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2014年11月14日金曜日

「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」

◆まず、フロイト博物館の国際会議(17 October 2014)における基調講演者Paul Verhaegheの要旨より。

ーー「悲哀のなかのナルシシズムーー父権社会の消滅」(Paul Verhaeghe Narcissus in Mourning - The Disappearance of Patriarchy)

ある概念を理解するためのひとつの方法は、その対立物とその概念を対照させることである。私の考え方では、ナルシシズムはメランコリーの片割れである。ナルシシズムとは完全性と全能性omnipotenceを意味する。それは全能なるalmighty母との同一化を呼び戻す。彼女は子供が欠けているものを与えることができるので全能なのである。エディプス期の間に、この同一化は父にシフトする。その父の機能とは母からの保護を意味する。メランコリーは喪失と無力感を意味する。原初の全能性の幻想の不首尾は、父の避けがたい不首尾、あるいは父が請合うと見なされた安全保障感の失敗である。実際のところ最終的なファリックな保障などどこにもない。結果として、典型的な神経症の反作用が、代替物を絶え間なく探求することとなる。それが一連のイマジナリーな父たちを創りだす。これが導くのは、二次的なナルシシズムであり、ファリックな思考の領域の内部に留まることになる。

One way to understand a concept is to contrast it with its opposite. To my way of thinking, narcissism is the counterpart of melancholia. Narcissism implies completeness and omnipotence. It harks back to the identification with the almighty mother. She is almighty because she can give what the child lacks. During the oedipal period, this identification shifts to the father, who functions as a safeguard for the mother. Melancholia implies loss and helplessness. The failure of the original fantasy of omnipotence is the inevitable failure of the father and the safety that he was meant to guarantee; there is in fact no final phallic guarantee whatever. Consequently, a typically neurotic reaction is the endless search for a substitute, creating a series of imaginary fathers. This leads to secondary narcissism and stays within the realm of phallic thinking.
われわれは個人のレベルでのこのような考え方を解釈するのに馴染んでいる、父たちと子供、エディプスコンプレクス等々。フロイトが、彼のエッセイ『ナルシシズム入門』と『悲哀とメランコリー』を書いたとき、まさに同じ衝突が世界的なスケールで起こっていた。ファリックなナルシシズムが第一次世界大戦によって情け容赦なく粉々に打ち砕かれた。そして世界的な悲哀の時期が引き続いたーー、父への悲哀(哀悼)、大文字の父への哀悼。私の観点からは、この悲哀は父権制社会の終焉の告知であり、別の言い方をすれば、伝統的な権威の終焉である。これは権威の概念自体を再考するように、われわれを強いる。

We are accustomed to interpreting these ideas at the level of the individual – the child with his parents, the oedipus complex and so on. When Freud was writing his essays ‘On Narcissism’ and ‘Mourning and Melancholia’, the very same clash was happening on a global scale. Phallic narcissism was brutally shattered by the First World War, and a period of universal mourning followed – the mourning of the father, of The Father. In my view, this mourning announced the end of patriarchy, in other words, the end of traditional authority. This compels us to rethink the concept of authority as such.


まず前段の《全能なるalmighty母との同一化を呼び戻す。彼女は子供が欠けているものを与えることができるので全能なのである。エディプス期の間に、この同一化は父にシフトする。その父の機能とは母からの保護を意味する》をめぐっていささか捕捉しよう。ポール・ヴェルハーゲが1995年(40歳時)に書いた論文からである。


◆NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)より(私意訳ーー「鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス」より)

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》

このことは、われわれに想い起こさせる、スフィンクスとその謎に直面した状況を。スフィンクスはあなたを貪り食うだろう、もしあなたが正しい答え、すなわち、正しいシニフィアンを齎さなかったら。実のところ、われわれは実在の女について話しているわけではもはやない。逆に、すべての女は、二重の仕方でこの姿形の餌食になるのだ。主体として、彼女はこのおどろおどろしい形象に直面する(すなわち、男と同じように、生れたときは、母の欲望に直面する:引用者)。さらに、女として、彼女はこの畏怖すべき形象の姿を纏わせられる。あなたがこのおどろおどろしい女性の姿形の説明を知りたいのなら、カミール・パーリアの書物、『性のペルソナ』をにおける性と暴力をめぐる最初の章を読んでみるだけでよい。彼女は正しく、この姿形と自然自身とを同一化している。もしこの姿形に直面した男性の不安の臨床的な説明を読みたいなら、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』Geschlecht und Charakterを読んでみよう、ジジェクのコメントとともに。この二つとも意図されずに、臨床的な事実の説明となっている。すなわち、防衛的な機能とともに、おどろおどろしい女性の姿形のアポステリオリな(後天的な)構築物であるという事実の。もし意図された臨床的な説明がほしいなら、Klaus Theweleitによる美しい『Männer Phantasien』を手に入れ、繙いてみればよい。

後段の《ファリックなナルシシズムが第一次世界大戦によって情け容赦なく粉々に打ち砕かれた。そして世界的な悲哀の時期が引き続いたーー、父への悲哀(哀悼)、大文字の父への哀悼》の捕捉については中井久夫の次の簡潔な文がよい。

二十世紀をもっとも大きく動かした詩は結局、フランス詩のポール・ヴァレリー( 1871-1945年)の「若きパルク」『魅惑』の一対、ドイツ詩のライナー・マリア・リルケ(1875-1926年)の『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』の一対、そして英詩のT・S・エリオット(1888-1965年)の『荒地』に落ちつくかと私は思う。

これらの詩は一九二二年を中心とするごく狭い時期に出ている。「若きパルク」だけは一七年春に刊行されたが、この詩人が世に広く知られるのは一九年である。二二年は『魅惑』『荒地』との刊行の年である。翌二三年早々に『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』が伝説的な短期間で完成する。

これらの詩は成立の時間が近いだけではなく、互いに密接な関係にある。「若きパルク」『魅惑』の衝撃がリルケが書き悩んでいた『ドゥイノの悲歌』を完成させ、その傍らに『オルフォイスへのソネット』を生んだ。リルケは『魅惑』の独訳にその後の短い晩年の多くを費やすとともに、フランス語で詩作するようになる。エリオットの『荒地』だけは詩でなく十九年に英国の雑誌に掲載されたヴァレリーのエッセイ「精神の危機」と密接な関係にある。ともに西洋の精神的危機を正面からとりあげたものである。(中井久夫「私の三冊」ーートラウマを飼い馴らす音楽

もっとも最近のポール・ヴェルハーゲの論点は、冒頭の記事の叙述の範囲を超えた領域がその核心となっている。フロイトを生み出したヴィクトリア王朝時代の禁止ー抑圧の文化が、第一次世界大戦によってその文化の超自我(父権制社会)が揺るがされる。ここまでは同じである。だがその後、1968年の学生運動によって象徴的父の決定的な崩壊、さらには1989年のベルリンの壁の崩壊後の現在の課題とは、この今、われわれはどんな社会構造に囚われており、その社会構造では異なった人格(アイディンティティ)、異なった病が生み出されているという点を指摘することにある。

ヴェルハーゲによれば現在の自閉症の多発は、旧来型のものとは異質であり、この社会の「文化のなかの居心地の悪さ」から生まれているとする。世界的な「いじめ」猖獗、あるいはひとびとの幼児化などもこの新しい社会構造のせいであると。

これらの歴史的進展については日本ではやや様相が異なるという指摘もあるだろう、《かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか》(中井久夫「父なき世代」)。あるいはまた柄谷行人は、90年代初頭に、日本の権力構造の特徴のひとつとして、母系的なものの残存を指摘している、《日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない》(柄谷行人「フーコーと日本」1992)。だがいまはそれについて詳しく触れることはしない。

ヴェルハーゲは、1990年以降の市場原理主義社会(新自由主義社会)における病理をたんに父権制社会の消滅のせいとして片付けるわけにはいかないとする。彼は21世紀の先進国における病理のよってきたる社会を「エンロン社会」と名づけている。すなわち、マッキンゼー出身でエンロン社CEOになったジェフリー・スキリングの「ランク・アンド・ヤンク」方式ーー役員から社員までをランク付けしておいて、下位の者をクビにしていくーーこの差別化方式がその多寡はあれ、あらゆる領域で運用されている社会である。勝ち組と負け組みをたえずつくりだしていく「効率的な」システム。

ここでは敢えて訳さずに英文のまま貼り付けておく。「文化のなかの新しい居心地の悪さ」と名づけれらた論文(2011)である。これについては、最近でもGuardian(ガーディアン 2014.09.29) にて"Neoliberalism has brought out the worst in us"「新自由主義はわれわれに最悪のものを齎した」という記事が書かれている(参照:「人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである」(ニーチェ)

◆『Capitalism and Psychology Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent』 Paul Verhaeghe

In the Enron company this became known as Rank and Yank. The achievements of every employee were judged competitively and on that basis one fifth of them were sacked each year after being publicly humiliated by having their name, photo and ' failure' posted on the company's website. (de Waal, 2009, p.Sl) In a very short time, almost every employee started to lie about his achievements, which ultimately led to the company's bankruptcy. Nevertheless, various weaker versions of the Enron model are still in operation elsewhere.

ポール・ヴェルハーゲのこの「エンロン社会」の主張は、ここでもまた中井久夫の次の文によって捕捉することができる。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。もはや「生き甲斐」の出番はなくなり、「アイデンティティ」概念も存在を脅かされているのではないか。80年代から弱々しい「自分探し」がさまよえる魂の呟きとなった。アイデンティティ追求の猶予である「モラトリアム」も得難くなって、それは無期限の「ひきこもり」になったかに見える。しかしこれらもやがて過ぎ去るであろう。先の見えない移行期に私たちはいる。

セーフティーネットのない殺風景な世界が実現すれば、「生き甲斐」はもちろん「アイデンティティ」の追求も一種の贅沢になるだろう。冒頭に述べたように現にそういう社会はある。その行き着く果ては「人間であること」が贅沢とされる世界である。「アイデンティティ」や「生き甲斐」はもう古いなどと軽々しくいうべきでないと私は思う。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』)


もっともこれらの見解は、ジジェクが90年の初頭に書いた『斜めから見る』にすでに書かれているという言い方もできるかもしれない。エンロン社会における「勝ち組」であるための典型的戦略が「病的ナルシシスト」として振舞うことであると言いうる。

……「病的ナルシスト」の出現は、それ以前の二形態の根底に共通してあった自我理想の枠と絶縁する。象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者(アウトロー)として経験する。(「現代の「病的ナルシスト」たち、あるいは「母なる超自我」と「内的な自由」」より)


おそらく多くの人が、「エンロン社会」においてどうやって「勝ち組」になるかを無意識的にせよ模索しているのだろう。そしてそれを全面的に否定するものでは、わたくしは全くない。

さて前にもいったように、実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。(デカルト『方法序説』ーー「人間的主観性のパラドックス」覚書

ところで國分功一郎氏は、「哲学とは人生論でなければならない」と言っているそうだが、これはわたくしのような旧世代の人間には、驚くべき言葉である(彼のその真意は別のところにあるのかも知れないし、「人生論」という語彙の捉え方にもよるだろうが)。90年以前に思想なるものに出会った人間には、決して口に出来なかった言葉であり、かつてそんなことを言ってしまえばひどく嘲笑されただろう。

僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。
21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

……住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。(浅田彰


「エンロン社会」をどうやって巧みに泳ぐかの「人生論」ではなく、「エンロン社会」で生きる前提を問い直す「人生論」であることを是非とも望むがーーすくなくともそれに触れていることをーー、わたくしは彼の著作を読んでいるわけではないので、あまりえらそうなことをいえない。

もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983)

いずれにせよ(市場原理主義にせよ、新自由主義にせよ、エンロン社会などにせよ)、われわれが囚われている所与の”環境”を批判=吟味するのが、「哲学者」やら「思想家」の仕事のはずだ。

今思えばカントの超越論的な次元に辿りついたとき、私は哲学とは何たるかを間違いなく初歩的なレヴェルでしか理解してなかったのだ、と思いました。つまり、私は哲学が一種の誇大妄想的な企て(megalomaniac enterprise) ――ほら、「世界の基本的な構造を理解しましょう」というたぐいのものです――ではないという重要なポイントを理解したとき、哲学はそんなものではないとわかったのです。(……)

哲学は誇大妄想的なものではないと私が知ったのは、愚直(naive)な科学者から「われわれが合理的な仮説にもとづいた厳然たる現実を扱っているのに対して、君たち哲学者は単にあらゆる事物の構造を夢見ているだけではないのかね」というありがちな反論を受けたときでした。そのとき、哲学はある意味で科学より批判的で、より用心深くさえあるのだということに気づきました。哲学はより初歩的な疑問さえ投げかけます。例えば、科学者がある問いにアプローチする際、哲学のポイントは、「万物の構造は何か」ではなく、「その問いを定式化するために科学者がすでに前提としなければならない概念とは何なのか」ということです(スラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』)

以下の千葉雅也氏のツイートに《精神医学の領域ですでに起こった変化》とあるのは、DSMという黒船のことや、認知科学や神経生物学、あるいは薬物療法や行動療法などに取って代わられつつある傾向を言っているのだろう。

@masayachiba: 根源的な問いを多様に議論するのをやめ、人それぞれだからという配慮で踏み込まなくなるというのは、精神医学の領域ですでに起こった変化だ。文明全体がそういう方向に向かっていると思う。残される課題は「現実社会の苦痛にどう対処するか」だけ。そもそも苦痛とは何かという問いは悪しき迂回になる。千葉雅也

上に引用したポール・ヴェルハーゲは痛烈なDSM批判をくり返している精神分析医でもある(参照:フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」)。

ここでは、千葉雅也氏の《文明全体がそういう方向に向かっている》という文をあえて「誤読」して、文明全体がエンロン社会に向かっているとしておこう。

さてくだくだしく書くのはもうやめる。ただ巷間に流通が目立ちはじめたらしい「人生論」なるものが、《「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則》やら《現実社会の苦痛にどう対処するか》だけでないことを祈るばかりである。

もっともアドラー心理学の流行も病的ナルシシスト育成のための見解に感じられないでもないし(参照:「原初とは最初のことじゃないんだよ」)、米国MBAで修業を積んだらしいどこかの経営コンサルタントが、文科省の有識者会議にて提案した「G型大学とL型大学」なるものを「真摯に」受け止めざるを得ないのも、エンロン社会の病いの臭いがしないでもない。

そしてくり返せば、成功やら苦痛をめぐる教えは、人生を巧みにやりすごすテクニックとしてはひどく大切であり、安易にばかにするつもりは毛頭ないことを念押ししておこう。たとえばアランの人生論から抜き出しておけば、こういった側面はわれわれは意想外に忘れがちなのだから。そしてアランの限界はあるにしろ(たとえば第二次世界大戦勃発前に、サルトルはアランのオプティミズムから離れた)、通常のわれわれの人生の99%はこれでやっていける。

赤ちゃんがはじめて笑うとき、その笑いは絶対になにも表現していない。幸福だからといって笑ったりしない。むしろこういったほうがよい。赤ちゃんは笑っているからこそ、いま幸福なのであると。赤ちゃんは笑うことに快楽を感じているのだ、食べることに快楽を感じるのと同様に。(アラン『プロポ集』井沢義雄・杉本秀太郎訳)

ーーすなわち、《幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ》

私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。(アラン「オプチミスム」

だが第二次世界大戦直前のナチにはこれでは通用しなかった。そして現在のネオナチ猖獗にも通用するはずがない。

最後にエンロン社会のバイブル、アイン・ランドの書から抜き出しておこう。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

※補遺:資料:金持のための社会主義