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2014年6月6日金曜日

嘘によってしか愛するものを語ることはできない

愛するものを語ることに人はいつも失敗する」は確かスタンダールの言葉で、バルトも大岡さんも確か最後の原稿がこれだったような記憶がある。直訳すると「愛するものを語ることに僕らはいつも難破する」か「転んでしまう」か、夢で走るみたいなもんでしょうかね。(丹生谷貴志ツイート)

ーーああ、大岡昇平も最期にこの言葉を引用していたのだな。

大岡昇平は死の直前までスタンダールについて書いているが、その文章の出だしのところで、「愛するものについてうまく語れない」と述べている。(『大岡昇平・埴谷雄高 二つの同時代史』から-中原中也と大岡昇平

大岡昇平は『中原中也』(角川文庫 S.54――大岡氏の「中原中也」をめぐる論すべてが収められている)にあるエッセイ「秋の悲歎」(初出 「新潮」1966.11月号)で次のように書いている。

小説を楽しみに読むという習慣はとうに失ったが、詩は今日でも楽しみに読む。ふとあけて見て打たれることのあるのは詩集だけである。

この「小説を読むという習慣はとうに失った」と書く大岡昇平(1909~1988)は、当時まだ五十代である。

さてここでバルのト「人はつねに愛するものについて語りそこなう」から抜き出そう。

イタリアへの愛を語ってはいるが、それを伝えてくれないこれらの「日記」――『イタリア紀行』:引用者――(これは少なくとも私自身の読後感ですが)だけを読んでいると、悲しげに(あるいは、深刻そうに)、人はつねに愛するものについて語りそこなうと繰り返すのもっともだと思うでしょう。しかし、二十年後、これも愛のねじれた論理の一部である一種の事後作用により、スタンダールはイタリアについてすばらしい文章を書きます。それは、私的日記が語ってはいたが、伝えてくれなかったこの喜び、あの輝きでもって、読者である私(私だけではないと思いますが)を熱狂させます。この感嘆すべき文章とは『パルムの僧院』の冒頭の数ページのことです。フランス軍の到着とともにミラノに《侵入した大量の幸福と快楽》とわれわれ自身の読む喜びとの間に奇跡的な調和があります。要するに、語られる印象と生み出される印象とが一致するのです。どうしてこのような転回が生じたのでしょうか。それは、スタンダールが、「日記」から「小説」へ、(マラルメの区別を採用すれば)「アルバム」から「書物」へと移り、生き生きとした、しかし、構成不能の断片である感覚を切り捨て、「物語」という、もっと適切にいえば、「神話」という、大きな媒介的形式に近づいたからにほかなりません。(……)

要するに、「旅日記」と『パルムの僧院』との間で生じたことーーそこを通り過ぎたものーーはエクリチュールです。エクリチュールとは何でしょう。長い入門儀式の後に得られると思われる一つの力です。愛のイマジネールの不毛な不動性を打ち破り、愛の体験に象徴的な一般性を与える力です。スタンダールは、若かった頃、『ローマ、ナポリ、フィレンツェ』を書いた頃、《……嘘をつくと、私はド・グーリ氏のようだ。私は退屈する》と書くことができました。彼はまた知らなかったのです。真実からの迂回であると同時にーー何という奇跡でしょうーー、彼のイタリア熱の、ようやくにして得られた表現であるような嘘が、小説的な嘘があるということを。(ロラン・バルト「人はつねに愛するものについて語りそこなう」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)


※原註:《ミラノでスタンダール・シンポジウムのために用意されたこの文章は、あらゆる点から見て、ロラン・バルトによって書かれた最後のテクストである。一ページ目はタイプで打たれていた。1980225日(バルトが交通事故に遭った日)、二ページ目がタイプライターにセットされていた。完成稿と見てよいだろうか。原稿が完全にでき上がっているという意味ではそうである。ロラン・バルトは、タイプライターで清書する時、いつも若干の修正を加えていたという意味では、そうでないといえる。この文章の最初のページにもそうした修正が加えられていた。》(編集者の註)


ロラン・バルトは「人はつねに愛するものについて語りそこなう」にて、何を言いたかったのだろうか、と云えば、虚構(小説)を書かなければならない、ということだとしてよいだろう。実際、バルトのコレージュ・ド・フランスの講義の主題は、『小説の準備Ⅰ、Ⅱ』(1978~1980)だった。バルトはこの講義録の導入部で、次の日記を読み上げている。

悲しみ。ある種の倦怠感。自分がしたり、思ったりするすべてのことにまつわるとぎれることのない(最近、喪に服していらいの)、同じ倦怠感(心的エネルギーの備給の不在)。帰宅。空虚な午後。ある困難な瞬間。午後(のちに語る)。たった一人。悲しみ。塩漬けのような状態。私は、かなりの強度で思考する。あるアイディアが不意にわきあがる。文学的な回心のようなものーー古くさい二つの単語が心によみがえる。文学に踏み込むこと。エクリチュールに踏み込むこと。これまで自分がやったことのないようなやり方で、書くこと。もう、それしかやらないこと。まず、エクリチュールによる生を統一するために、コレージュをやめること(講義は、しばしば書くことと葛藤状態に陥るから)。続いて、講義と仕事とを同じ企て(文学的な)へと投入し、主体の分割を停止せしめ、たった一つの計画、偉大なる計画を優先させること。(ロラン・バルト「日記」1978年4月15日 カサブランカにてーー「書くことは語らないこと」(マルグリット・デュラス)

1978年の講演、プルースト小論では次のように語られている。
年齢というのは、年代的与件、年月の連鎖であるとしても、それはほんの部分的でしかありません。途中、ところどころに、仕切りがあり、水面の高低差があり、揺れがあります。年齢は漸進的なものではありません。突然変異するものです。(……)私の年齢が潜め、また、動因しようとしている現実的な力はどういうものか。これが、最近、突然生じた問いです。そして、この問いが、今、この時点を《私の人生の道の半ば》としたように思えるのです。(《長い間、私は早くから床についた》『テクストの出口』所収)

1977年10月25日の母の死の翌年、上のように語るロラン・バルトは、このときすでに62歳だった。そしてパリの街頭での自動車事故でのあっけない死は1980年の3月のことだ。

プルーストにとって、《人生の半ば》は、もちろん、母親の死でした(1905年)。生活の突然変異、新しい作品の開始が数年後のことであったとしてもです。つらい悲しみ、唯一の、何物にも還元できないような悲しみは、私にとって、プルーストの語っていた《個人的なものの頂点》をなし得るように思えます。遅まきながら、この悲しみは、私にとっても、私に人生の半ばとなるでしょう。というのは、《人生の半ば》とは、おそらく、死は現実的なものであって、もはや単に恐るべきものではないということを発見する瞬間以外のものではあり得ないからです。

このように道を辿って来ると、突然、次のような明白な事実が現われます。一方では、私にはもういくつもの人生を試みる時間がないということです。
《残された時間が少ない》、明確でなくとも、不可逆的な秒読みが始まる時がくるものです(これこそ意識の問題です)。人は自分が死ぬものであることを知っていました(人の話が聞けるようになった時から、そう教え込まれてきました)。それが、突然、自分が死ぬものであると感ずるのです(これは自然な感情ではありません。自然なのは自分は死なないと思うことです。だから不注意による事故が沢山起こるのです)。

――しかし、「不注意による事故」とは! まさにその事故が、その数年後、パリの街頭で起こったのだった(バルトの母は長寿であり84歳で亡くなっている)。

「ほら、ヴェルトは再び母親を見つけ出そうとしているのよ」、病院の救急看護室から出るとき、デボラがぼくにそういった。ヴェルトはそこの血液注入台の上で死にかけていた…彼はほとんど裸同然でそこにいた、いたるところに管、漂流したまだ息のある大きな魚のようだった(……)みんなまだそこにいて、嘘をついていた。彼はそんなに悪くなく、事故はそれほど大したことじゃなかったんだと…実際には、彼はすぐ危篤に陥り、もうだめだった…

ーーーこのように『女たち』のなかで書くバルトの若き親友ソレルス。もちろん小説のなかでの出来事だ、だがここは素直に、ヴェルトはバルトであり、デボラはソレルスの妻クリステヴァ…として読みたくなる個所だ。

病院の中庭で、ぼくは気を失わないように幾度か努力したはずだ。それから再び彼のそばに駆け上がった。蘇生室。彼の心臓はそこで鼓動していた、上から下へ、黒いスクリーンの上で。
ぼくは、自分がそこに突っ立って、祈り始めていたころに突然気づいた…「父」と「子」と、「聖霊」の御名によって…そいつは、絶望と災厄のまっただなかで、一気にぼくのもとに舞い戻ってきたのだ…この見捨てられた最期、貧しきもののそれ、つまるところひとりの浮浪者の最期のむごたらしい愚かしさを前にして…


バルトの遺作『明るい部屋』は、彼の初めての小説への試みである、という見解もある。『明るい部屋』の第一部と第二部の間で母の死は起こったのだ、そして第二部から母の喪をロマネスクに語るバルトが出現する。すくなくともプルーストの『ジャン・サントゥイユ』でありえるだろう。

もっとも現在はバルトの多くの翻訳、紹介で活躍される石川美子女史は、1987年に書かれた 『ロラン・バルトにおける小説の探求』の「むすび」で、次のように書いている。
コレージュ・ド・フランスにおける最後の講義で,バルトはニーチェに関して次のように語った。森を散歩していたニーチェはある巨大な岩を見て『ツァラトゥストラはかく語りき』を構想したが,実はそれ以前に彼の音楽的鰹味が決定的に変化していたという事実があったのだと。新たな趣味が新たな作品を生んだというのである。さらに言葉を続けて,バルト自身に関しても,「私が音楽の趣味を変えたそのときにこそ,私にとっての新たなエクリチュールは可能になるだろう」と語る。この言葉は,バルトが最後まで新たな形式を見出せなかったこと,そして,小説実践までまだ長い道程の必要なことを告げている。愛する母とだけでなく,愛する音楽とまで別離しなければならないほど,新たな形式の創造は遙か遠くにあったのだろうか。

ロラン・バルトにおける小説の探究バルトは,小説へのためらいがちな意志(書きたい)と決意(これから書く)との間で揺れ動きながら,「批評」作品を生み出してきた。それらの作品のもつ魅力は,小説への執拗だが不毛だった意志によって支えちれていたとも言えよう。批評の場に安住しつつ小説を憧憬していたのであれば,小説の模索は隠喩的領域に収まり,批評と対峙することもなかっただろう。断章は批評作品の中で快楽の形式として機能し続けえただろう。だが,小説実践への意志はすべてを一変させ,批評と小説とは二者択一のものとしてバルトを引き裂いた。批評にとって幸福な園だった断章は,小説への不幸な壁となる。結果的に,バルトは断章形式に対する「形式への執拗さ」を否応なく守り通してしまったことになる。理論は単なる変奏にすぎず,形式こそが,作家の生き方にも等しい変更困難な主題なのだという主張を,バルトは小説実践の失敗によって自ら証明して見せたのである。