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2013年4月9日火曜日

ホモ・ヒステリクス(クンデラ、ロラン・バルト)




詩や音楽などに大袈裟に酔う発言をかさねなれると、ときに吐き気やら嫌悪を感じることがあるのは、わたくしだけの場合でもあるまい。これは自らもやりかねないので、もって他山の石とする。

クンデラは『不滅』第四部「ホモ・センチメンタリス」=感情的人間において「感情をひからかそうとする誘惑」について書く(ここではベッティーナのゲーテへの愛の逸話をめぐって、ベッティーナを讃美するリルケやロマン・ロランまでが槍玉に上がっている)。

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。

そう、あれら耽溺者をみていると、感受性の豊かな「わたし」を見て! と誇示しているようで、その「押しつけがましさ」に反吐がでる。《身体による威嚇(……)すなわち他人に対して、《自由主義的に》寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。》(ロラン・バルト『彼自身』)

今ではこういう振舞いをする人間はすくなくなったが、わたくしの世代のまわり、あるいはもっと年輩者にはまだその生き残りがいる。といっても、感情をひからかさない若い世代に節操があるのか、それとも感受性の衰えがあるのかは識別すること難し。

「情熱」は、「抒情」とか「才能」とか「革命」とともに、ある世代以下では死語になって久しい。

…しかし、こんなまわりくどい言い方をするには及ばない。こうしたものたちをひとことで定義するごく簡明な言葉があるからだ。それは「抒情」とか「才能」とか「革命」とかと同様に、今日では、疾走したり逃走したりの速度を誇っているカルイ連中からとことん馬鹿にされている反時代的な言葉なのだが、要するに、生ぬるい偽の楽しさをおのずから崩壊させてしまう事件の体験を指して、人はふつう情熱と呼ぶのである。サルトルのジャン・ジュネ論の全体がそれをめぐって旋回し、またゴダールがその悲劇的作品のタイトルに貸し与えた「パッション」の一語こそ、「軽さ」の時代の真の敵と言うべきである。(松浦寿輝「情熱について」)

もう一度、クンデラを引けば、ホモ・センチメンタリスは、ホモ・ヒステリクスのことである。

感情というものは、そもそも、われわれのなかに知らず知らずに、そしてしばしば意に逆らって湧きあがってくる。われわれがそれを感じようと欲すると(ドン・キホーテがドゥルシネアを愛そうと決めたように、われわれがそれを感じようと決めると)、感情はもはや感情でなくなり、感情を模倣する紛いもの、感情の誇示になってしまう。ふつう一般にヒステリーと呼ばれるものになってしまう。だからしてホモ・センチメンタリスは(いいかえれば、感情を価値に仕立てた人間は)、じっさいにホモ・ヒステリクスと同一なのである。

ヒステリーもいまでは死語である。「精神医学」の世界では、1994年に発表された精神障害の診断と統計の手引き第四版(DSM-IV)以降、この言葉は消失し、解離性障害と身体表現性障害に分類され、「ヒステリー」の用語は使われなくなった。日常用語としてあまりにも雑多な意味による混乱もある。あるいはまた、ラカンにおいてでさえ、症状としての「ヒステリー」と有名な四つの言説のうちの一つ、「ヒステリーの言説」とは異なるものだ。
《Hysteria, as a clinical structure, must be distinguished from Lacan’s concept of the DISCOURSE of the hysteric, which designates a particular form of social bond.》-- Dylan Evans An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis

ところで、ラカンは、知を発見していく分析主体はヒステリー的存在である、としているわけであり、「ヒステリー」そのものも感情のひけらかしに陥らねば、その「情熱」的高揚は侮りがたい。


ラカンがスピノザのことを口にした時、あるいは他の機会にアリストテレスやヘーゲルのことを口にした時、そこには過去の偉大な亡霊たちを震撼させるような、直接的といってもよいような接触が打ち立てられたのです。そしてラカン自身はというと、彼らの注解者というより、まさに彼らと同じ情熱に動かされているように見えました。そして我々を過去の大思想家の中の知られざる秘密の領域へと導いたのです。恐らくは、この様な感動的実現化のうちには転移の突然の効果ということもあったでしょう。しかし、後にいろいろと知るようになっても、その時の魅惑は色褪せることはありません。(ジャック=アラン・ミレールーーラカンのセミネール一巻『フロイトの技法論』の日本語版(岩波書店1991年刊行)序文)

詩や音楽などに酔う発言者も、笑止ではあるが、全面的に軽蔑すべきものではない。ハーバマス的宇宙の住人たち、ニーチェのいう最後の人間(末人)、飼い主のいない、ひとつの畜群! 過剰な情熱から成る傲慢さを奪われたコミュニケーションという規制されたゲームにおける死んだ駒、平板で活気のない、無菌状態の宇宙の住人たちよりはマシだ。

最も軽蔑すべき者達について私は語ろう。それは末人(最後の人間)だ。 人間の土地はまだ十分に豊かである。しかしこの土地はいつか不毛になり活力を失くすだろう。高い木がそこから生えてくることは出来なくなるだろう。… 私は君達に言う、踊る星を生むことが出来るためには、人は自分のうちに混沌を持っていなければならない。私は君達に言う、君達は自分のうちにまだ混沌を持っている。災いなるかな! 人間がいかなる星も生まなくなる時代が来る。災いなるかな! 自分自身を軽蔑できない、最も軽蔑すべき人間の時代が来る。 見よ! 私は君達に末人を示そう。『愛って何? 創造って何? 憧憬(あこがれ)って何? 星って何?』―こう末人は問い、まばたきをする。そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。末人は全てのものを小さくする。この種族はのみのように根絶できない。末人は一番長く生きる。 『われわれは幸福を発明した』―こう末人たちは言い、まばたきをする。彼らは生き難い土地を去った、温かさが必要だから。彼らはまだ隣人を愛しており、隣人に身体を擦りつける、温かさが必要だから。… ときおり少しの毒、それは快い夢を見させる。そして最後は多量の毒、快い死のために。…人はもはや貧しくも豊かにもならない。どちらも面倒くさすぎる。支配する者もいないし、従う者もいない。どちらも面倒くさすぎる。飼い主のいない、ひとつの畜群! 誰もが同じものを欲し、誰もが同じだ。考え方が違う者は、自ら精神病院へ向かう。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』序説)

――で、どうすればよいのか、わたくしのこの反吐は。この文は、「ヒステリー」嫌悪か、「ヒステリー」顕揚か。わたくしにしばしば訪れるヒステリックな発話に目を覆っていうなら、他人の文章はテクストⅡのようであってほしいし、あるいはテクストⅠのヒステリックな発話の反応性の痕跡が「しみ」のように残っていてほしい。

【能動的/反応的】 彼の書くものの中には、二種類のテキストがある。テクストⅠは反応的(反作用的)であり、その動因となっているものは、さまざまな憤慨、恐怖、内心での反論、軽い偏執病、防衛、いさかいである。テクストⅡは能動的(作用的)であり、その動因は、快楽である。しかし、書かれ、訂正され、“文体”の虚構に順応するにつれて、テクストⅠそれ自体も能動的となっていく。そうなると、それはみずからの反応性の表皮を失い、その反応性は、わずか、ところどころに斑(ささやかな丸括弧にかこまれた斑点)としてしか残らない。(『彼自身によるロラン・バルト』)

もっとも「しみ」を見る眼がない連中ばかりならどうしよう。 現在は、どうやら、背中や後姿でものいう時代じゃないらしい。そのときはテクストⅠでいくより他ないのか。ーーというわけで、お好きなように。勝手にしてくれ!



プルーストを付記しよう。

彼らは、芸術作品に関することになると、真の芸術家以上に高揚する、というのも、彼らにとって、その高揚は、深い究明へのつらい労苦を対象とする高揚ではなく、外部にひろがり、彼らの会話に熱をあたえ、彼らの顔面を紅潮させるものだからである。そんな彼らは、自分たちが愛する作品の演奏がおわると、「ブラヴォー、ブラヴォー」と声をつぶすほどわめきながら、一役はたしたような気になる。しかしそれらの意志表示も、彼らの愛の本性をあきらかにすることを彼らにせまるものではない、彼らは自分たちの愛の本性を知らない。しかしながら、その愛、正しく役立つルートを通りえなかったその愛は、彼らのもっとも平静な会話にさえも逆流して、話が芸術のことになると、彼らに大げさなジェスチュアをさせ、しかめ顔をさせ、かぶりをふらせるのだ。 
 (……)そういう彼らも、笑止ではあるが、全面的に軽蔑すべきものではない。彼らは、芸術家を創造しようと欲する自然が着手した最初の試作(エッセー)なのであって、現に生存する種に先立って生きたがこんにちまで存続するようにつくられていなかった原生動物とおなじように、形をなさず、生育もしないのだ。優柔不断で、不毛のこれらの愛好者たちが、われわれの心にふれるものをもっているとしたら、それは最初期の飛行機に似ているからで、本体は離陸することができず、内部の装置は、発見を婚儀に残す秘法を欠き、ただ飛ぶ欲望だけをとどめていたというわけである。「ところできみ」とあなたの腕をとりながら、愛好者はつけくわえる、「ぼくはね、あれをきくのは八回目なんだけど、はっきりいって、まだそれが最後というわけじゃありませんよ。」まったくその通りで、彼らは芸術のなかにある真の養分を吸収しないから、つねに飢えを癒しえないあの病的飢餓症になやんで、たえず芸術的なよろこびを欲求するのだ。そこで彼らは、いつまでもつづけておなじ作品を喝采しに行き、おまけに、そこへ出かけることが、一つの義務、一つの行為を遂行しているものと思いこむ、あたかも他の人たちが重役会か、埋葬に出かけるように。(プルースト「見出されたとき」)