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2013年4月20日土曜日

「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より


社会思想史を研究しているらしい、おそらく若い方なのだろうが、次のような発言に一週間ほど前、行き当たった。

《生活保護にしろ在日にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、就職活動で自分の人生の選択を迫られている時に遠くの土地で起こっている排外デモに気をとめるだろうか。毎日毎日夜遅くまで働かされて家庭のために頑張ってるなかで生活保護をめぐる過剰なバッシングの欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。これは、生命過程の必然性(アレント)のせいではない。後期資本主義という社会制度のせいである。我われの眼差しは、胃袋からやはり社会構造へ。》


おそらく今、大学に残って研究されている人の大半は、このような感じ方をもっているのだろう(上の文は、今はニーチェやドゥルーズを中心に研究しているらしいーーたしか最近「現代思想」のニーチェ特集での討論に参加した人物と記憶するーー、哲学と政治思想の研究者のツイッター上のリツイートなのだが)、あるいは、すでに教師の職を得た四十前後の学者たちでさえ。だが余裕がないから、レイシズムや生活保護に無関心のとき、はたして社会構造にまなざしが向くのだろうか。

加藤周一は、「彼らが気になるという事実がまずあって、私がその事実から出発する」と四十年以上まえ書いている。


……最近になって、ある新聞記事を読むまでは、南ヴェトナムの子供たちがどれほど殺されたのかということも、ほとんど知らなかった。一九六一年から六六年まで、ナパームで爆撃された南ヴェトナムの村では二五万人の子供が死んだ」とその新聞の記事は報告していた、「七五万人が手肢をもぎとられ、負傷し、火傷を負った……」(記事のもとになったのは、米国のカトリックの学校で、子供のための研究所を指導していた人のヴェトナム視察報告である。)そこに書かれていた数字は、正確ではなかったかもしれない。しかし故意に誇張されていたのではなかっただろう。たとえ殺された子供が、二五万人でなく、実は二〇万人であったとしても、三〇万人であったとしても、そのことの意味に変わりはない。それをどうすることも私にはできない。とすれば、なんのために、遠い国のみたこともない子供たちのことを、私は気にするのであろうか。――その「なんのために」に、私はみずからうまい返答を見出すことができない。 
新聞記事を読んだ日の夕方に、私は旧知の実業家とハンガリア料理の店で、夕食をしていた。(……)久しぶりで会った私たちは、飲食の評判をしたり、最近の下着の流行の話をしていた。(実業家の若い妻君は、そういうことに詳しかった。)私はそういう話が少しつづいたところで、「どうも経済的繁栄の第一の徴候は、瑣末主義のようですな」といった。私はそれを、自ら嘲りながら、皮肉な冗談としていったのである。しかし実業家の妻君は、それを真面目な非難としてうけとったらしい。「それはどういう意味ですか」と彼女は笑わずに反問してきた。「ヴェトナム戦争の真最中に、私たちが出会って、流行の袖の長さが一糎長いか短いかという話をしているということですよ」と私は説明した。「いいじゃないか」と実業家はいった。「二五万人の子供が殺されている、という話を知っていますか」「ぼくは信じないね」「そう気軽にいいなさんな」と私はいった、「そもそもあなたは、ヴェトナム戦争についてはどんな初歩的なことも知らないのでしょう。交戦している一方の側の言分は漠然と知っていても、他方の側の言分は一度も読んだことさえない。ジュネーヴ協定の内容も、三国監視委員会の公式報告も見たことがない。それでは、私のいったことが、ありそうもない、と考える根拠もないでしょう。基礎資料を見もしないで、ぼくは信じない、などといっているから、あなた方は、ナチが何百万人も殺してしまった後になって、強制収容所と毒ガス室のことは知らなかった、といい出すのだ。彼らは知らなかったのではなく、知りたくなかったのだ。あなたが信じないのではなく、信じたくないのだ……」。 
「ぼくはそういうことを知りたくないね、平和にたのしんで暮したいのだ」とその実業家はいった、「知ったところで、どうしようもないじゃないか」――たしかに、どうしようもない。しかし「だから知りたくない」という人間と、「それでも知りたい」という人間とがあるだろう。前者がまちがっているという理くつは、私にはない。ただ私は私自身が後者に属するということを感じるだけである。しかじかの理くつにもとづいて、はるかに遠い国の子供たちを気にしなければならぬということではない。彼らが気になるという事実がまずあって、私がその事実から出発する、また少なくとも、出発することがある、ということにすぎない。二五万人の子供――役にたっても、たたなくても、そのこととは係りなく、そのときの私には、はるかな子供たちの死が気にかかっていた。全く何の役にもたたないのに、私はそのことで怒り、そのことで興奮する。……(加藤周一『羊の歌』1968--「古きよき日の想い出」の章 P167 )




加藤周一は『続 羊の歌』「格物到知」の章で同じような議論を繰り返して書く。

いくさの間語り合うことの多かった旧友の一人は、中国の戦線へ行き、病を得て還った。戦後の東京で出会ったときに、「政治の話はもうやめよう」と彼はいった。「ぼくはひっそりと片すみで暮したいよ」「しかし君を片すみからひきだしたのは戦争だね、戦争は政治現象だ」と私はいった。「戦争はもう終ったではないか」「政治現象は、決して終らない」「しかしどうにもならぬことではないか」「たとえどうにもならないことであるとしても」とそのときに私はいった、「ぼくはぼくの生涯に決定的な影響をあたえたし、またあたえることのできるだろう現象を、知りたいし、見きわめたいと思う。たとえどうにもならないとしても、女房の姦通の相手を知りたいと思うのと同じことだ」「ぼくは知りたくないね」と彼はいった。「それは、どうにもならないから、ではないだろう。知りたくないということがまずあって、どうにもならない、という理くつがあとから来るのだ」「そうかもしれない、そうしておいてもいいよ」「しかしその理くつはおかしいのだ。君はしずかに暮したいという。しずかに暮らすための条件は、君の女房の行動よりも、もっと決定的に、われわれの国の政府がどういう政策をとるかということだ。それは知りたくない……」「何も知らずに暮しているのが、いちばん幸福だね」と彼は呟き、私は彼を理解していた。いくさの傷手は、私の想像も及ばぬほど深かったにちがいない。それは私の想像も及ばぬ経験があったからだろう。もはやそれ以上いうことは何もなかった。しかし私は物理的にそれが不可能でないかぎり、私自身を決定する条件を知らなければならない。歴史、文化、政治……それらの言葉に、私にとっての意味をあたえるためには、私自身がそれらの言葉とその背景につき合ってみるほかない。(『続 羊の歌』P183-184

そして、85歳時の加藤周一の講演でも繰り返される。

聞きたいことは信じやすいのです。はっきり言われていなくても、自分が聞きたいと思っていたことを誰かが言えばそれを聞こうとするし、しかも、それを信じやすいのです。聞きたくないと思っている話はなるべく避けて聞こうとしません。あるいは、耳に入ってきてもそれを信じないという形で反応します。(第2の戦前・今日  加藤周一 2004)www.wako.ac.jp/souken/touzai06/tz0605.pdf
第2次大戦が終わって、日本は降伏しました。武者小路実篤という有名な作家がいましたが、戦時中、彼は戦争をほぼ支持していたのです。ところが、戦争が終わったら、騙されていた、戦争の真実をちっとも知らなかったと言いました。南京虐殺もあれば、第一、中国で日本軍は勝利していると言っていたけれども、あんまり成功していなかった。その事実を知らなかったということで、彼は騙されていた、戦争に負けて呆然としていると言ったのです。

戦時中の彼はどうして騙されたかというと、騙されたかったから騙されたのだと私は思うのです。だから私は彼に戦争責任があると考えます。それは彼が騙されたからではありません。騙されたことで責任があるとは私は思わないけれども、騙されたいと思ったことに責任があると思うのです。彼が騙されたのは、騙されたかったからなのです。騙されたいと思っていてはだめです。武者小路実篤は代表的な文学者ですから、文学者ならば真実を見ようとしなければいけません。

八百屋のおじさんであれば、それは無理だと思います。NHK が放送して、朝日新聞がそう書けば信じるのは当たり前です。八百屋のおじさんに、ほかの新聞をもっと読めとか、日本語の新聞じゃだめだからインターナショナル・ヘラルド・トリビューンを読んだらいかがですかとは言えません。BBCは英語ですから、八百屋のおじさんに騙されてはいけないから、 BBC の短波放送を聞けと言っても、それは不可能です。

武者小路実篤の場合は立場が違います。非常に有名な作家で、だいいち、新聞社にも知人がいたでしょう、外信部に聞けば誰でも知っていることですから、いくらでも騙されない方法はあったと思います。武者小路実篤という大作家は、例えば毎日新聞社、朝日新聞社、読売新聞社、そういう大新聞の知り合いに実際はどうなっているんだということを聞けばいいのに、彼は聞かなかったから騙されたのです。なぜ聞かなかったかというと、聞きたくなかったからです。それは戦前の社会心理的状況ですが、今も変わっていないと思います。

知ろうとして、あらゆる手だてを尽くしても知ることができなければ仕方がない。しかし手だてを尽くさない。むしろ反対でした。すぐそこに情報があっても、望まないところには行かないのです。(同)

繰り返されるのは、《「知ったところで、どうしようもないじゃないか」――たしかに、どうしようもない。しかし「だから知りたくない」という人間と、「それでも知りたい」という人間とがある》ことであり、世界には「知ったところでどうしようもないから、知りたくない」人間ばかりが跳梁跋扈していることへの憤りだろう。ーー「ぼくはそういうことを知りたくないね、平和にたのしんで暮したいのだ」

「騙されたいと思う」人間たち。これはなにも日本人の特質ばかりではない。世界のどこへいっても昔から似たようなことかもしれない。


(病身の「私」=マルセルは)性急に戦争の終りを予言する人びとに対しては、「まるで恋をしているときのように、目かくしをして、新聞を読んでいる」のだとその意図的な盲目の大がかりな連帯ぶりを指摘し、もっぱら「愛人の言葉に耳を傾けるように、主筆の甘言に耳を傾け」、「事実を理解しようとはつとめ」ない連中にとって、敗北すらが勝利と映ってしまうという虚構が支配権をふるうにいたる事態を、距離を置いて観察する余裕は残されている。だが、それがいったん自分の肉体を冒す病気のことになると、こうした虚構への確信にひたすら同調するのみで、距離を置いてみる余裕などありはしない。(蓮實重彦『物語批判序説』「プルースト または遊戯の規則」)







だが、大江健三郎は、「ぼくたちは、そんなに騙しやすい国民なのでしょうか?」と問う。


今起きている危機は、福島原発事故についてだけのことではないのです。私が最も絶望させられたのは、電力会社、政府の役人、政治家、メディア関係者が結託して放射能の危険を隠すために行った「沈黙による陰謀」とも呼ぶべき行為です。去年の3月11日以来、たくさんの嘘が明らかになりました。そしておそらくは、まだこれからも明らかになってゆくでしょう。これらのエリートたちが真実を隠すため陰謀を巡らせていたことが明らかになって、私は動揺しています。ぼくたちは、そんなに騙しやすい国民なのでしょうか?(大江健三郎へのインタビュー(1)/ Le Monde, 2012.03.17

※参照:鼎談 加藤周一が考えつづけてきたこと(大江健三郎)


日本人がことさら「騙されたい」資質があるのかどうかは、知るところではないが、それをめぐって、丸山真男などによる「無責任体制」の議論はあったし、今もある。



酒井直樹氏による「共感の共同体」批判もこの変奏だ(東日本大震災、福島原発事故における言説の諸関係について)。
酒井直樹は、3.11の震災について、「現代思想 2011 5月号」で、「東京電力をはじめとする寡占企業や、寡占企業に特権を与え続けてきた日本政府の官僚と政治家、また寡占企業と政府の癒着のなかで養成されてきた科学者や技術者の群れ、そして彼らの周囲に群がり生きながらえてきた地方政治と零細企業」の「協力・相互依存」が、「無責任の体系」(「現代思想 2011 5月号」26頁)を形成している、と批判する。
この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したありその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。
そのような『事を荒立てる』ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、実は抗争と対立の場であるという『本当のこと』を、図らずも示してしまうからである。
「将来の安全と希望を確保するために過去の失敗を振り返」って、「事を荒立てる」かわりに、「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先している」のである。しかし、この共同体が機能している限り、ジャーナリズムは流通せず、「感傷的な被害者への共感」の記事に埋もれてしまう。

ここでポスト・モダニストである筈の浅田彰が、終生、モダニストであり続けた加藤周一を顕揚する語りを附記しておこう。

加藤周一が89歳でとうとう亡くなったね。全共闘以後、「朝日・岩波文化人」はもう古いなんて言われたけど、若い世代が好きなことを言えたのも、基準となる文化人がいてのことだった。最後の大知識人だった加藤周一の死で、そういう基準がなくなったことをあらためて痛感させられる。実際、もはや「朝日・岩波文化人」と呼ぶに足る人なんて朝日を見ても岩波を見てもほとんどいないもん。戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。……(「加藤周一の死」)








世界はことばでうごかせるか
 うごかせるとしたら
    それは 世界を暴力でうごかすのと どこがちがうだろう
         いま起こりつつあることがらも もう過ぎてしまったかのように
            ことばは うごいて止まないものを 一瞬つなぎとめる
        そして ことばはことばを呼ぶ
  ことばはことばを凝視する
          そのあいだも
爆弾はことばを持たないものたちの上に 花びらのように降る

    現実は だれのものでもない
   思うままにうごかせないから 世界はある
  世界に意味があったら こんなにも多くの苦しみがあるだろうか
情報によって 知識によって はっきり見透せるものなら
          世界は こんなふうになっていただろうか
  こんな世界を ありのままに見ることは
    もうひとつの苦しみだからといっても
           なにかをしなければならないと思い
      なにかできることがあるはずだと信じて
           安全なところでうろうろしている
このありさまを見たら
        空爆の下で毎日を生きているひとびとは どう感じるだろう

 かみさま
            あなたのひこうきが まいにち やってきます
       きのうも ぼくたちのテントに
     ばくだんを おとしていきました
  ぼくははしって いわかげに かくれました