ラカンの四つのディスクールのうちのひとつ、「大学人のディスクール」の精確な意味を、おまえさんたち阿呆は、まったくわかってないぜ、とジジェクはいう。阿呆のうちの一人としてもう少しわかってみようとしよう。
ラカンは「大学」ということによって教育機関の「大学」のことを言っているのではない、あるいはその機関内で解釈学に汲々としている連中のことを言っているのではない、と。まあここまでは基本的な確認だ。
ところで、ラカンは大学人のディスコースの純粋な典型は、ソビエト連邦のそれだ、といっているらしい。つまり意にそわない者を追放、除名するシステムだ。日本でなら、「大学人のディスコース」は、大学機関のそれだけではなく、そこらじゅうにある「インテリ村社会のディスコース」とも呼べよう。
ここでキルケゴールやニーチェ、ベンヤミンの名がでてくるが、ニーチェ以外は寡聞の身なので、日本における「大学人のディスコース」の追放ぶりを示しておこう。
たとえば岩井克人の名著『貨幣論』は、「あんなものは学問とはいえない」などと、学会人から無視されてしまったり、柄谷行人はかつて自ら次のようにつぶやいている。
(文学の話のあとに:引用者)哲学とか、社会科学の領域でも同じですね。読む人はいても、たとえば、僕の名前は出さないわけね、アカデミックじゃないということで。どうもそういうことがあるらしい。僕は人から聞いたけれども、どんなに影響を受けても僕の名前を出してはいけないそうです。僕の名前を出せる人は相当偉い人らしい(笑)。『闘争のエチカ』(1988)
冒頭に書かれたジジェクの言葉は実際は次の通り。
Although Lacan's notion of "university discourse" circulates widely today, it is seldom used in its precise meaning (designating a specific "discourse," social link). As a rule, it functions as a vague notion of some speech being part of the academic interpretive machinery. In contrast to this use, one should always bear in mind that, for Lacan, university discourse is not directly linked to the university as a social institution-for example, he states that the Soviet Union was the pure reign of university discourse. Consequently, not only does the fact of being turned into an object of the university interpretive machinery prove nothing about one's discursive status-names like Kierkegaard, Nietzsche, or Benjamin, all three great antiuniversitarians whose presence in the academy is today all-pervasive-demonstrate that the "excluded" or "damned" authors are the IDEAL feeding stuff for the academic machine. Can the upper level of Lacan's formula of the university discourse - S2 directed toward a - not also be read as standing for the university knowledge endeavoring to integrate, domesticate, and appropriate the excess that resists and rejects it? (Jacques Lacan's Four Discourses (Slavoj Zizek))
「飼い馴らし」domesticateについては、ジジェクが以前、『斜めから見る』で書いた説明があるので「主人のディスクール」の説明とあわせてここに付記しよう(ほかのふたつ、ヒステリーと分析家のディスクールはここでは割愛。やや詳しくは「資料:ラカンの幻想の式と四つの言説」の後半)。
【主人の言説】
第一の型、すなわち主人の言説では、あるシニフィアン(S1)が、別のシニフィアン、あるいはもっと正確にいえば他のすべてのシニフィアン(S2)のために主体(S/:斜線のS)を表象する。もちろん問題は、この表象作用の作業が行われるときにはかならず、小文字のaであらわされる、ある厄介な剰余残余、あるいは「排泄物」を生み出してしまうということである。他の言説は結局、この残余(有名な<対象a>と「折り合いをつけ」、うまく対処するための、三つの異なる企てである。
【大学(人)の言説】
大学の言説は即座にこの残滓をその対象、すなわち「他者」とみなし、それに「知」のネットワーク(S2)を適用することによって、それを「主体」に変えようとする。これが教育のプロセスの基本論理である。「飼い慣らされていない」対象(「社会化されていない」子ども)に知を植えつけることによって、主体を作り出すのである。この言説の「抑圧」された真実は、われわれが他者に分与しようとする中立的な「知」という見かけの背後に、われわれはつねに主人の身振りを見出すことができるということである。
結局、ラカンの四つのディスクールにおいて最も見逃してならない大切なことのひとつは、話し手の審級の下にある隠されている真理(左下、「大学人の言説」であるならば、S1(主人)の権力・支配欲ということになる)であり、それがディスクールの真の動因なのだ。