて、書かず語らずとも、散策の時も、友人との談話の時も、電車の中でも、まどろみの中でも、作家の中で働きつづけるからである。

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(……)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて」)

…………

女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もうすこし待って。そうしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。これ以上話せないんだから。それから窓ぎわですっぽりはだかになって、月を見ながら、言った。あんたの呼び唄、歌ってよ。でも、そっと、よ。おれが歌ってやると、女はたずねた。あたしのことを愛している? 突っ立ったまま、なにかを待っているみたいに夜を眺めている女を、おれは窓際に押しつけて、抱いた。(ダブッキの『ビム港の女』(邦題『島とクジラと女をめぐる断片』)須賀敦子訳)

四方田犬彦が原典と読み比べて驚愕し呆然とした須賀敦子の訳である。《文体と語彙の豊かさのみならず、より根源的なところで詩的言語の凝縮性をめぐって、彼なり彼女なりはこれまでのテクストの記憶に、意識的・無意識的に動かされることになる。わたしは須賀敦子に、その典型的な例を見るような気がする。》と(参照:おれの心はムクロ(カヴァフィス=中井久夫))。

四方田氏が仮に試訳してみたという訳文なら次の通り。

女はあんな暮らしのわけなど自分でわかるでしょという感じで笑うと、私にいった。もうちょっと待ってから、いっしょに出ましょ、私を信じてくれなくちゃ、いえるのはそれだけ。それから窓のところで裸になると、月を見て私にいった。誘惑の唄をやってよ、でも声はたてないでね。そこで私が歌を歌ってみせると、抱いてよと頼んできた。それで私は立ったまま、窓のところに凭れかかっている女を抱いたのだが、その間ずっと彼女は何かを待っているかのように夜を眺めているばかりだった。(四方田犬彦 試訳)
…………

言語と身体に共通にあるのは声である。しかし声は言語でも身体のいずれの部分でもない。声は身体から生じる。だがその部分ではない。声は言語に属することなく、言語を支える。このパラドックストポロジー。この場のみが言語と身体が共有するものだ。これは対象aのトポロジーである。(ムラデン・ドラー Dolar, Mladen 『A Voice and Nothing More』 eng7007.pbworks.com/f/Dolar.pdf 私訳)

標準的なラカン派であっても、あるいは一般的な研究者の人間把握においても、さらに文学への接近方法においてさえも、声はあまりにもないがしろにされている。視線(まなざし)、あるいは視覚的領野だけが注目されがちなのだ。音楽家や一部の映像作家たち(ビクトル・エリセやストローブ=ユイレなど)はさておき、エクリチュールの領野に限るなら、ごく限られた詩文のすぐれた書き手や読み手のみが、声の秘密を知っているかのようである。





ジジェク曰く、欲動のタームでは、声と眼差しはエロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。《眼差しー恥ー自我理想》と《声ー罪ー超自我》。

《In terms of the drives, the voice and the gaze are thus related as Eros and Thanatos, life drive and death drive……gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.》(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

ラカンは後年、眼差しと声を対象aの主要な化身として分離した。しかし彼の初期理論は眼差しが疑いようもなく特権化されている。だが声はある意味ではるかに際立ち根源的である。というのは声は生命の最初の顕現ではないだろうか?自身の声を聴き、人の声を認知する経験、これは鏡像における認知に先行するのではないか?そして母の声は最初の〈他者〉との問題をはらむつながりではないか?臍の尾に取って換わる非物質的な絆であり、最初期の生のステージの運命の多くを形作るものではないか?(ムラデン・ドラー  『Gaze and Voice as Love Objects』私訳)



《あ、こいつ、粒々しているぞ。しゅうしゅういっている。くすぐっている。こすっている。傷つけている。》

声の《きめ》は響きではない――あるいは、響きだけではない――。それが開いてみせる意味形成性は、音楽と他のもの、すなわち、音楽と言語(メッセージでは全然ない)との摩擦そのものによって定義するのが一番いい。歌は語る必要がある。もっと適切にいえば、〈書く〉必要がある。なぜなら、発生としての歌のレベルで生み出されるのは、結局、エクリチュールだからである。(ロラン・バルト「声のきめ」)





《異郷感からこっそりと忍び込む分身(ドッペルゲンガー)の不快さ》、痛みであり傷であるもの。聴取活動を危機に陥らせる悦楽(享楽)の音楽。《私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である》(ライスブルック)。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)


……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」)


音楽こそ人生の苦悶の精華ではないか。どこかで血が流れていると、響きがいよいよ冴える。

ところがたった一人の恍惚者は果てた後の沈黙を心の静かさと取り違えて、祭司みたいな手つきでレコードを替えて塵を払い、また始める。これにはよほどの神経の鈍磨が必要だ。そうそう自らを固く戒めてきたはずなのに、近頃私はまた、夜中にステレオの前に坐りこんでレコードを取っ替え引っ替え回す悪癖に馴染んでしまった。 ただ、音の流れが跡切れると、間がもてない。音が消えたとたんに、自分を囲む空間のまとまりがつかないような、物がひとつひとつ荒涼とした素顔を見せて、私を中心にまとまるのを拒むような、そんな所在なさを覚える。

しかしさいわい、音楽と私とは、相変らず折合いが良くない。一節がこちらの身体の奥へすこしく深く響き入って来ると、私の神経はたちまちざわめき立ち、音楽のほうもなにか耳ざわりすれすれのところまで張りつめ、両者は互いを憎むことにならぬようあっさり別れる。(古井由吉『哀原』赤牛)



アファナシェフは、ある種の作品の演奏で吃るのだ、唐突にどもりだす。《文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。》(ドゥルーズ『ディアローグ-』)

◆シューベルトの最後のピアノソナタ第21番変ロ長調D.960について(アファナシエフ『ピアニストのノート』より)

それに私も、どうすればこのソナタの心理的な重みに耐えることができるだろう。たとえウィークデーの夜、小さなホールで演奏するだけとしても。このソナタをわが家で弾いたら何が起こるだろう?大文字の「他者」がそのまったき光輝と恐怖とともに出現する。ある意味において、このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ。弾けば弾くほど、私は具合が悪くなる。私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばすことを知りながら―――今回も、とどめの一撃を与えてはくれないのだ―――私はこの他者を抱きしめ、接吻する。日常生活の中でなら、こんなにひどいカタストロフに襲われれば命を落としていただろう。





《このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ》、あるいは《私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばす》とも言う。


彼の演奏は、吃るというだけでは足りない。音が流れてしまうことを拒絶し(いわゆる華麗な演奏にあるような)、その一音一音を刻み込むさま。「耳で聞く」のではなくて、ほとんど読まねばならないこれらの音。華麗な演奏が流暢な演説口調のパロールであるならば、ここには《二行を探し求めて二日》のフローベールのようなエクリチュールがある。それは異質の聴き手に語りかけているかのようであり、あるいは聴くのではなく読まなければならないかのようなのだ。あるいはこう言ってもいい、アファナシェフは、音のなまなましい抵抗感に犯されることの苦痛が倒錯的な快楽に反転する瞬間を辛抱強く待ちつづけているかのようだ、と。

こうして、音楽の未来の扉が開くかすかな予感ーー何かはわからないが何かが確実に存在しようとして息をひそめているこの感覚、ーーがあたりに瀰漫しはじめる。そして、いつのまにか未来のドアがわずかに開き、隙間のなかに保留されていた光が漏れ入るかのような瞬間がある。そこにあるのがわからなかった部屋が見えるのだ。

…………

ケロールは作家や詩人たちの視覚的感受性の代わりに正真正銘の声の想像力を持っている。第一に、声はどこからか現れ、流れ出ることができる。だが、一旦発せられると、その声はどこかには存在する。あなたの周囲に、あなたのうしろに、あなたの横に。しかし、結局、決してあなたの前にはいない。声の真の次元は、間接的、側面的次元なのである。声は脇から他者に接し、軽く触れ、去っていく。声は自分の出自を名乗らず触れることができる。したがって、声は名づけられないものの記号である。それは、身体の物質性、顔の特徴、あるいは、視線の人間味を取り除いてもなお、人間から生まれ、存在し続けるものである。それは最も人間的であると同時に非人間的な実体である。声がなければ、人間同士のコミュニケーションもないが、声があると、また、冥界にせよ天界にせよ、超=自然から、つまり異郷感からこっそりと忍び込む分身(ドッペルゲンガー)の不快さをも生ずる。よく知られたテストによると、皆(テープレコーダーで)自分自身の声を聞くのを嫌がり、自分の声だということがわからないことさえしばしばあるという。それは、声というものは、その出所から切り離しても、つねに、一種の奇妙な親密さを生み出すからであるが、この親密さこそ、ケロールの世界、すなわち、その正確さによって識別され、しかし、その起源消失によって識別されることを拒む世界の親密さである。声はまた別の記号でもある。つまり、時間の記号である。どのような声もじっとしていない。絶えず過ぎ去る。さらには、声が示す時間は穏やかな時間ではない。声はどんなにむらがなく、慎ましくとも、その流れに何の切れ目がなくとも、声は皆脅かされている。人間の生の象徴的な実体である声は、つねに始めには叫びがあり、終わりには沈黙がある。この二つの契機の間に、パロールの頼りない時間が広がるのである。流動的で、しかも、脅かされている実体である声は、したがって、生そのものである。そして、おそらく、ケロールの小説は、つねに、純粋で孤独な声の小説であるからこそ、それはまた、つねに、頼りない生の小説でもあるのだ。(ロラン・バルト「削除」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)

そしてもうひとつ、ニーチェの音調、文である思想、という歌唱。

『批評的エッセー』の中によく見てとれるように、エクリチュールの主体は「進化する」のである(荷担〔アンガーシュマン〕の道徳から、記号表現の道徳性へと移行して)。彼は、みずからが対象として扱う著作者たちに応じて、順を追って進化する。けれどもそれを導くものは、私がそれについて語る著作者自身ではなく、むしろ、《その著作者によってしむけられて私がその人について語るにいたることがら》である。つまり、私は《その人の認可のもとに》私自身から影響を受ける。私が彼について語ることがらによって、私は、私自身についてその同じことを考えさせられる(あるいは、そのことを考えないようにさせられる)、と、そんなふうに言ってもいい。

だから二種類の著作者たちを区別しなければならない。第一は、人がある著作者たちについて書く、そういう対象としての著作者たちであり、彼らからの影響は、人が彼らについて語ることがらの外にはなく、そのことがらに先立つものではない。そして第二は(もっと古典的な考えかたであり)、人が読む対象としての著作者たちである。ところで、第二の著作者たちから私に及ぼされるものはいったい何だろうか。一種の音楽、一種思索的な音の調子、程度の差はあるがともかく厳密なアナグラムのゲームである。(私の頭はニーチェでいっぱいであった。読んだばかりだったのである。しかし私が欲していたもの、私が手に入れたがっていたものは、文である思想、という歌唱であった。影響は純粋に音調上のものであった。)(『彼自身によるロラン・バルト』)

だが肝要なのは声だけではない。においやフェロモンがさらに根源的であるという視点がある。

……無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」ーー不安のにおい
成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体harmonious mix-upの感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』p57)