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2010年12月23日木曜日

現代の「病的ナルシスト」たち、あるいは「母なる超自我」と「内的な自由」

ジジェクは、looking awryのなかで次のように述べている。社会学的な三つの「主体」の形態、すでに社会心理学では常識の部類だが、と断った上でだが。


三つの形態とは、プロテスタント倫理の「自律的な」人間、他律的な「組織人間」、今日支配的になっている「病的ナルシスト」である。

ここでぜひとも強調しなければならない重要なことは、いわゆる「プロテスタント倫理の衰退」と「組織人間」の出現、つまり個人的責任という倫理が、他者のほうを向いた他律的人間の倫理に取って代わられても、そのそこにある自我理想の枠は無傷のままだということである。変わるのはその内容だけで、自我理想は、その個人が属する社会集団の期待として「外在化」される。道徳的満足をあたえてくれるのは。もはや、周囲の圧力に屈せず、自分自身に(つまり父性的自我理想に)忠実でありつづけたという感覚ではなく、集団への忠誠心である。主体は集団の眼を通して自分をみるようになり、集団から愛され評価されるような人間になろうと必死にある。

※「自律的な」あるいは「他律的な」人間については次の記述が参考になる。ポストモダンを考えるためのメモ

<人間>とは、王や<神>に従う臣下ではなく、自分で自分を監視し、自分で自分に命令するような、カント流の「先験的経験的二重体」としての主体。その変奏は、フーコーの、パノプティコンをはじめ、フロイトのエディプス化の結果として、父権的な審級を自分の中に内面化した主体であるとか、ウェーバー的な自己に責任をもつ主体など。つまりなんらかの「抑圧装置」を内面化した主体、あるいは「対象としての自己」をコントロールする主体、ということが<人間>ということ


※自我理想とは、一般的にはフロイトの「超自我」のことであるが、ジジェクは次のように語っている。「理想自我/自我理想/超自我」あるいはラカンの三幅対

<理想自我>は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。

<自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。

<超自我>はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。
この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、<想像界><象徴界><現実界>というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう<小文字の他者>であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、<大文字の他者>の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。見世物的な裁判で自分の無実を訴える被告人についてのシニカルで古いスターリン主義のモットー(「彼らが無実であればあるほど、ますます銃殺に値する」)は、最も純粋な形の超自我である。

さて、looking awryの引用に戻る。(核心部分である

第三段階、すなわち「病的ナルシスト」の出現は、それ以前の二形態の根底に共通してあった自我理想の枠と絶縁する。象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者(アウトロー)として経験する。

※この第三の「病的ナルシスト」段階については、以下のものが参考になる。



(中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(……)


(浅田)再び社会学的に言うと、伝統志向や内面志向に対し他者志向こをがアメリカの大衆社会を特徴付けるのだというようなことは昔からリースマンなんかも言っていたわけですが、それでも、基調としては、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』じゃないけれど、自己が責任ある主体として行動するというディシプリンが支配的だった。それが原理としても承認されていたし、フーコーの言うような権力装置としても機能していた。

しかし、それがある時期から機能しなくなる。エディプス化によって父権的価値を内面化した自己責任の主体などというものがもはや成り立たなくなり、権力装置のほうから見ても、ディシプリンを叩き込んで主体化するなどということはもはや経済的でないのであきらめて、それこそ学校の門には金属探知機をつけるといった形で直接電子的にコントロールしてしまおうというように、フーコー/ドゥルーズの言葉でいえば「ディシプリンの社会」から「コントロールの社会」への移行が進む、それがおっしゃったような変化にもつながるのかもしれませんね。(批評空間2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離(斉藤/中井/浅田)

 2、ハイパーメディア社会における自己・視線・権力 2、コンピュータと超パノプティコン


(浅田)フーコーが言ったパノプティコンのポイントは,真ん中の監視塔から常に見られているということではなくて,実際は真ん中から見られていなくても,見られているかもしれないから,そういう視線を個々の主体が内面化して二重体になってしまうということだったんだけれど,いまもし電子メディアですべてが透明化して社会全体が超パノプティコンになるとしても,その場合に,超越的あるいは超越論的な視線というのがどこにもないから,それを内面化して,主体を二重体として形成するというモティーフもないということになるんじゃないか.

(大澤)権力が持続的なディシプリン(規律・訓練)の作用を持つかというと,そうはならない.これは,少なくとも教科書的なフーコー理解の中には入っていなかった事態だと思うわけです.つまり,パノプティコン的な事態が本当に起きているにもかかわらず,そこでは結果としては19世紀的な主体性というのは全然出てこない.われわれのパフォーマンスは常にチェックされているのに,それが持続的な主体のアイデンティティに結び付くということは全くないわけでしょう.つまり,持続的に管理されているのに,先験的な主体の視線なんてものは,全然内面化されてこない.これは,ちょっとアイロニカルな結果だと思うんですね.そういうことを,いまのデータ・ベースに関して考えたんだけれど,構造的によく似たような事態が電子メディアが関わるいろいろなところで起きているんじゃないかなという感じがしているんです.

浅田――だから,ドゥルーズがフーコーを踏まえつつさらに現状を展望して,ソヴリンティ(君主権)の時代があり,ディシプリンの時代があったけれども,いまはコントロールの時代だと言っているわけですね.しかし,そのコントロールの時代というのは,逆説的にも,ディシプリン以前の時代と通底するところがある.



このあたりから、現在の状況は、遠い昔への退行的な状況であり、一部の識者から、絶望的なつぶやきなどが生まれる所以である。


さて、ところがジジェクは、上記のような話は、社会心理学的にはすでに常識の部類に属する、といいつつ、さらに次のように述べている。


だが、たいてい見過ごされているのは、自我理想の崩壊は必然的に「母なる」超自我の出現を招くということである。母なる超自我は享楽を禁じない。それどころか、享楽を押しつけ、「社会的失敗」を、堪えがたい自己破壊的な不安によって、はるかに残酷で厳しい方法で罰する。「父親の権威の失墜」をめぐる騒々しい議論はすべて、それとは比べ物にならないくらい抑圧的なこの審級の復活を隠蔽するにすぎない。

今日の「寛容な」社会は、「組織人間」、つまり官僚制の強迫的な召使の時代よりも「抑圧」が少なくなったわけではけっしてない。唯一の違いは、「社会的交渉の規則への服従を要求しつつ、その規則を道徳的行動の掟に根づかせることを拒む社会」においては、つまり自我理想においては、社会的要求は非情で処罰的な超自我の形をとるということである。

Today's "permissive" society is certainly not less "repressive" than the epoch of the "organization man," that obsessive servant of the bureaucratic institution; the sole difference lies in the fact that in a "society that demands submission to the rules of social intercourse but refuses to ground those rules in a code of moral conduct,"15 i.e., in the ego-ideal, the social demand assumes the form of a harsh, punitive superego.

上記の内容は、ジジェクは後ほど「ラカンはこう読め!」のなかで、より具体的に、わかりやすく説明している。「ポストモダン」をめぐって、あるいは「猥雑なる超自我」



…抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止を新たに生む。この逆説をどう説明するのか。誰もが子供の頃からよく知っている状況を思い出してみよう。ある子が、日曜の午後に、友だちと遊ぶのを許してもらえず、祖母の家に行かなくてはならないとする。古風で権威主義的な父親が子供にあたえるメッセージは、こうだろう。

「おまえがどう感じていようと、どうでもいい。黙って言われた通りにしなさい。おばあさんの家に行って、お行儀よくしていなさい」。

この場合、この子の置かれた状況は最悪ではない。したくないことをしなければならないわけだが、彼は内的な自由や、(後で)父親の権威に反抗する力をとっておくことができるのだから。「ポストモダン」の非権威的主義的な父親のメッセージのほうがずっと狡猾だ。

「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろう? でも無理に行けとはいわないよ。本当にいきたいのでなければ、行かなくていいぞ」。

馬鹿でない子どもならば(つまりほとんどの子供は)、この寛容な態度に潜む罠にすぐ気づくだろう。自由選択という見かけの下に潜んでいるのは、伝統的・権威主義的な父親の要求よりもずっと抑圧的な要求、すなわち、たんに祖母を訪ねるだけでなく、それを自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。それは子供から内的な自由をも奪い、何をなすべきかだけでなく、何を欲するべきかも指示する。
          

ここで言われる「猥雑なる超自我」が「母なる超自我」であり、すなわちラカンの「現実界」である。
上記の文脈からいえば、「病的ナルシスト」である現代の主体は、「何を欲するか」まで、「母なる超自我」によって命令されていることになる。再度引用するなら、この箇所である。

象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。

こういったジジェク=ラカンの理論から、大澤氏の次のような発言もある。ラカン=ジジェク派としての大澤真幸――『<自由>の条件』より


(…)現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。



どうだろうか。「情報」「コミュニケーション」などを新しく錦の旗にした「新しい言説」を旧来派が徹底的に批判する根拠のひとつがここにある。ジジェクの主張によれば、内的な自由さえ奪われている、ということだ。再度引用すれば、そこにあるのは、

自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。それは子供から内的な自由をも奪い、何をなすべきかだけでなく、何を欲するべきかも指示する。

では、どうすればいいのか。ラカン=ジジェクの解答は、

ラカンにとって、唯一の正しい審級は、三つからなるフロイトのリストにはない第四の審級、すなわちラカンが時おり「欲望の法」と呼ぶ、欲望に従って行動せよとあなたに命令する審級である。ここで重要なのは、「欲望の法」と自我理想(主体が教育を通じて内在化する社会的・象徴的規範と理想のネットワーク)との差異である。ラカンにとって、道徳的成長と成熟へと導く、自我理想という一見善意にみちた審級は、現存する社会的・象徴的秩序の「理に叶った」要求を採用することによって、「欲望の法」を裏切るよう強いる。過剰な罪悪感をともなう超自我はたんに自我理想の必然的な裏返しであり、われわれに「欲望の法」を裏切らせるために、耐えがたい圧力をかけるのだ。超自我の圧力の下でわれわれが経験する罪悪感は幻想的なものではなく実際の罪悪感である。「ひとが罪悪感を持ちうる唯一のことは、自分の欲望に関して譲歩したこと」であり、超自我の圧力はわれわれが自分の欲望を裏切ったことについて実際に罪があるのだということを示している。。「理想自我/自我理想/超自我」あるいはラカンの三幅対

このあたりを、「欲望」だけでなく、「欲動」、あるいは、ラカンの最晩年の「サントーム」概念を考慮して、もう一度捉えなおそうというのが、ラカン理論主流派の立場である。資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)



果たしてラカン=ジジェクは古くなったのだろうか。