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2013年8月11日日曜日

完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども

《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》(ニーチェ『この人を見よ』)

ロマン派の去勢された「美しき魂」(ヘーゲル)が「愛」をつぶやいたり叫んだりするとどうなるか。

愛は、人間が事物を、このうえなく、ありのままには見ない状態である。甘美ならしめ、変貌せしめる力と同様、幻想の力がそこでは絶頂に達する。(ニーチェ『反キリスト者』)


…………

《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)

――フロイトがそう言っている(ここでのフロイトは、正常さの典型とみなされるだろう)。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「嫉妬」の項より)

フロイトは、「お前の隣人をお前自身のように愛せ」という文化の側からの要請に対して何と語っていたか。

なぜそんなことをしなければならないのか。そんなことをして何の役に立つというのか。それに第一、そんなことはできようはずはないではないか。私の愛は私の貴重な財産なのだから。充分な理由もなしに大盤振舞いすることなど許されない。(……) そんなことをすれば、私は間違いを犯すことになる。なぜなら、私の家族は私の愛を自分たちの持物だと思っているのだから。私がその他人をこれら家族の者たちと同列に置けば、私は自分の家族を不当に扱うことになる。けれども、その他人も昆虫・みみず・がらがら蛇などと同じくこの地上の生物であるという理由でどうしてもその他人を愛さなければならないとすれば、この他人に振り向けられる私の愛はごく微量だ。理性の判断にしたがうかぎり、私も私自身のために自分の愛の一定量を取っておく権利があるが、それだけの量の愛をこの赤の他人に振り向けることはとうていできない。(……) まったくの話、あのご結構な命令が「お前の隣人がお前を愛するのと同じようにお前の隣人を愛せ」といっていたら、私はなんの異議もさしまさまないだろう。(……) ところが、もっと不可解に思え、もっと激しい抵抗を感じさせる第二の命令がある。それは、「お前の敵を愛せ」というのだ。しかしよく考えて見ると、このほうがもっと不当な要求だといって退けるのは当たらない。なぜなら、これら二つの要求は、根本においては同じことをいっているのだから。(フロイト『文化への不満』)

母親が「聖女」であったとしよう、あなたはそれに耐えられるか?

「神谷美恵子の子どもであることはメイワクなことです」と御子息の一人が口走ったように、彼女の家族であることも希有な難行である。(中井久夫「書評『神谷美恵子』江尻恵美子著」ーー「反吐と同情」より)

…………

以下、二重山括弧で括ったものは、「ニーチェとヴァレリー  ――ヴァレリーのニーチェに関する手稿から 丹治恒次郎 1985 ネット上PDFより」より。


《ニーチェは刺激剤だ。しかし養分ではない》

《パスカルはおそらく刺激剤だ。だから一九世紀には評価が高かったのだ。しかしパスカルは養分ではない。》

《ニーチェのなかでもっとも面白いものはあの断固たる風采、倫理的執心である。――これが僕をいつも笑わせる。――というのは、要するにこれは台所仕事なのだ。道徳のなかで働こうとする。道徳の現代的基礎が見かけのよい無関心だということに気がづかない。それに、君はあの超人がつくりだす見事なトリックに気がついたか? 超人はオプティミスムとペシミスムを両方とは同時に可能にする。だからいくらでも違ったページが書ける。ロマン的でしかも同時に古典的になれる等々、任意に。》

――しかし、前者に関しては、次のような文はある。

現代精神の特徴は、それが虚言をなすことにあるのではなく、偽りの道徳主義というかたちをとってあらわれるその無邪気さにあるのだ。いたるところでこの無邪気さを発見させること、おそらくはそれが、われわれの仕事でもっとも他人を尻込みさせるところであろう。(ニーチェ『道徳の系譜』)

《なんという喜劇だ、ニーチェの思想は! 酒神祭(ディオニソス)的なものが滅多に見あたらないではないか》

《音楽による偽りの深さ/音楽的ニーチェ/安請合いをする人》


――もちろん、ここにはいまだエクリチュールはない。たんなるつぶやきであり、小さな叫びだ。この当初の叫びを持続させること、中断や放散にて消滅させないこと、それが「書く」ことだろう。

たとえばこうやって。

《近代の音楽はあまりにも大きく、あまりにも甘美で、あまりにも速い。そのためそれは、すべてのものをあまりにも脆くする。音楽はその力を濫用し、その能力はわずか三分間で生命を賦与する。/加速するイリュージョン。停止するイリュージョン。――そのイリュージョンが、あらゆるものに個々別々に価値をあたえてしまう。そしてこれがアーティキュレーションなのだ。思想は力づくで柔らかくされてしまう、――不完全な現実によって。》

人皆の根底にはその人の「原則」が巨大な文字で彫りつけてある。それをいつも見つめているわけではない。一度も読んでいないことも稀ではない。だが人はそれをしっかり守り、人の内部の動きはすべて、口では何と言おうとも、書かれているところに従い、決して外れることはない。考えも行いもそれに違うことはない。心の奥のそこには傲慢、弱点、頬を染める羞恥、中核的恐怖、孤立、なべての人が持つ無知がきらめいていて、世にあるほどのバカげた行為をいつも今にもやらかしそうだ―――。

愛しているものの中にあれば弱く、愛しているもののためとあらば強い。(ヴァレリー『カイエ』Ⅳ 中井久夫訳)


《私はニーチェが言っていることを気にかけない。ニーチェが考えねばならないことに関心がある。》

ヴァレリーは、そのニーチェ言及の最初期、次のように書く。

《むさぼるように私は『曙光』の断章を読みました。ニーチェを読むときに役立つ、あのあらゆるひねくれた感情を込めながら。》1901

そして最晩年(死の二年前の『カイエ』、おそらくヴァレリー最後のニーチェへの言及)。

《ニーチェを読むーーニーチェ(かれはイデオロギーの分野で私のもっとも高く評価するもののひとりだが)にある詐りのものはーーかれが他者に付与する重要性――論争術、――およびいろんな理論立てを思わせるものすべてである。かれはすでに「文学史」中に席を与えられた物事をあまり眼中におきすぎる。――ソクラテスとカントを制服した「彼」が、だ。――/それから魔術的な語の『生』。しかしこれに助けを呼ぶのは安易というものだ。》

…………

《官能性の精神化は愛と呼ばれる》(ニーチェ『偶像の黄昏』)

昇華(=崇高化)はふつう非・性化と同じことだと考えられている。非・性化とはすなわち、リビドー備給を、基本的な欲動を満足させてくれそうな「野蛮な」対象から、「高級な」「洗練された」形の満足へと置き換えることである。われわれは女に直接に襲いかかる代わりに、ラヴレターや詩を書いたりして誘惑し、征服する。敵を気絶するまでぶん殴る代わりに、その敵を全面否定するような批判を含んだ論文を書く。通俗的な精神分析的「解釈」によれば、詩を書くことは肉体的欲求を満足させるための崇高にして間接的な方法であり、精巧な批判を書くことは肉体的攻撃衝動の崇高な方向転換ということになろう。 ラカンの出発点は、直接的で「野蛮な」満足とされているものの対象ではなく、その反対、すなわち原初的な空無である。原初的な空無とは、そのまわりを欲動がぐるぐる回っている空無であり、<物自体 the Thing>(フロイト的な das Ding。不可能にして獲得不能な享楽の実体)の形のない形としてポジティヴな存在形態をとる欠如である。崇高な対象とはまさしく「<物自体>の気高さまで高められた対象」である。(ジジェク『斜めから見る』)

《サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。》(中井久夫 「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」『アリアドネからの糸』所収)


もちろん、ここで次のような文を附すこともできる。

人は、なぜ死について語る時、愛についても語らないのであろうか。愛と性とを結び付けすぎているからではないか。愛は必ずしも性を前提としない。性行為が必ずしも(いちおう)前提とせずに成り立つのと同じである。私はサリヴァンの思春期直前の愛の定義を思い出す。それは「その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛があり、そうでないならばない」というものである。平時にはいささかロマンチックに響く定義である。私も「いざという時、その用意があるかもしれない」ぐらいにゆるめたい。しかし、いずれにせよ、死別の時にはこれは切実な実態である。死別のつらさは、たとえ一しずくでもこの定義の愛であってのことである(ここには性の出番がないことはいうまでもあるまい)。(中井久夫「「祈り」を込めない処方は効かない(?) ――アンケートへの答え」『時のしずく』所収)

 ーーで、きみの「愛」とは何だい? それとも根っからの猫かぶりの美しい魂のままかい?

オレかい? オレはいまだデルタへの愛だね

《波打ち際のすべっこい小石の美しい乙女らの/一糸まとわぬ身体のふともものデルタに一刷毛はいた黒が》(オディッセアス・エリティス『アクシオン・エスティ』中井久夫訳)

君たちはどうにでも好きなようにするがいい、私はこのデルタの岸辺に
残るつもりだ そして聴くだろう 水べを渉る鷭の声に変化した女の声を
くらがりにうごめく虫たちのざわめきを 
茫漠とした風景にたれこめる灰色の靄がすぐに包み隠してしまう
ザクロの実の裂け目からしたたる光が死に絶えても
なおあとに残る不定形な靄のうごめきを
「眼を閉じ眼をひらく鳥たち」、こんもりとした葉むらのあいだにくるしむ鳥たち、
盲目の鳥たちが朧な光の網を潜ってゆくのをーーいっとき私はひそかに呼びかける、
こちらに戻っておいでと しかし私は見るだろう 
じっと動かないかのように、宙にかかったままで、
ほんの一瞬たわむれると、そのあとで息がたえようとしているのを
むせび泣きが洩れるーー私は見るだろう、鳥の羽ばたきに似たあのおなじ衝動で 
ひとりの見捨てられていた親しい女がすっくり立ちあがるのを
私は聞くだろう 女が歌いだすのを 通ってゆく汽車の汽笛がきこえ、
その汽笛は、遠くまた近く、森のなかの一羽の鳥の歌のように、
移ってゆく距離を浮きたたせながら、
さびしい平野のひろがりを私に描きだし、そんな空漠としたなかを
光彩がよわまり、低くなり、また高くなり、やがて消えようとする一瞬に、
規則正しく間歇的に発するひときわ強くかがやくさけび声を
「果実が溶けて快楽(けらく )となるように、
形の息絶える口の中でその不在を甘さに変へるやうに、
私はここにわが未来の煙を吸ひ
空は燃え尽きた魂に歌ひかける、岸辺の変るざわめきを。」(ヴァレリー=中井久夫)
私はその女(ひと)を見失うことはあるまい-あの女(ひと)はいる、このデルタの岸辺に
ーー(『美わしのベンガル』ジボナノンド・ダーシュ、臼田雅之訳  剽窃者変奏)





あるいは「海」への愛かな

「海、遠い海よ!と私は紙にしたためる。__ 海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」(三好達治「郷愁」)

 つまり「大文字の母」への愛だね

あの海は昏い、あの海は激しい、憤ろしい、しかも静かだ、

あの海は太古から変わらぬはるかな眼差しとたえず打ち寄せては退く波音のなだらかな息遣いを夜陰に拡げ、少年の五感をすっぽり覆い尽くし、雲間ごしにかすかに洩れた月光だけが少年の足元にまでとどいて、あちこち波打ち際に舫う海人船と荒磯にひそむ泡船貝の蠢動を仄かに照らしている、

生暖かな浜風が少年の魂に誘う何たる亀の影、すもものように包皮を脱ぎ棄て密やかに反復される熟練の骨牌賭博師の手捌き、少年はある未知の道、死の道とも思われた一つの道をかきわけ、短袴のあわせめから斜めに突きだした百日紅のつややかな肌を輝かせる一本の海綿樹は、脈うち反りかえり薔薇色に変貌し、ついに勢いよくふるえおののき、月明りのなか白い鳩の羽搏きを奔出させる、耳のなかの海潮、その凪、その放心、遠い水平線の手触り、茫漠たる焚火の燻り、燃え尽きた魂の煙、--少年の足元を浸しはじめる潮満ちる海は法螺貝のむせび泣きとともに、栗花薫る漿液を吸い清める、少年は星の俘虜のように海の膝に狂った星を埋める、それとともに四方八方にひるがえって交接する無数の夜光虫、あの圧倒的な現前のさまを思え、海の熱風、海の卵巣、海の気泡、海のこめかみ、海のひかがみ、海のひよめき、海の窪みの抱擁に少年はもどかしくもたゆたいはじめ、空から落下する無垢の飾窓のなかで偶然の遊戯の余韻に溶け込んでゆく、

あの女を見つけねばならぬ、あのなかにこそほんとうの奇跡が潜んでいるのだから、ふるえる一筋の光の線がなぎさを区切っている不動の海、ゆらぐ海藻のかげ、波間に見え隠れするとび色の棘、縦に長く裂けた海の皺の奥、その輪郭に沿ってさらに奥のほうへ潜りこんで貼り付いたようになってしまうとき、細い柔らかい触手が伸び絡まりつき、小さな気泡が弾ぜる数えられない奇跡の痕跡がくっきり刻まれているのだから、あの女は昏い、あの女は激しい、憤ろしい、しかも静かだ、紡錘形の二つの岬のあわいの磯陰でひたひたと匂いさざめく法螺貝の唇をまさぐりあて、あの女のなかに歩み入っていかねばならぬ、(松浦寿輝「木」 剽窃変奏)