このブログを検索

2014年1月27日月曜日

「神谷美恵子の子どもであることはメイワクなことです」

《なぜ私たちではなくあなたが?》(神谷美恵子「らいと私」 )

《私が今彼らではないのは,たまたま偶然にそうなのにすぎないのではないか。 》(小田実「人間・ある 個人的考察」 )

「神谷美恵子の子どもであることはメイワクなことです」と御子息の一人が口走ったように、彼女の家族であることも希有な難行である。(中井久夫「書評『神谷美恵子』江尻恵美子著」

まだ父親ならいいだろう、だが母親がこのような考えをもつとき、それはことさら辛いことだ。

《愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである。》(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 Paul Verhaeghe)

一般に女児の場合は父親を愛するようになると言われるが、原初の愛の関係はやはり母への愛にある。

人間の幼時がながいあいだもちつづける無力さと依存性……。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我の分化が早い時期に行なわれ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない、愛されたいという要求を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』 フロイト著作集 旧訳)

愛されたいという要求は、われわれの原トラウマのようなものだ。それを否定してもはじまらない。巷間で「承認欲求」などといわれるものの起源はここにある。もちろん上っ面なだけの「承認欲求」もあるが(参照:承認欲望と承認欲動)。

もう少し核心箇所を抜き出そう。これはフロイトの弟子筋であったオットー・ランクの『出産の外傷』批判=吟味としてもある箇所だ。

われわれの出発点はやはり、われわれが理解できると思われる状況であって、それは母のかわりに知らぬ人を見つけた乳児の状況である。乳児は対象喪失の危険についての不安とわれわれに解釈される不安を示す。だがこの不安はいかにも複雑で、立ち入った検討を要する。乳児の不安についてはなんの疑いもないのだが、表情や泣くという反応は、彼が不安のほかに苦痛を感じていることを推定させる。のちには区別されるいくつかのものが、乳児では一緒になっていると思われる。一時的に見えなくなることと、つづいていなくなることが、まだ区別されていない。母が一度目の前から消えると、乳児は、母をもう二度と見られないかのように思いこんでしまう。母がこうして消えてもまだ現われるのだということを、乳児が学ぶまでには、何回も繰り返してなだめられる経験が必要である。母は、だれもが知っている遊び、顔をかくしてまた出してみせてよろこばせる遊戯「いないいないばあ」をして、この大切な知識を乳児に教えるのである。乳児は、いわば絶望をともなわぬ憧れを感ずるようになる。

母の見えないという状況は、乳児の誤解なのであるから、けっして危険の状況ではなくて、外傷的状況である。いやもっと正しくいうと、乳児がこの瞬間に、母を満足させなければならないという欲求を感じていてはじめて、外傷的状況といえるのであり、この欲求が現実でなくなると危険状況に移行するのである。自我がみずからみちびく最初の不安条件は、対象の喪失と同じに考えられる知覚の喪失である。愛情の喪失はまだ現われていない。もっと大きくなると、対象はちゃんといるが、ときどき子供に意地悪をする、という経験をする。そしてこんどは、対象からの愛情を失うことが、新たな永続する危険と不安の条件になるのである。

母を見失うという外傷的状況は、出産という外傷的状況とは、決定的な点でくいちがっている。出産の場合は見失うべき対象がない。不安だけが、この場合に現われる唯一の反応である。その後は、満足の状況が繰り返されて、母という対象がつくられる。この対象は、欲求のあるときは、「思慕」とよばれる強い充当をうける。こうした更新は、苦痛の反応に関係する。苦痛は対象の喪失にたいする元来の反応であり、不安は、この喪失にとうぜんともなう危険にたいする反応であって、さらに対象喪失にとうぜんともなう危険にたいする反応へ移行するものである。(フロイト『制止、症状、不安』)

ーーランクの『出産の外傷』にたいしてフロイトは一時期ひどく讃嘆したらしい。そのアンビバレントな動揺が、この『制止、症状、不安』の他の箇所にふんだんにあるが、最後には、やはり受け容れがたいとつぶやくことになる。その揺れの具合については「部分欲動と死の欲動をめぐる覚書」の最後にいくらかの抜き書きをしているので参照のこと。


なお《母の見えないという状況は》で始まる段落は、フロイトの翻訳の誤まりを積極的に提示されているさる精神科医さんのブログによれば、次のようであり、おそらくこちらのほうが正しいのであろう。新訳と比べてみる機会は、わたくしにはない(原文は読めないし、英訳と参照するのはいまはうっちゃる)。

翻訳正誤表】より
母の見えないという状況は、乳児が誤解しているせいで外傷的状況になるのであって、けっして危険の状況ではない。いやもっと正しくいうと、乳児がこの瞬間に、母によって満足〈=解消〉させてもらわねばならない欲求を感じていてはじめて、外傷的状況といえるのであり、この状況は、この欲求が当座のものでなくなると危険状況に変わるのである。

いずれにせよ、母への渇望は「原トラウマ」のようなものなのであり、その母が「模範的な」愛の実践者、苦境に立つひとへの愛を、子供への愛と同等に感じてしまうひとであるなら、子供の苦境は想像に難くない(神谷美恵子さんのご子息の発言をそう読むのは誤読かもしれないが、ここでもそう読める観点もあるだろうとする文脈で書いている)。

「なぜメイワクなのか?」をもうすこし具体的に説くフロイトの文がある。フロイトは、「お前の隣人をお前自身のように愛せ」という文化の側からの要請、つまり伝統的な西欧のキリスト教文化に対しての道徳規範に対して次のように異議を申し立てる。

なぜそんなことをしなければならないのか。そんなことをして何の役に立つというのか。それに第一、そんなことはできようはずはないではないか。私の愛は私の貴重な財産なのだから。充分な理由もなしに大盤振舞いすることなど許されない。(……) そんなことをすれば、私は間違いを犯すことになる。なぜなら、私の家族は私の愛を自分たちの持物だと思っているのだから。私がその他人をこれら家族の者たちと同列に置けば、私は自分の家族を不当に扱うことになる。けれども、その他人も昆虫・みみず・がらがら蛇などと同じくこの地上の生物であるという理由でどうしてもその他人を愛さなければならないとすれば、この他人に振り向けられる私の愛はごく微量だ。理性の判断にしたがうかぎり、私も私自身のために自分の愛の一定量を取っておく権利があるが、それだけの量の愛をこの赤の他人に振り向けることはとうていできない。(……) まったくの話、あのご結構な命令が「お前の隣人がお前を愛するのと同じようにお前の隣人を愛せ」といっていたら、私はなんの異議もさしまさまないだろう。(……) ところが、もっと不可解に思え、もっと激しい抵抗を感じさせる第二の命令がある。それは、「お前の敵を愛せ」というのだ。しかしよく考えて見ると、このほうがもっと不当な要求だといって退けるのは当たらない。なぜなら、これら二つの要求は、根本においては同じことをいっているのだから。(フロイト『文化への不満』)

なぜ、「お前の隣人をお前自身のように愛せ」と「お前の敵を愛せ」が同じことなのだろうか。

フロイトの認識の核心は次のようなものだ。

人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛本能が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃本能も含まれていると言っていいということである。したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在である ばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でもあるのだ。「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。通例この残忍な攻撃本能は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人――の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件までを想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。(フロイト『文化への不満』)

「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)とはホッブスの言葉であり、一般に「同情」の思想家と思われている反ルソー的立場であると思われている。だがルソー自身つぎのように書いてもいるのだ。


◆ルソーの『エミール』より三つの格率

・第一格率「人間の心は、自分よりも幸福な人の立場に自分をおいて考えることはできない。ただ自分よりも同情すべき人の立場に自分をおくことができるだけである」

・第二格率「人が他人の不幸を憐れむのは、自分もそれを免れていないと思う場合だけである」

・第三格率「他人の不幸について感じる憐れみの情は、その不幸の大小によってではなく、その不幸に悩む人が感じていると思われる感情によって加減される」


ここで反同情の哲学者ニーチェの言葉を抜き出してもよいのだが、それはここでは思い留まり、吉田秀和のニーチェをめぐる文のみを引用しよう。

ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳〔すなわち同情〕を口を極めて排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力のために悩み苦しんだかの証拠に他ならない。(吉田秀和  神崎繁『ニーチェ――どうして同情してはいけないのか』からの孫引き

…………

※追記:フロイトの『制止、不安、症状』の英訳を参照するのはうっちゃるとしたが、怠慢はやめて見比べてみると次のようになっている(www.valas.fr/IMG/pdf/Freud_Complete_Works.pdf‎より)。


In consequence of the infant's misunderstanding of the facts, the situation of missing its mother is not a danger-situation but a traumatic one. Or, to put it more correctly, it is a traumatic situation if the infant happens at the time to be feeling a need which its mother should be the one to satisfy. It turns into a danger-situation if this need is not present at the moment. Thus, the first determinant of anxiety, which the ego itself introduces, is loss of perception of the object (which is equated with loss of the object itself). There is as yet no question of loss of love. Later on, experience teaches the child that the object can be present but angry with it; and then loss of love from the object becomes a new and much more enduring danger and determinant of anxiety.


《母を満足させなければならないという欲求》→《母によって満足〈=解消〉させてもらわねばならない欲求》