そもそも、わたくしは、バッハの受難曲やカンタータ、コラール変奏曲などをひどく愛しているのが明らかなひとたちの演奏を聴くと、ほとんど批評力を失ってしまう。少年時代に愛したそれらの曲から今後も逃れることはできそうもない。要するにほとんどなにを聴いても、ひどく共鳴してしまう。
ナウモフよ、「いくら何んでも、こんなに枯れてしまい、ヤマも起伏もない曲ばかりやっていたら、聴衆には愛想を尽かされるだろうよ」などという感慨を抱かないでもないが。
《人好きのする音楽になってくせに、反面、先方からなれなれしく近づいてくることのない、節度ある控え目ーーニーチェなら「距離のパトス」と呼んだであろうところの、一種の気位の高さーーが感じられるのであった》--これはフォーレのある曲にたいする吉田秀和の評言であるが、最近では先方からなれなれしく近づいてこないと、聴衆は歓びはしないのさ……
◆かつての天才少年ナウモフとナディア・ブーランジュNadia Boulanger
◆ナウモフによるナディア・ブーランジュLux Aeterna編曲
フォレの弟子であったナディアの真骨頂だろう(「Fauré」は「フォレ」と読まなければ、海外では通じない)。