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2013年5月23日木曜日

心的装置の成立過程における二つの翻訳

以下は、資料。


向井雅明『自閉症と身体』よりだが、中井久夫の文を挿入しつつ。


人間にとって身体は動物の体とは同一に扱うことはできない。動物においては体は動物自身であり人間における精神と身体の乖離のようなものはない。他方、人間にとって身体とは構築されなければならないものだ。身体というものはいかに構築されるかのだろうか。人間にとって身体はイメージと強く結びついている。ラカンの有名な鏡像段階はその身体の最初の構築の契機である。それを簡単に説明すると、生まれてくる子供は自分の身体にたいしてばらばらなイメージしか持っておらず、鏡の前で初めて自分の身体を統一した全体像だと認めるというものであった。鏡のなかの自らのイメージに同一化することによって統一した身体像を獲得するのだ。

ラカンはこの鏡像段階を説明するために光学的図式と言われる一つの図を構築した。









この図は平面鏡と凹面鏡の二つの鏡と、花束、そして花瓶と花瓶を隠す一方だけ開いた箱から構成されている。


それぞれの構成要因の役割はつぎの通りだ。


──花束は子どもにとってのばらばらな身体イメージ

花瓶は花束の下に置かれた箱のなかに隠され、子どもは直接見ることはできない。


──凹面鏡は、花束の右に位置する人の目に対して箱の中の花瓶を実像として浮かび上がらせる。見る人にはちょうど花束が花瓶のなかに収まるように実像が浮かび上がる。花束が花瓶に収まるイメージは分断された身体像が一つにまとまり統一した身体像が得られることを意味している。


──平面鏡:凹面鏡だけでも身体の統一像は成立するのだが、ラカンはこれにもう一つの鏡を付け加え、それを大文字のAとして記す。Aは言語の他者を表すもので人間は直接自らの身体統一像を見ることはできず、常に言語を通してのみ自分の身体を把握できるのだということを意味している。


ここで注目すべきは鏡の右側に置かれた大文字のIの置かれた場所で、見る人の目はここに観点を据えられて初めて自らの身体イメージを見ることができる。分析用語ではこの点を自我理想と言い、人間は常にこの点に立って世界を見ているのであって、この点が失われると人は自分を見失ってしまう。


この平面鏡Aについてはラカンもはっきりとした説明をあたえているのにたいして、凹面鏡についてはほとんど何も説明がない。わずかに冗談めいてこれは大脳皮質だとも言っているが、まともにとってはいけないとも言っている。そんなわけでラカニアンの間でもこれに特別に気を配る人はいなかった。



われわれが外世界から受ける刺激は感覚としてまず受け止められる。この状況では感覚は無差別状態にあり、世界は無秩序な混乱のなかにある。この状態では個別の認識は不可能である。

──次に、最初の印象はイメージとして個別化される、ここではイメージによる思考が可能である。自閉症者は抽象的な概念を理解することができない。たとえば平和という概念を鳩で表すなどイメージにむすびつけて考える。ここには可逆性があり、それほど堅固な翻訳ではない。

──その次の段階では、イメージ同士が結びつき合ってシニフィアンとして作用するようになる。ここで無意識が成立する。その結果意識的表象が可能になる。この翻訳作業はラカン的に言えば父性隠喩が作用する場所である。世界はファルス化され、男女の差を考えることも可能になる。以後われわれの一般的な知覚の世界成立し、通常の認識がなされるようになる。

ここで重要なのは感覚と知覚を異なったものとして扱っていること。感覚は受動的なものでわれわれは単にそれを選択せずに受け取るだけなのに比べて、知覚は能動的で選択的。知覚があって初めて私たちは何かを差異的、具体的に感じることができる。それにたいして感覚は非差異的。感覚の世界は混乱しており構造化されていない。

音に関して言えば、音を感覚だけで聞くと世界は様々な騒音に満ちあふれている。知覚はフィルターを通すので静かな世界が可能となる。耳は閉じられないが知覚としての耳は閉じることができる。私たちの耳は聞かないためにある。

視覚にかんして世界は感覚だけでは平面的なイメージしか得られないのに対して知覚では奥行きが感じられるようになる。


この図式で注目すべき点は、私たちが通常の知覚を獲得したり、シニフィアンを使用して言語的表象行うことができたりするようになるには、ばらばらの印象から一つのまとまったイメージへの移行と、イメージからシニフィアン的構造化への移行という二つの翻訳過程、二つの契機を経なければならないという論理だ。一般的にラカン理論では二番目の移行に相当する原抑圧、もしくは父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみで心的装置の成立をかんがえる傾向にあるが、たとえば精神病を父の名の排除という機制だけで捉えることは、精神病者においても言語による構造化はなされているという事実をはっきりと捉えられなくなってしまう心的装置の成立過程に二つの大きな契機があるとかんがえると、主体的構造の把握がより合理的に行われるように思われる。



再び先ほどの鏡の図に戻る。

図1を構成している二つの鏡は今述べた二つの契機に相応していると考えると、この図を大変スマートに説明ができるようになる。レ=フロは次のように考える。

すなわち、最初の翻訳は凹面鏡に相当し、二番目の翻訳は平面鏡に相当すると見なすのである。平面鏡は言語を意味するものであり、それが導入されるとわれわれは言語を通して世界を見るようになるということで、これはすでによく知られている図式なので説明は省く。

凹面鏡に考察を移そう。凹面鏡によってばらばらな感覚がまとまったイメージになると言うことであるが、具体的には何を指すのだろうか。

レ=フロはここでウイニコットを参照する。ウイニコットは子どもが正常に育つためには、母親が乳児にたいしてホールディング、―抱えることーを行うことが必要だとかんがえる。ホールディングとは精神的、肉体的に母親が子どもを抱え、受け止めてやることである。全く無力の幼児はまだ感覚運動的にもばらばらで統一された自己というものができていない。こうした状態の幼児に統一した自己を確立させるのを助けるのがホールディングである。言い換えると、母親が子どもにとって鏡となり子どもに自己の統一像を見せてやることに相当する。すなわち凹面鏡は子どもを前にホールディングを行う母親を表しているのだ。



上の記述での、「ホールディング」から、中井久夫を挿入する。
成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体harmonious mix-upの感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。


これに対して、外傷性体験の記憶は「成人世界の幼児型記憶」とはインパクトの点で大きく異なる。外傷性記憶においては視覚の優位重要性はそれほど大きくない。外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』P57~58)


向井論文に戻る。
光学的図式を持ち出してきたのは、自閉症の特殊な世界を説明するためであった。外部と全く接触を持とうとしない自閉的様態を示す子ども達はそれまで分裂症と同じカテゴリーに入れられていたのが一九四三年にレオ・カナーが自閉症として独自の疾患単位として認めたのが最初であった。そして一九四四年にはハンス・アスペルガーが高機能自閉症とも呼ばれるアスペルガー症候群を報告した。これは知能的にはあまり障害の認められない自閉症を指している。それぞれの自閉症を上の図に位置するとカナー的自閉症は第一の翻訳の前、アスペルガー的自閉症は第一の翻訳と第二の翻訳の間に位置される。 



さて、ここで少し上に戻って、向井雅明氏の、《ばらばらの印象から一つのまとまったイメージへの移行と、イメージからシニフィアン的構造化への移行という二つの翻訳過程、二つの契機を経なければならないという論理(……)。一般的にラカン理論では二番目の移行に相当する原抑圧、もしくは父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみで心的装置の成立をかんがえる傾向にあるが、たとえば精神病を父の名の排除という機制だけで捉えることは、精神病者においても言語による構造化はなされているという事実をはっきりと捉えられなくなってしまう。心的装置の成立過程に二つの大きな契機があるとかんがえると、主体的構造の把握がより合理的に行われるように思われる。》をめぐって、ラカン理論につねに違和を抱き続けているようにみえる中井久夫の「言語化」をめぐる叙述を引用する。

外傷性記憶を「語り」に変えてゆくことが治療であるとジャネは考えた。体験は言語で語れる「ストーリー」に変わって初めて生活史の多彩で変化する流れの中に位置を占めることができる。それは少なくない事例においてある程度は達成できる。しかし、完全な達成は理想であって、多くの外傷は「精神的瘢痕治癒」となると私は思う。すなわち、外傷の記憶は意識の辺縁の夢のような部分、あるいは触れられたくない秘められた部分(ホット・スポット)に留まることが多い。たとえば自殺未遂の記憶、一時的精神的失調の記憶は一般に夢のような、半ば人ごとのようなものとして残る。これは生活の邪魔をしない「柔らかな解離」である。私たちはそのようなホット・スポットを意識の辺縁に持っていないであろうか。かつて精神分析は言語化を重視しすぎた。西欧の精神医学は言語化と言語的・意識的自我への統合を究極の目標とする。それは果たして現実的であろうか。

実際、外傷を語るべきか語らざるべきかについてさえ諸家の一致があるわけではない。ホロコーストの記憶を語らなかった家族のほうが長期予後がよいという報告がある。(「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」『徴候・外傷・記憶』116頁)

もう一つ。

時間はふつう未来に向かって進行する。しかし、時間は停止しているだけでなく、時間軸が後ろに向かいがちである。時間の井戸に下降している感覚がある。

治療者は所詮、擬似体験者である。( ……)しかも何例か、すなわちいくつかの井戸を受け持つ。時間の井戸下降感覚は、いずれも、日常生活に奇妙な影響を与える。それは、精神分析などで幼少期を問答しているのとは全然といってよいほど違う。これは治療者の側への作用である。周囲の人と時間のベクトルがちがってくるのである。

さらに、この井戸の構造は単純でない。最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。

たしかに言語化はイメージを減圧する。言語とはそのために生まれたという人もあるぐらいである(高知能自閉症の言語と儀式もまた)。絵画も生のイメージを減殺する力がある。神戸では震災直後、米国からの援助者が「もう泣きましたか」「話して下さい」とよく被災者に語りかけていた。米国人は、日本人は自己の体験を語れない社会であるから被害者が深刻になるのだといっていた。そうなのだろうか。言語は重要であるが、ナラティヴもまた一つのフィクションであって、絵画療法に似ていはいないだろうか。

時間は偉大な癒し手であって、体験がいつのまにか浄化されてゆくことはある。「成仏」とはその行く手にあるものだろう。「季節よ、城よ、無傷なところがどこにあろう」(ランボー「地獄の一季節」)季節は「過ぎゆくもの」、「城」はとどまるものか。おそらく、トラウマを飼い馴らすことはできるとしても、人はトラウマをなかったことにすることなど、できないのであろう。悲劇の感覚というものがある救いになることがあるが、時には不幸な執念が人生を埋めてゆくこともある。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収P59-60 )

もっともこうもある、《私の子どもの観察であるが、ある子はしばしばうなされ、苦悶している時期があって、何とかしなければ、と思った。ところが夢を片言にせよ言語化することができるようになった途端に苦悶は止んだ。別のある子には、成人言語性を獲得してしばらく、親の後を追いかけてでも夢を聞かせようとする時期があった。私が言語の「減圧力」をまざまざと実感したのは、これらの観察によってである。》(『徴候・記憶・外傷』69頁)


あるいは、
「合意による確認」は「命題化」とは同一でないことは忘れられやすい。たとえば色であって「これが赤だね」「うん、赤だ」という以上の確認はできない。

触覚、味覚、嗅覚、振動感覚などの近接感覚はさらに言語化困難な「質」である。

名辞による色彩の分割(色わけ)は民族と時代によって異なる。近代文化内でも英国、オランダ、日本の各々の100色以上の色鉛筆セットを比較すれば色名の文化的差異と色分布の違いは一目瞭然である。英国の標品が暗色、オランダのが褐色が多く、繊細な相違を強調し、逆に、100色以上においても日本の標品で「黄色」とされる「明るい菜種色」などを欠いていることが多い。

しかし、言語化困難だとはいえ、色や味覚や嗅覚は言語化がなければ、まったく個人の自閉的世界にとどまってしまうだろう。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)


…………


向井雅明の論には、次のように書かれている。

外世界から受ける刺激(感覚)→ホールディングなどによるイメージによる統合(知覚)→父性隠喩の作用による世界のファルス化→シニフィアン的構造化 


中井久夫のここで引用された文では(心的外傷をめぐってが中心だが、ここではそれに触れない)、次のようになる。


原始感覚的(プロトペイシック)→漠然とした綜合感覚(母親に抱かれた抱擁感等)→世界の整合化と因果関連化(「発達的記憶論」p61参照)→言語化 



ここで、ラカンの人間の幻想(ファンタスム)の公式 $◇aを並べておこう。(メモ:幻想の式 $◇a 、倒錯の式 a◇$


幻想の公式 $◇aは、次のように分解される。


$ ー -φ ー Φ ー A ー a 


(-φマイナス・プチ・フィーは、想像的ファルスの欠如であり、Φグラン・フィーは、象徴的ファルス)


そして次のように読まれる、《斜線を引かれて抹消された主体が、生の欲動に運ばれて、突き進んで行くその先には、まず「想像的ファルスの欠如」-φがあり、次に「象徴的なファルス」Φがあり、そして言葉で構築された世界Aがあり、そしてその先に永遠に到達できない愛aがある。》



……

以上、三つを並べたからといって、それらを安易に関連づけるつもりはない。

以下、ラカンの「父の名」にかかわる文献をいくつか附記しよう。




ラカンの有名な「父の名」の公式は次の通り(「ファルス」と「享楽」をめぐって 向井雅明




母の欲望は幼児にとって何であるのか分からない(X)。

母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。(向井雅明)

この母親の欲望=子どもの小さなファルスは、想像的ファルス(φ)であり、父の大きなファルス=象徴的ファルス(Φ)とは異なる。

母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。

母の欲望のシニフィアンを,〈父の名〉で代理すること(父の名/母の欲望)によって父性隠喩が成立し,症状や夢などの象徴表現の可能性が開かれる。

――「隠喩」=「あるシニフィアンによるあるシニフィアンの代理」、しかもメトニミーとは異なり、意味が産出される代入(E622及び「文字の審級」)


欲望の公式の右側は、父の名(ファルス)という特権的な超越論的シニフィアンの介入によって、その他の全てのシニフィアン(A)が「ファルス的意味作用」を持つ、と読まれる。

以上は神経症の機制であり、精神病の場合は、「父の名」の排除がある。これは松本卓也氏によりツイッター上で次のように説明されている。


精神病では〈父の名〉が排除されているということは,隠喩が作れず,よって神経症症状も形成されず,母の欲望があらわすものが謎のxのままにとどまるということ.だから,精神病の発病時には,世界の総体がひとつの大きな謎として主体に立ち現れるのである. 
神経症では,〈父の名〉(Nom-du-Père)と出会い,ファルス的意味作用(signification phallique)が成立する.一方,精神病では,父なるもの(Un-Père)と出会い,謎の意味作用(signification énigmatique)が成立する.


 なお、Φ(象徴的ファルス)と父の名の相違としては、Pierre Bruno Phallus et fonction phalliqueの説明を援用した次のような指摘がある。


たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、Phallus et fonction phalliqueの説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。Φは全体としてのシニフィエの諸効果を指し示すシニフィアンであって、つまるところシニフィアンとシニフィエの結びつきを調整するもの。一方、父の名のほうは、意味作用が関わってくる水準。つまり、ファルス享楽についての謎に答えるために、先行する母の欲望(=シニフィアン)を隠喩化することでファリックな意味作用を作り出すという機能が父の名にはある。 
父の名は意味作用に関わる。だからこそ、父の名の隠喩が不成立であった場合(排除)、通常成立するはずのファリックな意味作用が成立せず、世界が「謎めいた意味」の総体になるわけです(分裂病急性期)。(松本卓也 Twitter

※:「心的装置の成立過程における二つの翻訳」補遺