秋 西脇順三郎
灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に
麦の穂や薔薇や菫を入れた
籠にはもう林檎や栗を入れなければならない。
生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で
神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bulletin/pdf/19niikura-kioku.pdf
「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、
散文とはその図式的側面を主にした使用である」
(中井久夫『現代ギリシャ詩選』序文)
詩にどんな徴候を感じるか
それは読み手しだいだ
西脇があれは猥談だといったって
猥談として読む必要はない
『失われた時をもとめて』の初稿のラスクやトーストが
「厳格で敬虔な襞の下の、あまりにぼってりと官能的な、
お菓子でつくった小さな貝の身」
「溝の入った帆立貝の貝殻のなかに
鋳込まれたかにみえるプチット・マドレーヌ」に変わったって
鋳込まれた〔moulé〕ーーmoule(ムール貝)には、女陰の意味があったって
荒木について騙りたいと思うが
《微熱あるひとのくちびるアマリリス》(吉岡実)
《聖天様には油揚のお饅頭をあげ、
大黒様には二股大根、
お稲荷様には油揚を献げるのは
誰も皆知っている処である》(荷風『日和下駄』)
聖天様のお饅頭は男女の悩みのため
大黒様の二股大根は破壊と豊饒、
お稲荷様の油揚は大地に蒔かれた種への祈願
いまは誰も皆知っているわけではない
ーーなどというつもりは、わたくしには毛ほどもない
ただシーレとクリムトを同時に好むヤツは
あまり信用したくないということはある
そう読む必要はないように
もちろん朧げながら最初からそう感じてしまう読み手だっている
ゴモラの女アルベルチーヌが「囚われの女」となって
もちろん朧げながら最初からそう感じてしまう読み手だっている
長いあいだ、プチット・マドレーヌはわたしを苛立たせてきた。(……)何といっても、スプーンのなかでとけ崩れるこの菓子の、色あせた昔の匂いとそのスポンジ状の質感に、なにかそれがいかがわしい、ひょっとすると淫らなことでさえあるかのような居心地の悪さを覚えてきた。(フィリップ・ルジェンヌ「エクリチュールと性」)
しきりに求めるアイスクリーム、アスパラガス、牡蠣などだって
ただ食欲旺盛の乙女の好みとだけ読んだっていい
(ここでの比喩は)……カイエ1 のオナニスムのテクストにもあった妙な形の雲が浮かんでおり, しかもそれは帆立貝coquille de Saint-Jacques に似ており,弁がついているvalvé と言うのだから穏やかではない。なぜなら,驚くべきことにこれらの表現は決定稿のマドレーヌの描写にぴったり一致するからである。
Ph. ルジュヌがvalve をvulve に通じるものと考え,マドレーヌの形(……)を女性器に適合したものと考えたのは,決して根拠のないことではなかったのだ。カイエ27 のテクストは何よりもそのアナロジーを雄弁に実証している。と言うのは,女性器としての雲のイメージは直後に来るジルベルトとの接吻の場面を予告し,主人公のリピドーを暗示する性的な風景だからである。(吉田城「プルーストと性的風景」)
荒木について騙りたいと思うが
キノコやクリの話ではない
ましてや栗と栗鼠でもない
ましてや栗と栗鼠でもない
ヒョウタンを磨きたいわけでもない
麦の穂でつついた薔薇や菫が
なぜ林檎や栗にはやがわりしたのかも
知るところではない
だがおそらく秋のせいだ
さらに晩秋には籠は不用となる
朽ち枯れたキノコの具合をもう考えることもなく
川ばたに季節はずれの蕾を膨らますアマリリスを慈しみ
あるいは谷さきに埋もれた二股大根を愛でるのみ
朽ち枯れたキノコの具合をもう考えることもなく
川ばたに季節はずれの蕾を膨らますアマリリスを慈しみ
あるいは谷さきに埋もれた二股大根を愛でるのみ
《微熱あるひとのくちびるアマリリス》(吉岡実)
たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠ってゐる女の子の口に指をいれようとなさつたりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。
「女の子を起こさうとなさらないで下さいませよ、どんなに起こさうとなさつても、決して目をさましませんから…。女の子は深あく眠つてゐて、なんにも知らなんですわ。」と女はくりかえした。(川端康成『眠れる美女』)
《聖天様には油揚のお饅頭をあげ、
大黒様には二股大根、
お稲荷様には油揚を献げるのは
誰も皆知っている処である》(荷風『日和下駄』)
盛リ上ガッテイル部分カラ土蹈マズニ移ル部分ノ,継ギ目ガナカナカムズカシカッタ。予ハ左手ノ運動ガ不自由ノタメ,手ヲ思ウヨウニ使ウコトガ出来ナイノデ一層困難ヲ極メタ。「絶対ニ着物ニハ附ケナイ,足ノ裏ダケニ塗ル」ト云ッタガ,シバシバ失敗シテ足ノ甲ヤネグリジェノ裾ヲ汚シタ。シカシシバシバ失敗シ,足ノ甲ヤ足ノ裏ヲタオルデ拭イタリ,塗リ直シタリスルコトガ,又タマラナク楽シカッタ。興奮シタ。何度モ何度モヤリ直シヲシテ倦ムコトヲ知ラナカッタ。(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)
聖天様のお饅頭は男女の悩みのため
大黒様の二股大根は破壊と豊饒、
お稲荷様の油揚は大地に蒔かれた種への祈願
いまは誰も皆知っているわけではない
「いちはつのような女と
はてしない女と
五月のそよかぜのようなと
この柔い女とこのイフィジネの女と
頬をかすり淋しい。
涙とともにおどる
このはてしない女と。」(西脇「無常」)
荒木の写真は、自分がいなくても自分が写りこむ「私写真」と本人が称するように、写真家の"存在"を痛烈に感じさせるものだ。直接姿を見せずとも、自分を写真の中に色濃く写し出す。(……)
こうした写真家の意図が、「自然に、ありのままに裸体が存在しているはず」という見るものの思惑を、そして見るものの視線を中断させるのだ。できるだけ写真家の痕跡を消そうとしていたグラビア写真とは正反対の行動である。荒木の写真は、扱う題材が一般的なポルノグラフィーとほとんど変わらない、もしくはそれ以上に過激であるにもかかわらず、「役に立たない」写真であるとされている。伊藤俊治の言葉を借りれば、「孤独な満足」を得られないのである。ポルノグラフィーでは可能だった鑑賞者と被写体との個人的な関除に、第三者として荒木が割って入っているからだ。(「私的な視線によるエロティシズム : 荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察」秦野真衣)
荒木の写真に出てくる女性たちは、たいてい裸である。そのうえ大股を広げたり、尻を突き出したりして性器を露に見せることも少なくない。時にはまさに性交の最中に撮られたと思われる写真もある。写された女性たちの姿は、暴力的なポルノグラフィーの姿とほとんど変わりはない。にもかかわらず荒木の写真がポルノグラフィーではないのは、作者の存在があるからであった。(……)シーレの絵の中の女性も荒木の写真の中の女性も、彼女たちの視線を向けている方向をみると、自分の目の前に存在する作者のことしか考えていないように思われる。どんなに笑いかけていても、煽情的なポーズをとっていても、彼女たちの視線は「見る」ものの視線を飛び越えていく。モデルたちはカメラに振られていることに対しては充分に自覚的だが、その背後にある写真を見るであろう無数の視線には反応を示さない。自分にとって重要で、意味を成すのは目の前にいる写真家との関係だけだからだ。(同上)
問題は、この絵に"描かれているもの"だ。裸の女性のポーズは挑発的であるにもかかわらず、この絵はポルノグラフィーではない。その理由を飯田善國は「そこに描かれているのは性の演技ではなく、画家とモデルとの一回限りの、ある微妙な関係だけが真の主題として措かれているから」だと説明する。「一回限り」とは「生」が一回であることによる時間の限定であり、シーレもモデルも共に一回性の中で出会い、生きる。シーレの視線があれほど真撃であるのは、たった一回の出会いを逃すまいと必死だからだ。(同上)
作品がワイセツであるかどうか、そんなことは私にとって何ら興味もない。私に興味があるのは、それが絵としてどれほど完成し、どれほど独創的であったか、ということである。歌麿のすべての版画のなかでも、これほど完成し、これほど独創的なものは、おそらく少い。(加藤周一「対象との距離」『絵のなかの女たち』所収)
ーーなどというつもりは、わたくしには毛ほどもない
ただシーレとクリムトを同時に好むヤツは
あまり信用したくないということはある
浅田彰が荒木経惟の写真のウェットな感傷性を批判しても
あまり聴く耳をもたないということもある
あまり聴く耳をもたないということもある
荒木経惟は(……)、しみったれた私の人生の断片を薄汚い私写真として切り売りし、臆面もなく俗情に訴えてみせる。あざとい戦略であったにせよまさしく私への撤退だったわけです。もっとも、勤務先の電通のゼロックスを使って写真集をつくってしまうとか、猥雑表現の検閲と戦いながら穴倉のような小部屋を女性器の写真でうめつくすとか、(……)、そこには肥大した私へのだらしない居直りだけがのこるんですね。
その篠山紀信から荒木経惟へ、極端に外在化されたものから悪い意味で内面化、主観化されたものへ、というシフトが起こった。それは一見、商業的なものから私的なものへのシフトのように見えて、実は私的なものこそが商業的により効果的だったという皮肉な落ちがついたわけです。(浅田彰 中平卓馬という事件)