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2014年7月24日木曜日

「もう、いけずやわあ。うちそんなん、よう言わん」

外国語でわいせつな言葉を使っても、わいせつな言葉とは感じない。わいせつな言葉は、なまって発音されるとこっけいになる。外国人女性を相手にしてわいせつであることの難しさ。わいせつ、私たちを祖国に結びつけるもっとも深い根。(クンデラ『小説の精神』)

『小説の精神』は手元にあるけれど
今はツイッターBOTから。
巧いねえクンデラ
そうなんだよな滑稽になっちまうんだ
これは祖国のちがいだけじゃなくて
国内だって方言の違いでそうなんだな
東海道のほぼ真中の田舎町で育ったんだけど
おまんこの土地だったんだな
東京ではなんとかいけたけど
後におめこやおそその土地に住んで
おめこはまだしもおそそは滑稽になることを怖れて
なかなか口にだせなかったねえ

《京舞のおっしょはんがおでっさんのおいどを物差しで叩きながら「おそそ、お締め!」》

《男「え、ここか」 女「あ、あかんて、そこおいどやし」 男「ほなら、こっちか。ここやろ。ねぶったるわ。ここ何て言うんや。言うてみ。」 女「おそ…  もう、いけずやわあ。うちそんなん、よう言わん。」》

ああでも懐かしいなああ

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)





《けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い/終りを》(西脇順三郎)


古語としては下記の如くだそうだ

ホト
ツビ・通鼻(『和名抄』より)
クボ(『名義抄』より)
玉門[ぎょくもん](『和名抄』より。部位でいうと、子宮)
朱門(俗称 部位でいうと、子宮)
女門(『房内経』より)
丹穴(『房内経』より)
朱室(『房内経』より)
吉舌[ひなさき](『和名抄』より。部位でいうと、クリトリス)
陰唇(部位でいうと、クリトリス)
サネ(俗称 部位でいうと、クリトリス)

なんだい、玄牝の門がないじゃないか

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)

静岡方言は、ツンビー、オチョコ
愛知方言は、ベンチョ オベンチョ(名古屋市)

ーーともあるけれど、知らなかったなあ


人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性 adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。

それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。(中井久夫「訳詩の生理学」)

黒田夏子の『abさんご』の冒頭近くにある文章のたぐい稀なるエロスってのは
やっぱりアレだよなあ

《またある朝はみゃくらくもなく,前夜むかれた多肉果の紅いらせん状の皮が匂いさざめいたが,それはそのおだやかな目ざめへとまさぐりとどいた者が遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえの,淡い夕ばえのえんさきからの帰着だった.》

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』ーーかつて二度訪ねたことのある家

こんなもんを抑圧したっていいことないぜ
抑圧したものはどうせ回帰するんだから

そうしようとは思っていなかったのにとりあえず鈴を鳴らし、社に手を合わせたあと、振り向いて川を見下ろした千種は、

「今日も割れ目やねえ。」

 川が女の割れ目だと言ったのは父だった。生理の時に鳥居をよけるというのと違って、父が一人で勝手に言っているだけだった。上流の方は住宅地を貫く道の下になり、下流では国道に蓋をされて海に注いでいる川が外に顔を出しているのは、川辺の地域の、わずか二百メートルほどの部分に過ぎず、丘にある社からだと、流れの周りに柳が並んで枝葉を垂らしているので、川は、見ようによっては父の言う通りに思えなくもない。(田中慎弥『共喰い』

先日メコンの濁流を眺めてきたがね
やっぱり巨大なる割れ目だよあれは
いや割れ目というより母胎だね
大文字のオカアチャンの大河だよ