ツイッターにてラカン派による、あるいはそれに関心があるらしい人による「情報」を拾っていると、耳慣れない概念、たとえば「普通の精神病」なる概念に行き当たる。
すこしは関心のあるひとなら、なんのことだと調べてみるのが人情というものだろう。わたくしはその「すこしは関心のあるひと」の一員である。たしか一年半ほど前だったが、「ふつうの精神病」という語をグーグル検索をしてみたのだが、立木康介氏が次のように発言しているのが知れた。
DSM-IIIで神経症概念が解体されたあと、それに取って代わるかのように、一方では、症状がより局在化された形で現れる摂食障害のようなトラブルが増えてくる。他方、1980年代には特にボーダーライン(境界性人格障害)が大きかったと思いますが、各種の人格障害が目立ってきた。北米では同じ時期に多重人格障害がよく報告されるようになりました。それは北米に限った現象で、ヨーロッパの臨床家は1990年半ば頃までほとんど多重人格障害を見たことがない、少なくともフランスの精神分析家たちは多重人格障害の患者にまるでお目にかかったことがない、という状況でした。ですから、ECFの分析家たちは、その時期まで、しばしばこういう言い方をしていました。「多重人格障害はDSM-IIIを中心とするアメリカの精神医学界が抑圧したヒステリーの回帰だ」と。エリック・ローランあたりまでが冗談めかしてそんなことを言っていたように記憶しています。
ところが、1990年代後半になると状況が変わってきて、フランスの分析家たちも自分たちが臨床で相手にしている患者さんが今までと違ってきているのではないか、という感触を持ち始める。それがはっきりとした形で出てきたのが、1998年にECFの大きな会合で精神病の問題が扱われた時でした。ジャック=アラン・ミレールが「普通の精神病(psychose ordinaire)」というタームを掲げて、それがまたたくまにECFの中で広まり、今では普通名詞のように、あるいは診断名のように使われています。明らかに神経症ではない構造をもつ主体なのに、はっきりと発症した精神病にも見えない。シュレーバーのようなパラノイアや古典的な統合失調症(分裂病)のタイプにもあてはまらない緩い形、精神病の状態がいわば「普通に」生きられているように見える主体の問題は、妄想や幻覚といった具体的な病理現象というより、おうおうにして、ある種の社会的不適応、つまり社会の中に場所をもてないという形で現れてきます。こうした患者さんに分析家が接する機会が増え、たちまち臨床の前景を占めるようになってきた。20世紀から今日まで、ずっとそれが続いています。実はECFでは今世紀初頭から、制度の中での精神分析の実践を見直そうという動きが始まったのですが、それと呼応し合う形で現在の臨床の中に「普通の精神病」が踊り出てきたというのは興味深いですね。非定型とは言わないまでも、古典的な神経症と精神病の構造的な差異を揺るがすような現象だと思いますが、「普通の精神病」はポスト神経症時代の臨床の中心的な概念になってきたと思います。
ただ、フランス全体、ラカン派全体の状況で言うと、ECFが「普通の精神病」という形でポスト神経症時代の臨床の中心に精神病をもってくるのに対して、シャルル・メルマンらのALI(国際ラカン協会)は「倒錯」という概念を前面に出してきました。最近では、ジャン=ピエール・ルブランという分析家がミレールの二番煎じで『普通の倒錯』(2007)という本を出した。彼らは心的経済全体が以前と同じようには動いておらず、抑圧の経済から享楽中心の、享楽を見せびらかすような経済へ移った、という議論をしています。このようにポスト神経症時代の主体の支配的な構造を精神病と見るか倒錯と見るかによって、フランスの二大ラカン学派の主張が分かれているのは注目に値します。(来るべき精神分析のために)
ここでさらに関心のある人なら、“psychose ordinaire”で検索してみるのが、人情というものだろう。シロウトのわたくしはそんなことはしない。仏語を読めない。ラカンの構造論(神経症、精神病、倒錯、それぞれ抑圧、排除、否認という用語に係わる)が機能しづらくなってきたのだな、という感慨を抱いたぐらいで、しばらくはそのまま放ってあった。
だがその後も「ふつうの精神病」という概念が流通しているのをときおり見かける。見かけるがたいしたことを語っているようには思えない。上の立木氏の発言の範囲をあまり出ない。
語りたいならもうすこし調べろよな、と言ってみたくなる。概念だけCMコンセプトのように流通させる輩は80年代の再来のようだぜ、と言ってみたくなる。まあでも他人の趣味だ、文句はいうまい。
というわけで“Ordnary Psychosis”を自分でグーグル検索してみる。これはいつ頃のことだったか、半年前かそれよりもうすこし前だ。
そのなかで、オーストリアの精神科医Jonathan D.
Redmondの“Contemporary perspectives on Lacanian
theories of psychosis”に当たった。見慣れない名の人の論文であり通常だったらやり過ごしたかもしれない(未知の名であっても、Lacan.comにある論文だったら読むことにしているのだが)。
だがRedmondの論文の冒頭にはこうある。
In contemporary Lacanian psychoanalysis, Verhaeghe's theory of actualpathology psychopathology in psychosis and the Millerian idea of “ordinary psychosis” provide diverging conceptual approaches to psychosis.
Verhaegheの名はわたくしには親しい。かなり以前、中井久夫のトラウマ論を読んでいるとき、ラカン派はトラウマについてどう語っているのだろうと思い、これもグーグル検索をしてみたところ、Paul Verhaegheの“ Trauma and
hysteria within Freud and Lacan”に当たって比較的熱心に読んだからだ。その後、インターネット上にある彼の無料で手に入る英語論文は、すべてではないがかなり読んでいる。日本では名が知られていないようで、なんと読むのかさだかではないが、“ポール・ヴェルハーゲ”とわたくしは呼んでいる。
「ふつうの精神病」の話に戻れば、日本の精神分析の専門家なら当然この程度のことはやっているだろう。それにもかかわらず「ヴェルハーゲ」の名は出てこないのは奇妙なことだ。
上に掲げたJonathan D.
Redmondの“Contemporary perspectives on Lacanian
theories of psychosis”は、ジャック=アラン・ミレール(ラカンの娘婿)の「ふつうの精神病」概念/ヴェルハーゲのactualpathology理論を対比させ、ミレールの「ふつうの精神病」概念がヴェルハーゲ理論より広範な射程をもつ概念であることを論述するミレールよりの論だが、ヴェルハーゲ理論の功績も讃えている。
ラカン派におけるサントームや換喩/隠喩の扱いなども書かれており、Redmondの主張の論拠となる症例もある。この論がどのように評価されているのかは知るところではないが、現代のラカン理論をめぐる臨床家よりの概説としてもすぐれている、――と、(たいして知っているわけではないが)言っておくことにしよう。
ただし「ふつうの精神病」をめぐるものであり、「ふつうの倒錯」についての説明はない。註にこうあるだけだ。
A third clinical structure, perversion, is also utilized in Lacanian theory (Dor, 1997) but will not be discussed here due to its marginal status in the clinical field (Fink, 1997) and ongoing doubt over its nosological status (Miller, 2009).
二十世紀には、ラカン派により「われわれはみな神経症だ」とされ、二一世紀になって「われわれはみな妄想的(精神病)だ」とされる。あるいはフロイトは「性欲論」で、われわれはみな倒錯だというふうに取れる発言をしているし、晩年のラカンはひとの本質は倒錯的だとオッシャル。
“Freud n'a jamais réussi à concevoir ladite sexualité autrement que perverse. ... la perversion est l'essence de l'homme.” J. Lacan, Le Séminaire XXIII, Le Sinthome, Ornicar ?, 11, 1977
ミレール自身、次の論を読むとひどく揺れ動いているようにみえる(いまは動揺を読みとれる箇所は引用せず、”everyone is mad, delusional”の個所を引く)。
The Name of the Father, this famous key function of Lacan’s first teaching, is, one could say, a function now recognised across the entire analytic field, whether Lacanian or not. This key function, the Name of the Father, has been discounted by Lacan himself, depreciated in the course of his teaching, ending up being no more than a sinthome, that is, a supplement for a hole. One could say in this ambit, in this assembly, one could say as a short cut that this hole filled by the symptom name of the father is the non-existence of the sexual proportion in the human species, the species of living beings that speak. And the depreciation of the name of the name of the father in the clinic introduces an unprecedented perspective, which Lacan expresses by saying everyone is mad, delusional. This is not a joke, it translates the extension of the category of madness to everyone who speaks; that everyone suffers from the same lack of knowing what to do about sexuality. This phrase, this aphorism, indicates that which the so-called clinical structures have in common: neurosis, psychosis, perversion. And of course it shakes, undermines, the difference between neurosis and psychosis, which has until now been the basis of psychoanalytic diagnosis and an inexhaustible theme of the teachings.(The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller)
ーーということでこの記事も「ふつうの精神病」について何かを語っているわけではない。ただそのまわりをめぐったメモである。ただ「ふつうの精神病」概念を安易に流通させるな、とは暗に仄めかしているはずだが、逆効果でないことを祈る。これは批判、すなわち自己吟味でもあるのはもちろんのことである。
私がなそうとしたのは、カントとマルクスに共通する「批判(批評)」の意味を取り戻すことである。いうまでもなく、「批判」とは相手を非難することではなく、吟味であり、むしろ自己吟味である。(柄谷行人『トランスクリティーク』「序文」)
ヴェルハーゲへのインタヴュー(2011)より。
I would formulate it differently. Post-Lacanians indeed came to understand this with the term ‘ordinary psychosis’ — I do not like this, for two reasons. This has little if anything to do with psychosis in the classical Lacanian sense. Furthermore it brings about even greater confusion and a breakdown of communication with non-psychoanalytically trained colleagues in the discipline.http://www.lineofbeauty.org/index.php/s/article/view/60/121
…………
※附記:
※附記:
わたくしは、「ふつうの倒錯」概念を前面にして「露出」を語る立木康介氏の『露出せよと現代文明は言う』を読んでいないが、次の書評には次のような文がある。
否認とは、母子一体的想像的万能感を断念する「去勢」を否認することを意味する。フロイトの「去勢コンプレクス」は、ラカン派によれば「象徴界への参入」つまり言語習得と切っても切れない関係にある。つまり、(男性)幼児は母親のファルスの欠如をトラウマとして経験する。同時に母親の欲望の謎に直面する主体はそれを、ファルスを欠いているがゆえにファルスを欲望するものと(短絡的に)解釈することによって、このトラウマを乗り越えるとともに、象徴界への参入を果たすのである。なぜなら、主体はトラウマを抑圧するために、ただちにその欠如を一種の換喩(メトニミー)によって、別の欲望対象に置き換えるのであり、このようにして次々にシニフィアンを言語的象徴として主体に表象することを可能にしてゆく。つまり、主体を言語世界に導く。ちょうどパズルの一種で、多くの四角のピースを縦横にスライドさせていくことによって、すべてのピースを求められた順に並び変えるゲームがある。それらのピースが縦横に動くことができるのは、それらのうち一か所が空所として空いているからである。それと同じように事物の中に一つの欠如(ファルスの欠如)を生みだすことによって、シニフィアン全体の構造化が可能になるのである。ファルスの欠如という解剖学的事実は、母の欲望というシニフィアンに置き換わることによって、「父の名」のもとにあるシニフィアンの体系への欲望として理解されることになるのである。欠如から欲望への置き換えこそが、原初のシニフィアンを欠如のシニフィアンとして成立させることになる。これをラカンは「父の名」のメタファーと呼ぶ。
ここにあるパズルの表現はポール・ヴェルハーゲの論にもあり、以前面白く読んだものだ。ひょっとして立木氏はヴェルハーゲを読んでいるのかもしれず、あるいはただラカン派内では標準的に流通している言い方なのかもしれない。
This can be explained logically in terms of Gödel's paradox. But there is a far easier way to understand this: just think of a child's toy like those sliding puzzles. This mini symbolic system works on one condition: that there is a gap. One compartment has to be empty, thus permitting the necessary displacements in the system itself. (Verhaeghe, P. (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. In: Verhaeghe, P. Beyond Gender. From Subject to Drive. New York: Other Press, pp. 65-97.)
追記:上の文で「CMコンセプト」という語を使ったが、それはニュー・アカデミズム批判の文脈で語られる蓮實重彦・浅田彰が使用する意味である。
蓮實)……そこで、まさに概念は署名と不可分だということになる。それで、ドゥルーズという署名の問題が出てくるんだけれども、彼がガタリと創造した概念を、あたかもそれがCMでいうコンセプトであるかのようにして流通させている人は、まさに固有名を背後に感じていながらもこれを切断しているという、悪しき流通形態に陥ってしまう。それに対してドゥルーズは非常に厳しく批判していますね。
浅田)たとえば「スキゾ」という概念が80年代の日本で結果的にCMのコンセプトのようなものとして流通したことは事実だし、その責任の一端は感じますけど……。
蓮實)ありますよ、それは(笑)。(『批評空間』1996Ⅱー9共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人)_
ジジェクならファストフード的消費者のやり口というだろう。
あなたは、あなたが批評しているところの著作がどのようなものであるかを全く無視している。あなたは論争の道筋を再構成する試みを全く放棄している。その代わりに、曖昧模糊とした教科書的な通則やら、著者の立場の粗雑な歪曲、漠然とした類推、その他諸々を一緒くたにして放り投げ、そして自身の個人的な従事を論証するために、そのような深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えているのだ(「見ろ!あの著者は新たなホロコーストを主張しているみたいだぞ!」といったように)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(スラヴォイ・ジジェク:彼の批判に応答して)
《著者は正当にも、迂回うかいや遅延を拒絶してストレートに心の闇に接近しようとする、結果優先の実利的な認知行動療法に大きな疑問を投げかける。それはまさにファストフードと同じ発想で、画一化と平均化をもたらすだけだ。硬派の文明批評がここに産声を上げている。》
ーーあらためてつけ加えるまでもないが、やはりつけ加えておこう、こうやって引用しているのは「ふつうの倒錯」概念がCMコンセプトにならないだろうな、まさか、という杞憂からである。
※参考:by Jacques-Alain Miller IV Congress of the WAP - 2004 でのミレールの発言は文明論、三つの無意識の指摘などとても面白いが、わたしにはいささかやけくそ気味のようにも読めてしまう箇所がある。
There you have what my fantasy leads up to. I cannot do otherwise but follow it, which makes me think that the hypermodern discourse has the structure of the analyst’s discourse! It is an extremely surprising result.