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2014年3月13日木曜日

「知った人に会う」という知的行為(プルースト)

《われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである。》(プルースト)

この文は、ジジェクが認知科学、あるいは神経科学を語るなかで(『ジジェク自身によるジジェク』)、《われわれはじかの現実として知覚するものは、じつは「判断」なのである》とするのと、ほぼ似たようなことが書かれているようにみえる。もっともこういったことはなにも認知科学を持ち出さなくても、すぐれた思想家や文学者によって過去から語られまくっていることなのかもしれない。ただわたくしが寡聞にして知らないだけなのだろう。

「知った人に会う」とわれわれが呼んでいる非常に単純な行為にしても、ある点まで知的行為なのだ。会っている人の肉体的な外観に、われわれは自分のその人についてもっているすべての概念を注ぎこむ。したがってわれわれが思いえがく全体の相貌のなかには、それらの概念がたしかに最大の部分を占めることになる。そうした概念が、結局相手の人の頬にそれとそっくりなふくらみをつくり、その鼻にぴったりとくっつけた鼻筋を通してしまい、その声に、それがいわば振動する二つの透明な膜にすぎないかのように、さまざまなひびきのニュアンスを出させることになるのであって、その結果、われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである。なるほど、私の一家の人たちは、自分で組みたててしまったスワン像のなかに、彼の社交生活の無数の特徴をふくませることを、その事情に暗いために、怠ってしまった、一方他の人たちは、そんな特徴を知っていたから、彼のまえに出たとき、エレガンスが彼の顔に領域をひろげていて鷲鼻のところで自然の境界のようにストップしているのを、目にとめたのであった、しかしまた、私の一家の人たちは、彼の威信を落としている、空虚な、だだっぴろいその顔のなかや、彼の評価をさげているその目の奥に、私たちが田舎のよい隣人として生活していたあいだ、毎週私の家の夕食後に、カルタ・テーブルのまわりや庭で、彼といっしょに過ごしたひまな時間の、漠然とした、甘美な残留物――なかばは記憶、なかばは忘却――を沈殿させることができたのであった。私たちのこの友人の肉体の膜は、そうした残留物や、また彼の両親に関するいくつかの回想で、ぎっしり詰まっていたから、そんなスワンがかえって生きた完全な存在のようになってしまったのだし、またそののち私が正確に知ったスワンから、私の記憶のなかで、この最初のスワンに移るときには、一人の人物とわかれて、それとは異なるもう一人の人物のところへ行くような印象を私はもつのである。この最初のスワンーーそんな彼のなかに私は自分の少年時代のかわいらしい過失を見出すのであるが、その彼はまた、のちのスワンよりもむしろこの当時に私が知った他の人々に似ているのであって、この人生にあっては、あたかも一つの美術館のように、そこにあるおなじ時代の肖像画はすべて同一の調子をもち、同一家族のように見えるものなのだーーこの最初のスワンは、ひまな時間に満ち、大きなマロニエの匂、フランボワーズのかごの匂、タラゴンの若芽の匂をただよわせていた。(プルースト「スワン家のほうへ」プルースト全集 1 厚表紙版 P25-26)

こういった文は、プルーストにはいくらでもあるのだが、代表的でよく知られているのは「心情の間歇」の個所であろう(プルーストの『失われた時をもとめて』は、当初は「心情の間歇」という題名にする予定だったらしい)。

そこでは、話者は、いままで「概念」ーーわれわれのやむことのない愛情の永久の運動のなかにおいてーーとして接していたのみであった「祖母」に対して、ある偶然の機会に、「自分自身の不在」、あるいは写真師の「目撃者」として、リアルな祖母に遭遇してしまうことが書かれている。

ああ、私の帰ったことを知らされずに本を読んでいる祖母を私がサロンにはいって見出したとき、私の目に映ったのは、そのような幻影であった。私はそこにいた、というよりもまだそこにいなかった、というべきであった。なぜなら祖母は私がそこにいることを知らずに、物思いにふけっていたからであって、そんな姿を私のまえで見せたことはいままでになく、まるで彼女は、人がはいってくればかくしてしまうような編物か何かをしているところをふいに見つけられた女のようであった。私はといえばーー長くはつづかない特権、旅から帰った短い瞬間に自分自身の不在を突然まのあたりに見る能力をさずかるあの特権によってーー帽子をかぶり、旅行用のコートを着た、証人で目撃者、この家の者ではない外来の客、二度と見られない場所をフィルムにとりにきた写真師、といった要素しか残していない人間のようであった。私が祖母の姿を認めたこのときに、私の目のなかに機械的に写されたのは、なるほど一枚の写真であった。われわれがいとしい人々を見るのは、生きて動いている組織のなか、われわれのやむことのない愛情の永久の運動のなかにおいてでしかないのであって、愛情は、いとしい人々の顔がわれわれにさしむける映像をわれわれにとどかせるまえに、それをおのれの渦巻のなかにとらえ、そうした映像をいとしい人々についてわれわれがつねに抱きつづけている観念の上に投じ、その観念に密着させ、その観念に一致させるのだ。

(……)しかし、われわれの目がながめたのではなくて、単なる物質的な対物レンズとか写真の乾板とかがながめたのであったら、たとえば学士院の構内に見られるものにしても、それは辻馬車を呼ぼうとしている一人のアカデミー会員の退出の姿ではなくて、あたかもその人が酔っているか地面が凍ったぬかるみに被われているかのように、その人のよろめく足どり、うしろ向きに倒れないための用心、転倒の放物線であるだろう。おなじことは次の場合にも言いうる、すなわち、われわれの視線から、それがながめるべきではないものをかくすために、われわれの理知と敬虔とから出た愛情がうまく駆けつけようとするときに、偶然の残酷なたくらみがそれをさまたげてしまう、つまり愛情が視線に先手を打たれてしまう場合であって、視線が真先に即座にやってきて、機械的に感光板の作用をはたしてしまうのである、そんな場合、ずいぶんまえからもういなくなった愛するひと、しかし愛情がその死をけっしてわれわれにあらわに感じさせることを欲しなかったひと、そのようなひとの代わりに、視線がわれわれに見せつけるのは、新しいひと、日に百度も愛情がいつわりの親しげな類似の相貌をとらせる新しいひとなのである。

(……)私は、祖母すなわち私自身という関係をまだ断ちきっていなかった私は、祖母を私の魂のなかにしか、つねに過去のおなじ場所にしか、そして隣りあいかさなりあう透明な思出を通してしか、けっして見たことのなかったこの私は、突然、私の家のサロンのなかに、新しい一つの世界、時間の世界、「ひどく年をとったなあ」と人からささやかれる見知らぬ人たちが住んでいる世界、そんな世界の一部分となった私の家のサロンのなかに、はじめて、ほんの一瞬のあいだ(というのはそういう祖母はすぐにぱっと消えてしまったからだが)、ランプの下の、長椅子の上に、赤い顔をして、鈍重で俗っぽくて、病んで、夢にふけって、頭がすこしぼけたような目を本の上にさまよわせている、私の知らないうちひしがれた一人の老婆の姿を認めたのであった。(プルースト「ゲルマントのほうへ Ⅰ」 井上究一郎訳)

もちろん逆の現象があるだろう。たとえば何十年かぶりでかつての友に同級会などで出会ったりすると、最初の瞬間はよそよそしい他人との出逢いに感じることがある。だがほんの数秒後、かつての親しい表情がそのいささかやつれたリアルな貌の下から滲み出てきて、以前抱きつづけていた友愛の「概念」、--いやここでは「記憶」といおうーーによって修正される、ということが。わたくしは数年前、父の葬儀に駆けつけてくれた小学校のときほのかな恋情を抱いた女友達に面してそういう経験をした。一年に一度ほどは出逢っている男友達についてはそんなことは滅多に起こらない。彼らとは、「親しみ」の仮面に曇らされた視線でほとんどつねに接しており、リアルな相貌は稀にしかみることがない。


冒頭にその断片を引用した『ジジェク自身によるジジェク』から、原文しか手元にないが、引いておこう。認知科学あるいは神経科学の重要な指摘として二つ挙げられているが、冒頭に掲げられた文は、第二番目にかかわる。第一番目のほうは、ベンジャミン・リベットの理論や日本では河本英夫がしばしば引用する荒川修作の「意識とは躊躇の別名だ」にかかわるはずだ(後資料添付)。



◆Conversations with Ziiek  Slavoj Zizek and Glyn Daly

The first thing is that cognitivism and all neurosciences definitely have to be taken seriously. They cannot be simply dismissed in transcendental terms as merely ontic sciences without philosophical reflection. I see cognitive science as a kind of empirical version of deconstructionism. What is usually associated with deconstructionism is the idea that there is no unique subject, there is a multitude of dispersed processes competing between each other, no self-presence, the structure of difrance and so on. And if we take this structure of difrance, with its emphasis on deferral, one of the interesting conclusions of cognitive science is that, literally, we do not live in the present time; that there is a certain delay from the moment our sensory organs get a signal from outside to its being properly processed into what we perceive as reality, and then we project this back into the past. So that our experience of the present is basically past experience, but projected back into the past.

The second nice result of cognitivism is that in a way it over-confirms Kant in the sense that not only is what we experience as reality structured through our perception, that empirical impulses are coordinated through some universal categories, but that it's even more radical: it's that even what we perceive as immediate reality is directly a judgement. Let's take a standard example from a typical cognitivist book: when you enter a room and you see all chairs there are red, and then you move immediately to a second similar room, you think you see exactly the same. But it has been repeatedly demonstrated that our perception is much more fragmentary than it appears - a significant number of the chairs in the second room have different shapes, colours, etc. What is happening is that you see just a couple of fragments and then, based on your previous experience (and this all happens in this immediate moment of perception before proper conscious judgement), you make a judgement - 'all the chairs must be red' The point being that what you see is the result of your judgement - you literally see judgements. There is no zero-level sensory perception of reality which is then later coordinated into judgements. What you always already see are judgements.


…………

※附記:

◆河本英夫『臨床するオートポイエーシス』より

一般に意識の働きとして、遅らせて選択可能性を開くような遅延機能、選択の場所の設定、自分自身の組織化の三つに限定してよいと思う。この遅延機能のことを、荒川修作はかなり早い段階から気付いており、意識とは「躊躇」の別名だと言っていた。また選択の場所の設定というのは、空間的な広がりのことではなく、さまざまな働きを混在させておくという非空間的な場所のことである。この働きのなかには、感情や情動あるいは渇き飢えのようなものも含まれる。また意識の自分自身の組 織化は、集中させたり集中を解除したりする働きである。つまり意識は自分自身の前史を断ち切るほどの組織化をそのつど行っていることになる。意識による遅延がなければ、反射運動・行為だけになり、選択の場所の設定が機能不全になると統合失調症、自分自身の組織化不全になると意識障害となる。


◆中井久夫 「「踏み越え」について 」(初出 2003)よりベンジャミン・リベット(『ユーザーイリュージョン』)をめぐる箇所(『徴候・記憶・外傷』所収)。

※記述は必ずしも最新のデータによるものではないと思われ、一部の数字には一般に流布している数字と異なるが、ここでは敢えて変更しない。

米国の神経生理学者ベンジャミン・リベットによれば、人間が自発的行為を実行する時、その意図を意識するのは脳が行動を実行しはじめてから〇・五秒後である。脳/身体が先に動きだし、意識は時間を置いてその意図を知る。しかも、意識は自分が身体に行動するように指示したと錯覚しているーーということである。

(……)私たちは、指を曲げようというような動作をし始めてから意識が、「指を曲げることにするよ」という意図を意識のスクリーンに現前させるというわけだ。一世紀以上前に米国の哲学者・心理学者ウィリアム・ジェームスは「悲しいから泣くのでなくて泣くから悲しいのだ」といった。それに近い話である。

これが正しければ、意識による「自己コントロール」は、まちがって踏みはじめたアクセルにブレーキを遅ればせにかけることになる。そして、意識は、追認するか、制止するか、軌道を修正するかである。ラテン語以来、イタリア、フランス、スペイン語で「意識」と「良心」とが同じconscientia(とそのヴァリエーション)であることに新しい意味が加わる。意識はすでに判断者なのである。抑止は、追いかけてブレーキをかけることである。〇・五秒は、こういう時にはけっこう長い時間であり、「車」はかなり先に行っている。

もっと前段階の、実行の構想段階、準備段階でも、行動の開始はその意識に先行するかどうかが問題である。リベットの研究はもっぱら最終的実行にかかわることだからである。

実験にもとづくリベットの説は、私たちが私たちのどうすることもできない力にふりまわされていることを示しているのではない。彼は、その主張の根拠を、脳/精神全体の情報処理能力(「自分」の機能)と、意識の情報処理能力(「私」の機能)との格段の差に帰している。感覚器からの入力を脳が補足して情報する能力は毎秒1100万ビットであり、意識が処理できる量はわずか40ビットだと彼はいう。脳全体が判断して行動を起しつつある時、その一部を多少遅れて意識が情報処理するということである。彼によれば、自由意志という体験は、「自分」が「私」に処理をまかせている時に起こる。瞬間的な決断に際しては「私」とその自由意志は一時停止し、「自分」が脳全体を駆使して判断するという。彼は神経生理学の立場から脳全体の機能を「自分、セルフ」といいい、意識の機能活動を「自我、アイ」という。ユングの用法に等しからずといえども遠からずであろうか。欧米のように意識を非常に重視する哲学的風土においてはショッキングであろうが、私にはむしろ、そう考えるとかえって腑に落ちることが少なくない。日常生活でも、服を手にとってから「あ、私、これが買いたかったのよ」と言う。「この人と友達になろう」と言う時はすでにそうなりつつある。熱烈なキスでは、行為は相手と同時に起こり、唇を合わせてから始めてキスしているおのれを意識するのが普通であろう。おそらく、行為は、互いに相手からのそれこそ意識下の情報をくみ取りあって、「セルフ」のほうが先に動くのであろう。「愛している」という観念が後を追いかけてきても、その時は小説のように、プルーストの小説のように、相手の頬の肌の荒れなどを観察しつつ、唇が合わさるように持ってゆくのは、例外的な「意識家」であり、モームの小説に出てくる、スピノザの哲学書をよみながら性交する男に似てfrigidであろう。意識が精神全体の、されには心身の専制君主であるわけではないということである。

「アイ」は、歩き馴れた道を歩くような時にも「セルフ」に多くを任せているのであろう。階段が一段あるつもりで足を踏み出した時に起こる不愉快な当て外れ感覚は「パニック」の例によく挙げられるものであるが、パニックを起こしているのは「アイ」であろう。段差に気づかずに転倒する時、気づくと受け身の姿勢をとって身体の要所を庇っていることがある。これなどは「セルフ」がよく働いた場合である。この「無意識」はベルグソンが無意識の例として挙げているものに近い。彼は、身体的な多くの機能が意識の指示を待たずに円滑に動いているからこそ、意識が本来の自由な活動にひたれると考えていた。

リベットの説が正しければ、犯罪・非行への対処は、「アイ」もさることながら、「セルフ」すなわち脳全体ということになる。考えてみれば、当然のことである。今後の脳生理学は、1100万ビット/秒の感覚器に降り注ぐ情報を、どのようにしぼりこんで行動の開始を決定するのか、そしてどの部分がどの形で意識の40ビット/秒にまさわれるのかを明らかにしてほしい。私たちが粗雑に衝動とか判断とか決定とか呼んでいるものにういて再考するきっかけになるであろう。