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2014年11月14日金曜日

資料:金持のための社会主義

前投稿「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」補遺ーー市場原理主義と新自由主義は違うなどという寝言を言ってくる輩がいるので。市場原理主義とは資本の欲動の論理である。

◆柄谷行人の「歴史の終焉について」(『終焉をめぐって』所収)

要するに、資本主義圏と社会主義圏があるというのはうそである。資本主義は世界資本主義としてあり、「社会主義圏」はその内部にしか存在したことがない。だが、こうした二項対立がなぜ戦後を支配したのだろうか。

もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。p160
人々は自由・民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。さらにいえば、自由主義と民主主義もまた別のものである。ナチスの理論家となったカール・シュミットは、それ以前から、民主主義と自由主義は対立する概念だといっている(『現代議会主義の精神史的地位』)。民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。

それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。議会制は実は自由主義に根ざしている。p162

※参照:資本の欲動のはてしなさ(endless)と無目的(end-less)

一般市民は「理解」しないといけないのだろうか? 社会保障の不足を埋め合わせることはできないが、銀行があけた莫大な金額の損失の穴を埋めることは必須であると。厳粛に受け入れねばならないのか? 競争に追われ、何千人もの労働者を雇う工場を国有化できるなどと、もはや誰も想像しないのに、投機ですっからかんになった銀行を国有化すのは当然のことだと。Alain Badiou, “De quell reel cetre crise est-ellelespectacle?” Le Monde, October 17, 2008

…………

以下、ジジェク『First as Tragedy, then as Farce』より。

「あなた(グリーンスパン-引用者)はイデオロギーをおもちでしたね。このような供述があります。「私(グリーンスパン-引用者)には自分なりのイデオロギーがある。私の判断では、自由競争市場は経済を整えるのに最良の方法だ。規制も試みたが、成果を上げたものはなかった。」これがあなたの言葉です。サブプライム危機につながる無責任な貸付を防止する権限があなたにはあった。そうすべきだと多くの人から忠告されていた。そしていまや、経済全体がその代償を払っている。あなたは自分のイデオロギーによって決断したことを悔やんでいますか?」

「グリーンスパンは答えた。「世界の動向を決めるという重要な機能を持つ構造だと私が信じていたモデルに、欠陥がありました」。言い換えれば...自由市場のイデオロギーに欠陥があることが証明されたと、グリーンスパンは認めたのだ。のちには、金融会社が多大な損失をこうむらないよう取引相手を十分調査しなかったことに「茫然とした」と何度もくり返した。「人々は、金融機関の自己利益追及によって株主の権利は守られると期待していました。彼らは茫然自失の状態にあります。私もです。」

「グリーンスパンの過ちは、賢明に自己利益を追求する貸出機関であれば、もっと責任ある、もっと倫理的な行動をとるはずで、早晩バブルがはじけることが明白な無謀な投機に一目散に走るようなまねはするまい、と期待したことだった。」

「グリーンスパンの失策は、市場参加者の合理性を過大評価していたことに、つまり無謀な投機で荒稼ぎする誘惑に負けたりしないと信じていた点にある。しかし、それだけではない。リスクを冒す価値があるという、金融投機家のごく合理的な期待 - いざ金融崩壊となっても国家による損失補てんをあてにできる - を計算に入れ忘れていたのだ。」(ジジェク『ポストモダンの共産主義』

二〇〇八年の金融大崩壊への緊急援助策

『この巨額な緊急援助は何の解決のもならない。これは財政社会主義であり、反アメリカ的である。』(ジム・バニング共和党上院議員)

共和党の緊急援助策への反対のしかたは階級闘争の様相を呈していた。つまり、ウォール街と目抜き通りとの闘争だ。なぜこの危機を招いた責任のあるウォー ル街の金持ちを助け、住宅ローンをかかえた目抜き通りの普通の人たちに犠牲を払うよう、求めねばならないのか?……

……マイケル・ムーアがこの緊急援助策を世紀の強盗事件であると避難する意見広告を出したのも無理はない。

この左派と共和党保守主義者との見解の意外な一致点は、考察に値する。

では、緊急援助策は本当に「社会主義」的な政策であり、ついにアメリカに社会主義国家が誕生したことを意味しているのか? もしそうなら、きわめて特殊な形態である。「社会主義」政策の第一の目的が、貧しい者ではなく富める者、債務者ではなく債権者を助けることになってしまうからだ。金融システムの「社会主義化」が資本主義を救うために役立つのならば認められるというのは、究極の皮肉である。社会主義は悪──のはずだが、ただし、資本主義の安定に資する場合にかぎり悪ではないと言うことだ(現代中国との対称性に注目を。中国共産党は同じように、「社会主義」体制を強化するために資本主義を利用している)。(同上)

※「目抜き通り」は、原文をみるとmain streetになっている。Wall street 対 main streetであって、一般大衆の住むストリート、つまり「一般市民」として読もう。

◆参照1:ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』より。

資本の限界は資本そのものであるという公式を進化論的に読むのは的外れである。この公式の眼目は、生産関係の枠組みは、その発展のある時点で、生産力の伸びを邪魔するようになる、といったことではなく、この資本主義の内在的限界、この「内的矛盾」こそが、資本主義を永久的発展へと駆り立てるのだ、ということである。資本主義の「正常な」状態は、資本主義そのものの存在条件のたえざる革新である。資本主義は最初から「腐敗」しており、その力をそぐような矛盾・不和、すなわち内在的な均衡欠如から逃れられないのである。だからこそ資本主義はたえず変化し、発展しつづけるのだ。たえざる発展こそが、それ自身の根本的・本質的な不均衡、すなわち「矛盾」を何度も繰り返し解決し、それと折り合いをつける唯一の方法なのである。したがって資本主義の限界は、資本主義を締めつけるどころか、その発展の原動力なのである。まさにここに資本主義特有の逆説、その究極の支えがある。資本主義はその限界、その無能力さを、その力の源に変えることができるのだ。「腐敗」すればするほど、その内在的矛盾が深刻になればなるほど、資本主義はおのれを革新し、生き延びなければならないのである。剰余享楽を定義するのはこの逆説である。この剰余とは、何か「正常」で基本的な享楽に付け加わったという意味での剰余ではない。そもそも享楽というものは、この剰余の中にのみあらわれる。すなわち、それは本質的に「過剰」なのである。その剰余を差し引いてしまうと、享楽そのものを失ってしまう。同様に、資本主義はそれ自身の物質的条件をたえず革新することによってのみ生き延びるのであるから、もし「同じ状態のままで」いたら、もし内的均衡を達成してしまったら、資本主義は存在しなくなる。したがって、これこそが、資本主義的生産過程を駆動する「原因」である剰余価値と、欲望の対象-原因である剰余享楽との、相同関係である。


参考2:ケインズの「美人投票」理論  (岩井克人)

ケインズの美人投票とは、しゃなりしゃなりと壇上を歩く女性の中から審査員が「ミス何とか」を一定の基準で選んでいくという古典的な美人投票ではない。もっとも多くの投票を集めた「美人」に投票をした人に多額の賞金を与えるという、観衆参加型の投票である。この投票に参加して賞金を稼ごうと思ったら、客観的な美の基準に従って投票しても、自分が美人だと思う人に投票しても無駄である。平均的な投票者が誰を美人だと判断するかを予想しなければならない。いや、他の投票者も、自分と同じように賞金を稼ごうと思い、自分と同じように一生懸命に投票の戦略を練っているのなら、さらに踏み込んで、平均的な投票者が平均的な投票者をどのように予想するかを予想しなければならない。「そして、第四段階、第五段階、さらにはヨリ高次の段階の予想の予想をおこなっている人までいるにちがいない。」すなわち、この「美人投票」で選ばれる「美人」とは、美の客観的基準からも、主体的な判断からも切り離され、皆が美人として選ぶと皆が予想するから皆が美人として選んでしまうという「自己循環論法」の産物にすぎなくなるのである。

ケインズは、プロの投機家同士がしのぎを削っている市場とは、まさにこのような美人投票の原理によって支配されていると主張した。それは、客観的な需給条件や主体的な需給予測とは独立に、ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然価格を乱高下させてしまう本質的な不安定性を持っている。事実、価格が上がると皆が予想すると、大量の買いが入って、実際に価格が高騰しはじめる。それが、バブルである。価格が下がると皆が予想すると、売り浴びせが起こり、実際に価格が急落してしまう。それが、パニックである。

ここで強調すべきなのは、バブルもパニックもマクロ的にはまったく非合理的な動きであるが、価格の上昇が予想されるときに買い、下落が予想されるときに売る投機家の行動は、フリードマンの主張とは逆に、ミクロ的には合理的であるということである。ミクロの非合理性がマクロの非合理性を生み出すのではない。ミクロの合理性の追求がマクロの非合理性をうみだしてしまうという、社会現象に固有の「合理性のパラドックス」がここに主張されている。

《グリーンスパンの失策は、市場参加者の合理性を過大評価していたことに、つまり無謀な投機で荒稼ぎする誘惑に負けたりしないと信じていた点にある。しかし、それだけではない。リスクを冒す価値があるという、金融投機家のごく合理的な期待 - いざ金融崩壊となっても国家による損失補てんをあてにできる - を計算に入れ忘れていたのだ》とあったが、金持のための社会主義は、ケインズ理論(美人投票論)が明かした資本の欲動の必然的な結果。資本が自由に振舞えば、このマクロの「非合理性」を生むのだから。そしてこの資本主義のシステムを守ろうとすれば、資本の欲動の結果としての金融崩壊が起こっても国家による損失補てんをせざるをえない。

《資本主義の純粋化によるミクロ的な効率性の上昇は、逆にマクロ的な安定性を揺るがせてしまうと論ずるのである。資本主義が、大恐慌などの幾多の危機を経ながら、まがりなりにもある程度の安定性を保ってきたのは、貨幣賃金の硬直性や金融投機の規制など市場の働きに対する「不純物」があったからである。効率性を増やせば不安定化し、安定性を求めると非効率的になるという具合に、効率性と安定性とは「二律背反」の関係にあるというのである。》(岩井克人)

そもそも金融崩壊による損失補てんは、一見金持のための社会主義にみえるが、その事態が起こったときに真っ先に困窮するのは、低所得者たちである。

ジジェクの金持のための社会主義とは、ジジェク一流のレトリックなのであって、その言葉だけを取り出して真に受けるのはマヌケでしかない。事実、ジジェクもこう語っている。

《もし「モラルハザード」が資本主義の本質そのものであったとしたらどうだ? つまり両者は不即不離の関係にある。資本主義の体制下では、目抜き通りの人々の幸福はウォール街の繁栄にかかっている。だか、緊急援助に反対する共和党のポピュリストが正しい理由から誤ったことをしている一方で、緊急援助の発案者は誤った理由から正しいことをしているのだ。もっと凝った用語を使えば、これは「非推移的関係」なのである。》(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)



彼らは私たちを負け組だと言ってるようだが、本当の敗者はウォール・ストリートにいる。連中は私たちのカネで莫大な額の保釈金を払ってもらったようなものだ。私たちを社会主義者だと言うが、いつだって金持ちのための社会主義が存在しているではないか。私たちが私的財産を尊重していないと言うが、たとえここにいる全員が何週間も日夜休まず破壊活動を続けたとしても、2008年の金融崩壊で破壊された個人の財産には及びもつかない。私たちを夢想家だという。でも、夢を見ているのはこのままの世の中が永久に続くと考えている人々だ。私たちは夢を見ているのではない。悪夢となってしまった夢から目覚めようとしているのだ。

覚えておいてほしい。問題は不正や強欲ではない。システムそのものだ。システムが否応なく不正を生む。気をつけなければいけないのは敵だけではない。このプロセスを骨抜きにしようとする、偽の味方がすでに活動を始めている。カフェイン抜きのコーヒー、ノンアルコールのビール、脂肪分ゼロのアイスクリームなどと同じように、この運動を無害な人道的プロテストにしようとするだろう。