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2014年6月30日月曜日

「人間嫌い」と「人間大好き」

昼食後の息抜きの時間なり。ツイッターをいつものように眺める。

このごろ、だんだんわかってきたことですが、「人間嫌い」とはじつは自分が嫌いな人ではなかろうか。そして、その底には「人間大好き」が潜んでいるのではなかろうか。(中島義道『人生を<半分>降りる』)

その著書を読んだこともないカント学者の中島義道ツイッターbot (@yoshimichi_bot)から。

なかなか「共感」したくなるbotであり、わたくしもどちらかと言えば「人間嫌い=人間大好き」なのだが、たとえば次のようなのもある。

最近、人間として最も劣悪な種族は鈍感な種族ではないかと思うようになった。この種族は、(いわゆる)善人にすこぶる多い。それも当然で、善人とはその社会における価値観に疑問を感じない人々なのだから。『人生に生きる価値はない』中島義道
社会的成功者とは傲慢かつ単純な人種が多いので、自分の成功を普遍化したがる。こんな自分でも成功した、だからみんなも諦めずにやってみたら、という「謙虚な」姿勢の裏には、臭いほどの自負心が渦巻いている。しかも、底辺から自力でのし上がって来た人ほどこの臭気は強い。『私の嫌いな10の言葉』中島義道

さて、手元にある資料を附記しておこう。

◆《「人間嫌い」とはじつは自分が嫌いな人》から、中井久夫による「己との折り合いと他者との折り合い」。

「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」(……)

こういう眼で人をみているとなかなか面白い。ひとが自分とどれほど折り合いをつけているかは内心の問題で、それを眼で直接見ることはできないが、そのひと以外の人間との折り合いをつけうる程度というものは、眼に見えるものから多少推し量ることができる。

私は精神科医をもう長年やってきたが、その領域から例を持ち出すのはいくらでもできるし、実際、ほとんど絶対に他者と通じ合えないようにみえる患者は何よりもまず自分と通じ合えていない。私が思い合わせるのは分裂病の一時期――決して全時期ではない!――にかんしてのものである。しかし、ここでは、そういう職業的な体験を持ち出すのはフェアではあるまい。それに、この命題はもっと一般的なものであり、ひょっとすると倫理というものの基本の一つであるかもしれない。

非常にありふれた例として、荒れている少年とか、些細な違反を咎めてとめどなくなる教師の内部をかりに覗き込むことができるとすれば、自分との折り合いが非常に難しく、自分と通じ合えなくなっているはずだと私は思う。

性というものにかんしてもそういうことができる。自分のセクシュアリティと「通じ合う」、すなわち折り合いをつけられるのは、他者のセクシュアリティを認め、それとのやさしいコミュニケーションができる限度においてである。「片思い」の全部とはいわないが、その多くは自分と自分の肥大した幻想とが通じ合えなくて実はみずから「片思い」を選んでいるのである。さいわい多くの場合、それは一時的な通過体験であるが、もっとも「純粋」な片思いも「ストーカー」と紙一重の危ない面がある。(中井久夫「感銘を受けた言葉」ーーヴァレリーのカイエと中井久夫


◆《「人間嫌い」の底には「人間大好き」が潜んでいる》からは、プルーストによる「絶対的な蟄居の群集への度外れな愛」。

堤防に沿って歩いているそんな人たちは、まるで船の甲板を歩いているように、みんなひどくからだをゆすぶっていて(……)、ならんで歩いてゆく人たちや反対の方向からくる人たちと衝突しないように心がけながら、相手をこっそりながめ、しかも相手に無関心だと思わせるために、見て見ないふりをするのだが、そんなふうにして衝突を避けながら、やはり相手にぶつかったり突きあたったりするのは、おたがいに表面で軽蔑を装っていても、その底では、どちらからも相手にひそかな好奇心をよせているからで、群集にたいするそうした愛情は―――したがってまた恐怖は―――他人をよろこばせようとするときでも、おどろかせようとするときでも、軽蔑していることを示そうとするとこでも、あらゆる人間の内部のもっとも強い動機の一つなのであり、孤独者にあって、生涯のおわりまでつづくほどの、絶対的な蟄居でも、その根本は、しばしば群集への度外れな愛にささえられていることが多く、それが他のどんな感情よりもまさっているので、外出したとき、住まいの入口の番人や、通行者や、呼びとめた馭者などから、感心されることがないと、今度はもう彼らに見られたくない、そのためには、外出を必要とするどんな活動も断念したほうがいい、と思うようになるのだ。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」井上究一郎訳)


◆「人間大好き」にもかかわらず「迷路に踏み込んでしまう」、とするトーマス・マン。

認識と創造の苦悩との呪縛から解き放たれ、幸福な凡庸性のうちに生き愛しほめることができたなら。…もう一度やり直す。しかし無駄だろう。やはり今と同 じことになってしまうだろう。-すべてはまたこれまでと同じことになってしまうだろう。なぜならある種の人々はどうしたって迷路に踏み込んでしまうから だ。(……)

私は、偉大で魔力的な美の小道で数々の冒険を仕遂げて、『人間』を軽蔑する誇りかな冷たい人たちに目をみはります。-けれども羨みはしません。なぜならも し何かあるものに、文士を詩人に変える力があるならば、それはほかならぬ人間的なもの、生命あるもの、平凡なものへの、この私の俗人的愛情なのですから。 すべての暖かさ、すべての善意、すべての諧謔はみなこの感情から流れ出てくるのです。(トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」)


◆人間嫌いでないひと、人間観察を好まないひと、「無私の人」は、実は「人間軽蔑者」ではないかい?

心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」十五 原佑訳 ちくま学芸文庫)
身ぶり、談話、無意識にあらわされた感情から見て、この上もなく愚劣な人間たちも、自分では気づかない法則を表明していて、芸術家はその法則を彼らのなかからそっとつかみとる。その種の観察のゆえ、俗人は作家をいじわるだと思う、そしてそう思うのはまちがっている、なぜなら、芸術家は笑うべきことのなかにも、りっぱな普遍性を見るからであって、彼が観察される相手に不平を鳴らさないのは、血液循環の障害にひんぱんに見舞われるからといって観察される相手を外科医が見くびらないようなものである。そのようにして芸術家は、ほかの誰よりも、笑うべき人間たちを嘲笑しないのだ。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳)


《自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」手塚富雄訳)


もっとも、礼儀や信頼の象徴的効果を侮ってはならないだろう。礼儀や信頼関係に騙されないひとは間違える(参照:騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent)。軽蔑やいじわるな態度をとれば、相手はいっそう悪くなる。

悪く考えることは、悪くすることを意味する。 ――情熱は、悪く陰険に考察されると、悪い陰険なものになる。 (ニーチェ『曙光』76番)

これは通俗道徳ではあるが、この通俗道徳で、われわれの生は99%やっていける。隠遁していてすむような職業でなければ、ひとはニーチェやプルーストの態度をいつもとっているわけにはいかない。ただその通俗道徳を超えた「極地が存在する」。そのことに意識的でなければならない。

現代ではストオリイは小説にあるだけではない。宗教もお話であり、批評もお話であると私は書いたが、政治も科学も歴史もお話になろうとしている。ラジオや テレビは一日中、料理や事件や宇宙について、甘いお話を流し続け、われわれは過去についてお話を作り上げ、お話で未来を占っている。

これらのお話を破壊しないものが、最も慰安的であるが、現実にもわれわれの内部にもお話の及ばない極地は存在する。人間はそこに止ることは出来ないにしても、常にその存在を意識していなければならない。だからこの不透明な部分を志向するお話が、よいお話である、というのが私の偏見である。(大岡昇平『常識的文学論』)


《幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ》(アラン)


私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。(アラン「オプチミスム」