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2013年11月3日日曜日

教育ある孤独な女たちの時代

父権社会でもっとも抑圧されていたのは「女性」だ
二〇世紀後半、とくに六十年代、
権威はなんでも疑いの審判にかけれらた
女性解放運動もその主要な一環にある
家族、結婚制度への疑念も同じく
ということは腐るほど語られてきた

「父」の権威は先進諸国では消失しつつある
つまりは「息子」たちが同一化すべき「父」の役割の消滅
さらには男性の優越性がなくなれば女性の劣等性もなくなる

もっともいま父権的権威はどこにもない
などということは、しかしながら、ない
すくなくとも日本的企業のなかにはいまだ生き残る
もし男女同権が日本ではことさら遅れているのなら
たぶんそこに原因のひとつがあるかも
ということも誰かが言っているのだろう
日本という制度自体が、会社主義である
とはどこかで柄谷行人か岩井克人がいっていたはずだ
だが、それはここでの話題ではない
日本の現在を知らない身でもある

男女同権により、夫、妻ではなく、パートナーという語彙が使われる
「性」ではなく「セキュリティ」が両者のあり方だともいえる
男たちは規範となる「父」がなければ、女性化する

《なぜ女性化なのか。それは、父性隠喩の不成立によって「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった主体が、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(E566)ことに気づくから。》(松本卓也)

とはラカン派での説明だが、それもこのさいどうでもよろしい
母の想像的ファルスと父の象徴的ファルスなどのしちめんどくさい話は
殆ど誰もが聞きたくないだろう

女性化した男たちは女から逃げ出しているのか
もちろん性的対象としての女から逃げ出すわけではあるまい
だがことによると性的にも自由になった女のvagina dentata
を怖れはじめているのかも、すなわち「歯つきの女陰(ほと)」を
《the increasing fear that men have of con-fronting women as independent sexual partners, with their own desires and pleasures.》 (.P. Verhaeghe)

結婚や家族からは逃げ出しているのは多かれ少なかれ間違いない

昨今は独身男性の3割弱が「婚約者、恋人、異性の友人のいずれもほしくない」という。20代前半の男性の4人に1人は「セックスに関心がない/嫌悪している」との調査結果(左右の尻のふり具合

vagina dentataは、ラカンだったら「鰐の口」という

ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。

漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。(「ファルス」と「享楽」をめぐって

小さいファルス(φ)、すなわち想像的ファルス
大きなファルス(Φ)、すなわち象徴的ファルス
だが誰もが聞きたくないはずのことは、この程度にしておこう


男は誰に恋に陥るか
究極的には彼を拒絶する女
女は誰に恋に陥るか
夢想するだけで手の届かない男

Whom does a man fall in love with? With a woman who refuses him, who plays hard to get, who never wholly gives in. Whom do women fall in love with? With the unattainable man of whom they can only dream, but who never, etc.(Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe)

そんなことはない
というひとはいるだろう
だがそれはただ妥協・諦めではないか
とは疑ったほうがいい
もっともこれは「欲望」の次元の話

「欲動」の次元だったらどうか
男たちはいかに女のvagina dentataを怖れても
女への反復欲動をもつ
灯火にむれる蛾の,灯りを目ざしてはそれてゆく「欲動」を
愛の基本モデルは男と女の関係にあるのではない
母と子の関係にある
というフロイトーラカン派の説明が正しいのであれば
「母」への欲動はなくなることはない

The basic model of love should be sought not in the relationship between a man and a woman, but in the relationship between mother and child (……)

Despite this existential fear, every 'normal' man is irre-sistibly driven towards the woman and her presumed pleasure, like a moth to the scorching flame of the candle. He is driven by a drive, and this is our final subject, as well as the most difficult one. (同Paul Verhaeghe)

かりに女への転移=愛が失せつつあるとしても
すなわち蛾にたいして灯火がなにか“すばらしいもの”を
内に秘めたものとして現前する,その現象が
女たちの自由な欲望の表出によって失せつつあるにしても
男たちの「欲動」は消え失せることはない
欲動と原トラウマの関係は根深い

いずれにせよ父権的な法の機能が失われれば
母のオルギアの世界が生まれる
中井久夫曰く
母性のオルギア(距離のない狂宴)と父性のレリギオ(つつしみ)

父子関係は、子の母親すなわち配偶者を大切にすることから始まる(……)。たしかに、配偶者との親密関係を保てない父が自然でよい父子関係を結べることはないだろう。また、父もいくらかは、“母”である。現実の母の行きすぎや不足や偏りを抑え、補い、ただすという第二の母の役割を果たすことは、核家族の現代には特に必要なことであり、自然にそうしていることもしばしばある。ただ、父子関係には、ある距離があり、それが「つつしみ」を伝達するのに重要なのではないだろうか。このようなものとして、父が立ち現れることはユニークであり、そこに意味があるのではないだろうか。

「つつしみ」といったが、それは礼儀作法のもっと原初的で包括的なものである。ちなみに「宗教」の西欧語のもとであるラテン語「レリギオ」の語源は「再統合」、最初の意味は「つつしみ」であったという。母権的宗教が地下にもぐり、公的な宗教が父権的なものになったのも、その延長だと考えられるかもしれない。ローマの神々も日本の神々も、威圧的でも専制的でもなく、その前で「つつしむ」存在ではないか。母権的宗教においては、この距離はなかったと私は思う。それは、しばしば、オルギア(距離のない狂宴)を伴うのである。母親の名残りがディオニュソス崇拝、オレフェウス教として色濃く残った古代ギリシャでは「信仰」はあるが「宗教」にあたる言葉がなかったらしい。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」『時のしずく』より)

このことをジジェクなら、次のように言う
父権的な<法>は何らかの過剰/トラウマ的な享楽の
裂け目を飼い慣らし/安定化する試みのひとつ、と
母性のオルギアを飼い馴らすのが父性のレリギオなのだ
それがなければ恒常的な酒神ディオニュソスの祭り
酒神の祭りは須臾の間が好ましいのに
古代ギリシャ・ローマ人たちは、深夜に得体の知れない物音が通過したら
「あ、バッカス(ディオニュソス)の楽隊が通る」としたように

根源的に開いた裂け目について考えるさい、それが子どもと<母>の近親相姦的な二者関係結実を阻止するべく、子どもを象徴的去勢/隔離の次元へと追いこむ、父権的な<法>/<禁止>の干渉からもたらされた産物と理解する安直は退けなければなるまい。この裂け目、「バラバラに寸断された身体」という経験は、あらゆる物事に先だって存在しているのだ。それは死への衝動が産み落としたもの、快楽原則の円滑な運用を停止させる何らかの過剰/トラウマ的な享楽が侵入した結果の所産であり、そして父権的な<法>は――鏡像との想像的同一化とは異なり ――この裂け目を飼い慣らし/安定化する試みのひとつなのである。忘れてはならないのは、ラカンにとって<エディプス>的な父親の<法>とは、突き詰めれば「快楽原則」に服し、それに資するためだけに存在している点である。(ジジェク「厄介なる主体」)

レリギオがなくなったのは男女関係の領域だけではない

歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っているオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8)

ところでいま「結婚」制度を擁護するのはどんなひとたちか
父権社会の復活をねがう時代錯誤の連中以外は
ゲイコミュニティのひとびと(だけ?)という皮肉な結果

女たちが男から逃げ出しているのかは知るところではない
だが男女平等社会は「教育ある」孤独な女を輩出させている
《a whole new social class has developed—the educated lonely woman》(.P. Verhaeghe)

女たちのパワーの前に萎縮した男たちをも
《The net result of all this is the lonely emancipated woman, thirty-year-old adolescents in groups, lonely divorced men who stay alone because of their fear, and one-parent families. The human condition in a new guise.》 (.P. Verhaeghe)

「女性解放運動は、結婚、道徳、国家の終焉を生むだろう」
1970年に書いたのはフェミニストGermaine Greerジャーメイン・グリア
だが1996のインタヴューでは予言が的中しつつあることに
アンビヴァレントな表明をしている
あるいはかつてフェミニスト運動のアイコンのひとりだった
英作家のDoris Lessing(ドリス・レッシング)は2001年にはこう言う
men were the new silent victims in the sex war, "continually demeaned and insulted" by women without a whimper of protest.(「Lay off men, Lessing tells feministsーーNovelist condemns female culture that revels in humiliating other sex」)

これらかつてのフェミニストの闘士たちの「変節」「転向」のさま

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される。(ソレルス『女たち』1983)

日本的文脈では次のようなことも言われる

高度経済成長期以降に増えてきた男性の自殺、離婚、DV、ネグレクト、晩婚化・非婚化の要因は、結婚が専業主婦やそれを志向する女性にとって、生存競争を生き抜くために「幸福の擬装工作」までして男性を”搾取”するシステムとなってしまっているからだ。物質的・経済的な条件に左右される「幸福の指標」は『箍』となって、男性だけでなく女性自身をも呪縛し、今日の日本社会の閉塞状況を引き起こしている。(日本の男を喰い尽くすタガメ女の正体』)

男性を”搾取”するシステム?!

《恐るべき家族の神秘…おびえて、疲れ果てて、のべつ調子外れで、女性化され、虚弱化され、干からびて、女々しく、飼い馴らされ、母性化された男たちの眼差し、ぶよぶよのオッパイ》(ソレルス『女たち』)


男たちはわかっている
女たちだってわかっているはずだ
フェミニストたちよ、いまは男たちを救うのがきみたちの仕事だ
などとも男であるわたくしは怖くて言えない
ーーとしつつ「逆言法」を使う姑息な手段に訴えるのが関の山
ここでは美貌のラカン派論客、Colette Soler( コレット・ソレール)曰くの
「父」の役割の再構成・再導入などの必要性などを指摘しておくだけにしよう
(「The Collapse of the Function of the Father and its Effect on Gender Roles」 Paul Verlweghe より。ネット上PDF有)

父の機能の再導入だって?
この程度言うだけだってフェミニストたちの逆鱗に触れる
クワバラクワバラ
現在の現象面だけを指摘するのみがよい

もし、現在の傾向をそのまま延ばしてゆけば、二一世紀の家族は、多様化あるいは解体の方向へ向かうというとこになるだろう。すでに、スウェーデンでは、婚外出産児が過半数を超えたといい、フランスでもそれに近づきつつある、いや超えたともいう。同性愛の家族を認める動きもありこちで見られる。他方、児童虐待、家族内虐待が非常な問題になってきている。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000初出『時のしずく』所収)

女性たちが子供をほしいと願えば
男女同権による最大の被害者は女たちともいえる
などとも男であるわたくしがいうべきことでもない
男女同権を享受している女たちもいるに相違ない

男たちは?
エリザベート・バダンテールÉlisabeth Badinter 曰く
The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(ジジェク『Less Than Nothing』(2012)より孫引き)

ここで中井久夫の「親密性と安全性と家計の共有性と」から、もう少し引用しておこう。
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今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。

困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。

現在のロシアでは、広い大地の家庭菜園と人脈と友情とが家計を支えている。そして、すでにソ連時代に始まることだが、平均寿命はあっという間に一〇歳以上低下した。高齢社会はそういう形で消滅するかもしれない。

それは不幸な消滅の仕方であり、アルミニウムの有害性がはっきりして調理器から追放されてアルツハイマーが減少すれば、それは幸福な形である。運動は重要だが、スポーツをしつづけなければ維持できにような身体を作るべきではない。すでに、日本では動脈硬化は非常に改善しており、私が二〇歳代に見た眼底血管の高度な硬化は跡を絶った。これは、長期的には老人性痴呆の減少につながるはずである。もっとも、長寿社会は、二〇年間で済んだカップルの維持を五〇年間に延長した。離婚率の増大はある程度それに連動しているはずだ。

むしろ、一九一〇年代に始まる初潮の前進が問題であるかもしれない、これは新奇な現象である。そのために、性の発現の前に社会性と個人的親密性を経験する前思春期が消滅しそうである。この一見目立たない事態が、今後、社会的・家族的動物としてのヒトの運命に大きな影響をもたらすかもしれない。それは過去の早婚時代とは違う。過去には性の交わりは夫婦としての同居後何年か後に始められたのである。

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問題はまだまだある。近親姦はアメリカでは家庭の大問題で、日本でもけっこうある。わたしは、その一部は、幼年時代からの体臭の共有が弱まったからではないかと思う。父親は娘には女性の匂いを性的に感受しないのが普通であった。娘だけは「無臭」なのであり、近親姦のタブーは生理的基礎があってのことだと私は思う。胎内で接した蛋白質を異物と感じない「免疫学的寛容」と同じことが嗅覚にも起っていると考える。この歯止めが過度の清潔習慣と別居など共有時間の減少とによって弱体化したのではないか。

児童虐待も、一部は、出産が不自然で長くかかり、喜びがなくなったからかもしれない。トレンデレンブルクの体位と言われる病院でのお産の体位は、医療側の都合にはよいが、出産には不都合である。私はあれがいかにいきみにくい姿勢かを知ったのは、手術後にオマルをあてがわれた時であった。そして、赤ん坊は、出産後数分、はっきりと眼が見え、それから深い眠りに入る。眠りは記憶のために最良の定着液である。しかし、今、最初に見るものは母親の顔ではない。母親から愛情を引き出す、子ども側の「リリーサー」(引き金)が損なわれている疑いを私は持っている。いちど虐待が始まると、ある確率で「虐待のスパイラル」に進む。それは虐待された子どもは虐待する親に対して無表情になり眼だけは敏感に相手を読みとろうとする。「フローズン・ウオッチフルネス」すなわち凍りついた「金属的無表情」「不信警戒の眼つき」である。これは「不敵」な印象を与えてしまい、いかに恭順の意を表しても「本心は違うだろう、面の皮をひんむいてやりたい」と次の虐待を誘い出す。いじめの時にも同じことが起る。被虐待者の「本心」が恐怖であり、ただもう逃れたいだけであっても、虐待者は相手の表情に不敵な反抗心を秘めていると読み取ってしまう。虐待者に被虐待体験があればそのような読み取りとなりやすいだろう。

私は、これだけで近親姦、児童虐待、配偶者殴打のすべてを説明するつもりはない。それらはフランスの古い犯罪学書にも記載がある。学級崩壊だってフランスでは一九世紀から大問題だった。だから最近だけのことではない。辿れば意外な根っこがみつかるだろう。

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難しさは、犯罪という概念が社会的概念であることである。それは家庭になじみにくい。実際、近親姦と児童虐待とに関して、法は、家庭の戸口で戸惑い、ためらい、反撃さえ受けている。個人は家庭にだけ属するのではないが、最後は家庭だという矛盾がここにある。私は、よくないと思われることを、社会が崩壊する前に、できることから変えてゆくしかないと思っている。

人類が家族に代わるものを発明していないとすれば、その病理を何とかするために、私の中の医者があれこれと考えていることを、一度人類まで問題を広げて考えていた。これは大風呂敷にすぎるかもしれない。しかし、私はこの一世紀かそこらの傾向から外挿するのは危険で、たぶん間違うと思っている。

さて、レリギオと知性に溢れたあなたがたは
ここで時代錯誤的なニーチェの言葉などを
想い起こすべきではないと念をおしておく
そんなことをすれば
フェミニストたちのオルギアの餌食になってしまう


かりにどうしてもニーチェを想起したいなら、次の文ではなく、

いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。 ――「女性解放」―― それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の能力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。(ニーチェ『この人を見よ』--妻女と子供の共有ーープラトン『国家』より

次の文、あるいはその後半だけを特筆する程度にしておくべきだ。

女は、ほんとうに女であればあるほど、権利などもちたくないと、あらがうものだ。両性間の自然な状態、すなわち、あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えているのだから。(同『この人を見よ』)

ましてや、「女のもとへ行くなら、鞭をたずさえることを忘れるな」(「老いた女と若い女」『ツァラトゥストラ』)などと「老いた女」の忠告などに従ってはならぬ…やめとけ、鞭なんて…かえってひどい目にあう、サドのように…勝利するのは、いつも女たちだ…

《女が男の徳をもっているなら、逃げだすがよい。また、男の徳をもっていないなら、女自身が逃げだす》(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」28番ーー「ヴァージニア・ウルフとサド」より)

…………

※以上の前半の多くは、あえて出典を明記しない場合でも、その多くは、Paul Verhaegheの『Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』(1999)に依拠して書かれている。→ http://paulverhaeghe.psychoanalysis.be/boeken/ENG%20pdf%20boek%20-%20Paul%20Verhaeghe.pdf

この書に於いて、ベルギーのラカン派精神分析医Paul Verhaegheは穏健なジジェクといった様相をみせている。8カ国語に翻訳された書だが、不思議に和訳はないようだ。




Paul Verhaegheは、1955年生まれ。まだ若い。

LACAN.COMに於いて、Janne Kurkiの「Heidegger and Lacanーーtheir most important difference 」の小論には次のような顕揚もみられる。

《For my knowledge, the best example of this kind of psychoanalytic theory nowadays is what Paul Verhaeghe is doing: there are universal (in regard to the Western world of scientific era) phenomena called “disorders” etc, and what psychoanalysis – and it seems that only psychoanalysis can do this – can do is to give a coherent theory of the non-present dynamics behind these present phenomena.》

たとえば、ジジェクの次のような説明を即座に拒絶する男性の「偽装」フェミニストでもPaul Verhaegheの論なら素直に読め、しかも自らの偽装ぶりを諭されるのではないか。

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。

フェミニストを装う男性優位主義者にとって、問題は、女性は身を守れないだろうということではなく、女性は性的嫌がらせを受けることで過剰な快楽を覚えるだろうということだ。男性の侵入が、女性の内部で眠っていた、過剰な性的快感の自己破壊的な爆発を引き起こすのではないかというのである。要するに、さまざまな嫌がらせへのこだわりには、いかなる種類の主体性概念が含まれているかに注目しなければならないのである。(『ラカンはこう読め』

女たちはどうか? ひょっとして現在、女の最大の敵は男たちではなく女たちであることをほどよく悟ることができるかもしれない。《ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない》。

女たちそれ自体について言えば、彼女たちは「モメントとしての女たち」の単なる予備軍である…わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目… 彼女たちは自由を待っている…空港にいるとぼくにはそれがわかる…家族のうちに監禁された、堅くこわばった顔々…あるいは逆に、熱に浮かされたような目…彼女たちのせいで、ぼくたちは生のうちにある、つまり死の支配下におかれている。にもかかわらず、彼女たちなしでは、出口を見つけることは不可能だ。反男性の大キャンペーンってことなら、彼女たちは一丸となる。だが、それがひとり存在するやいなや…全員が彼女に敵対する…ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない…だがその女でさえ。次には列に戻っている…ひとりの女を妨害するために…今度は彼女の番だ…何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合には…つまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのなりこだま…悪魔のお通り! 地獄絵図だ!(ソレルス『女たち』)

なお、『Love in a Time of Loneliness』が、いささか初心者向けに書かれ過ぎているという向きには、より専門家向けに書かれたPaul Verhaegheの小論のいくつかがここにある。→ http://www.lacanonline.com/index/other-articles/

わたくしがPaul Verhaegheに最初に出会ったのは、『Trauma and hysteria within Freud and Lacan』という論文であり、それは中井久夫の心的外傷論を読みすすめるなかだが、Paul Verhaegheはラカン派であり、中井久夫はラカンから距離を置くにもかかわらず、その読み手を傷つけないための繊細な配慮などから西欧の中井久夫という感慨を抱くことができる書き手でもある。