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2014年11月13日木曜日

「悪魔と青い深海のあいだ」、あるいは美しい男たち


ズッキーニ@香港 ‏@Zuki_Zucchini

明報によると、和平佔中の発起人、戴耀廷、陳健民と朱耀明は来週の金曜日、21日に自首する見込み via @Hongkongdash //《明報》今日報道,佔中三名發起人戴耀廷、陳健民與朱耀明,已計劃下周五(21日)自首。http://fb.me/6UwSTT8ah

戴耀廷


陳 健民


朱耀明

ただの大学の教師たちのような印象の彼らも正念場ではあんなに美しくなる。サルトルやフーコー、ゴダール、ジュネやドゥルーズらと同じくらい美しい。もっとも日本の初老の学者たちに、頭を丸めポロシャツを着て似合う男たちがいるかどうかーーそもそもそんなことをする気になる連中がいるのかどうかーーは知るところではない。

学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』)

まさか21世紀に入って10年以上経った今でも、精神上の中産階級でありつづけ、気概のかけらもない学者先生ばかりではあるまい?




「フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。とるにたりない状況でも、すでにそうだった。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ大気の状態の変化とか、一種の<事件>、あるいは電界か磁場など、さまざまなものに見えたものです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の序列に属するものではなかったのです」(ドゥルーズ








 (DELEUZE, GODARD, MARLON BRANDO)

…………

ここでなぜか開高健の晩年の名品「玉、砕ける」を引用する。すなわち冒頭の画像の左右の二人朱耀明ーーあるいは陳健民もいくらかーーは開高健の短篇に出てくる「張立人」の生まれ変わりではないかなどと一瞬思ってしまったせいだ。また開高健は真中の戴耀廷にいささか似ていないでもない。

だが三島由紀夫や丹生谷貴志により、開高健への強い批判があったことは忘れないでおこう(参照:丹生谷貴志「個人史を巡る旅:中上健次を巡る旅」)。

あるいはこれはわたくしの思い違いかも知れないが、敢えてここで引用しておこう。

遅い時刻のテレヴィ番組の、一応は文化的な情報を提供する姿勢で作られているものに、まだ俳優だった吾良が出演した。ヨーロッパに留学した時間こそ短いが、いまはパリの社交界にも知己が多いという作曲家が一緒だった。そのパリで仕立てたタキシードと、吾良の方は自分でデザインして洋服屋に作らせたマオカラーの長い上衣がーー黒い繻子の底に臙脂色の艶がほのめいているーー、番組序幕のスタジオを圧するようであったものだ。

しばらく両者の話し合いがあり、その間もかれらはシャンパンを飲んでいたのだが、そこへやはりタキシードを着てシャンパン・グラスを手にした小説家が加わった。ヨーロッパ文化と風俗、とくに美食について一家言ある小説家の、語り口こそ陽気だが、古義人も知っているかれは、そうした表層とはまた別の、むしろ閉鎖的な性格なのだ。マスコミにおいても、海外の文化界でも、自分の才能と見識にみあうーー等身大の、というのが口癖だったーー対応を受けていない、と憤おることのある難しい人だった。そのうち進行が渋滞した。(大江健三郎『取り替え子』)





それにもかかわらず、この晩年の小品は美しい。

…………

玉、砕ける」 開高健

九竜半島の小さなホテルに入ると、よれよれの古い手帖を繰って張立人の電話番号をさがして、電話をかける。張が留守のときには、私は菜館のメニュを読むぐらいの中国語しか喋れないから、私の名前とホテルの名前だけをいって切る。翌朝、九時か十時頃にあらためて電話をすると、きっと張の、初老だけれど迫力のある、炸(はじ)けたような、流暢な日本語の挨拶が耳にとびこんでくる。そこでネイザン・ロードの角とか、スター・フェリーの埠頭とか、ときには奇怪なタイガー・バーム公園の入口とかをうちあわせて、数時間後に会うことになる。張はやせこけてしなびかかった初老の男だが、いつも、うなだれ気味に歩いてきて、突然顔をあげ、眼と歯を一度に剥(む)いて破顔する癖がある。笑うと口が耳まで裂けるのではあるまいかと思うことが、ときにあるけれど、タバコで色づいた、そのニュッとした歯を見ると、私はほのぼのとなる。ニコチン染めのそのきたならしい歯を見たとたんに歳月が消える。

顔を崩して彼がいちどきに日本語で何やかや喋りはじめると、私は黴の大群がちょっとしりぞくのを感ずる。それはけっして消えることがなく、いつでもすきがあればもたれかかり、蔽いかかり、食いこみにかかろうとするが、張と会ってるあいだは犬のようにじっとしている。私は張と肩を並べて道を歩き、目撃してきたばかりのアフリカや中近東や東南アジアの戦争の話をする。張ははずむような足どりで歩き、私の話をじっと聞いてから、舌うちしたり、呻いたりする。そして私の話がすむと、最近の大陸の情勢や、左右の新聞の論説や、しばしば魯迅の言説を引用したりする。数年前にある日本人の記者に紹介されていっしょに食事したのがきっかけになり、その記者はとっくに東京へ帰ってしまったけれど、私は香港へくるたびに張と会って、散歩をしたり、食事をしたりする習慣になっている。しかし、彼の家の電話番号は知っているけれど、招かれたことはなく、前歴や職業のこともほとんど私は知らないのである。日本の大学を卒業しているので日本語は流暢そのもので、日本文学についてはなみなみならぬ素養の持主だとはわかっているけれど、小さな貿易商店で働きつつ、ときどきあちらこちらの新聞に随筆を書いてポケット・マネーを得ているらしいとしかわからない。彼は私をつれて繁華なネイザン・ロードを歩き、スイスの時計の看板があって『海王牌』と書いてあれば、それはオメガ・シー・マスターのことだと教えてくれる。小さな本屋の店さきでよたよたの挿絵入りのパンフレットをとりあげ、人形がからみあっている画のよこに『直行挺身』という字があるのを見せ、正常位のことだと教えてくれたりする。また、中国語ではホテルのこと××酒店、レストランのことは△△酒家という習慣であるけれど、なぜそうなのかは誰にもわからないと教えてくれたりするのである。

 最近数年間、会えばきっと話になるけれどけっして解決を見ない話題がある。それは東京では冗談か世迷言と聞かれそうだが、ここでは痛切な主題である。白か黒か。右か左か。有か無か。あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す。しかも沈黙していることはならぬといわれて、どちらも選びたくなかった場合、どういって切りぬけたらよいかという問題である。二つの椅子があってどちらかにすわるがいい。どちらにすわってもいいが、二つの椅子のあいだにたつことはならぬというわけである。しかも相手は二つの椅子があるとほのめかしてはいるけれど、はじめから一つの椅子にすわることしか期待していない気配であって、もう一つの椅子を選んだらとたんに『シャアパ(殺せ)!』、『ターパ(打て)!』、『タータオ(打倒)!』と叫びだすとわかっている。こんな場合にどちらの椅子にもすわらずに、しかも少くともその場だけは相手を満足させる返答をしてまぬがれるとしたら、どんな返答をしたらいいのだろうか。史上にそういう例があるのではないだろうか。数千年間の治乱興亡にみちみちた中国史には、きっと何か、もだえぬいたあげく英知を発揮したものがいるのではないか。何かそんな例はないものか。名句はないものか。

 はじめてそう切りだしたのは私のほうからで、どこか裏町の小さな飲茶屋でシューマイを食べているときだった。いささか軽い口調で謎々のようないいかたをしたのだったが、張はぴくりと肩をふるわせ、たちまち苦渋のいろを眼に浮べた。彼はシューマイを食べかけたまま皿をよこによせ、タバコを一本ぬきだすと、鶏の骨のようにやせこけた指で大事そうに二度、三度撫でた。それからていねいに火をつけると深く吸いこみ、ゆるゆる煙を吐きながら、呟いた。

「馬でもないが虎でもないというやつですな。昔の中国人の挨拶にはマーマーフーフーというのがあった。字で書くと馬馬虎虎です。なかなかうまい表現で、馬虎主義と呼ばれたりしたもんですが、どうもそう答えたんではやられてしまいそうですね。あいまいなことをいってるようだけれど、あいまいであることをハッキリ宣言してるんですからね、これは。これじゃ、やられるな。まっさきにやられそうだ。どう答えたらいいのかな。厄介なことをいいだしましたな」

 つぎに会うときまでによく考えておいてほしいといってその場は別れたのだったが、張はつよい打撲をうけたような顔で考えこみ、動作がのろのろしていた。シューマイを食べかけたままほうってあるのでそのことをいうと、彼は苦笑して紙きれに何か書きつけ、食事のときにはこれが必要なんですといった。紙きれには『莫談国事』とあった。政治の議論をするなということであろう。私は何度も不注意を謝った。

 その後、一年おいて、二年おいて、ときには三年おいて、香港に立寄るたびに張と会い、散歩したり食事したりしながら——すっかり食事が終ってからときめたが——この命題をだしてみるのだが、いつも彼は頭をひねって考えこむか、苦笑するか、もうちょっと待ってくれというばかりだった。私は私で彼にたずねるだけで何の知恵も浮ばなかったから、謎は何年たっても謎のまま苛酷の顔つきの朦朧として漂っている。もしそんな妙手があるものとすればみんながみんな使いたがるだろうし、そういう状況は続発しつづけるばかりなのだから、そうなれば妙手はたちまち妙手でなくなる。だから、やっぱり謎のままでこれはのこるしかないのかもしれなかった。しかし、ときには、たとえば張があるとき老舎の話をしてくれたとき、何か強烈な暗示をうけたような気がした。ずっと以前のことになるが文学代表団の団長として老舎は日本を訪れたが、その帰途に香港に立寄ったことがある。張はある新聞にインタヴュー記事を書くようたのまれてホテルへでかけた。老舎は張に会うことは会ってくれたが、何も記事になるようなことは語ってくれなかった。革命後の知識人の生活はどうですかと、しつこくたずねたのだけれど、そのたびにはぐらかされた。あまりそれが度重なるので、張は、老舎はもう作家として衰退してしまったのではないかとさえ考えはじめた。ところがそのうちに老舎は田舎料理の話をはじめ、三時間にわたって滔々とよどみなく描写しつづけた。重慶か、成都か。どこかそのあたりの古い町には何百年と火を絶やしたことのない巨大な鉄釜があり、ネギ、白菜、芋、牛の頭、豚の足、何でもかでもかたっぱしからほうりこんでぐらぐらと煮たてる。客はそのまわりに群がって柄杓で汲みだし、椀に盛って食べ、料金は椀の数できめることになっている。ただそれだけのことを、老舎は、何を煮るか、どんな泡がたつか、汁はどんな味がするか、一人あたり何杯ぐらい食べられるものか、徹底的に、三時間にわたって微細、生彩をきわめて語り、語り終ると部屋に消えた。

「……何しろ突然のことでね。あれよあれよというすきもない。それはもうみごとなものでしたね。私は老舎の作品では『四世同堂』よりも『駱駝祥子』のほうを買ってるんですが、久しぶりに読みかえしたような気特になりました。あの『駱駝祥子』のヒリヒリするような辛辣と観察眼とユーモアですよ。すっかり堪能して感動してホテルを出ましたね。家へ帰っても寝て忘れてしまうのが惜しくて、酒を飲みましたな。焼酎のきついやつをね」

「記事にはしなかったの?」

「書くことは書きましたけれど、おざなりのおいしい言葉を並べただけです。よくわかりませんが老舎は私を信頼してあんな話をしてくれたように思ったもんですからね。それにこの話は新聞にのせるにはおいしすぎるということもあって」

張はやせこけた顔を皺だらけにして微笑した。私は剣の一閃を見るような思いにうたれたが、その鮮烈には哀切ともつかず痛憤ともつかぬ何事かのほとばしりがあった。うなだれさせられるようなものがあった。二つの椅子のあいだには抜道がないわけではないが、そのけわしさには息を呑まされるものがあるらしかった。イギリス人はこの事を“Between devils and deep blue sea ”(悪魔と青い深海のあいだ)と呼んでいるのではなかったか?……

「これは風呂屋ですよ。澡堂(そうどう)というのは銭湯のことです。ただ湯につかるだけではなく垢も落してくれるし、按摩もしてくれるし、足の皮も削ってくれるし、爪も切ってくれます。あなたは裸になって寝ころんでるだけでいいんです。眠くなれば好きなだけ眠ればいいんです。澡堂もいろいろですけれど、ここは仕事がていねいなので有名です。帰りには垢の玉をくれます。いい記念ですよ。一つどうです。布を三種類、硬いのやら柔らかいのやらとりかえて、手に巻いて、ゴシゴシやる。びっくりするほどの垢がでる。それをみんな集めて玉にしてくれる。面白いですよ」

 明日は東京へ発つという日の午後遅く、張と二人でぶらぶら散歩するうち、『天上澡堂』と看板をかけた家のまえを通りかかったとき、張がそういって足をとめた。私がうなずくと彼はガラス扉をおして入っていき、帳場にいた男にかけあってくれた。男は新聞をおいて張の話を聞き、私を見て微笑し、手招きした。張は用事があるのでこのまま失礼するがあすは空港まで見送りにいくといって、帰っていった。

 帳場の男は椅子からたちあがると、肩も腰もたくましい大男であった。手招きされるままについていくと、壁の荒れた、ほの暗い廊下を通って小さな個室につれこまれた。個室には簡素なシングル・ベッドが二つあり、一つのベッドに白いバス・タオルを巻きつけた客が俯伏せになって寝ていて、爪切屋らしい男が一本の足をかかえこんで、まるで馬の蹄を削るようにして踵の厚皮を削っていた。帳場の男が身ぶり手真似で教えるので私はポケットの財布、パスポート、時計などをつぎつぎと渡す。男はそれをうけとると、サイド・テーブルのひきだしにみんな入れ、古風で頑強な南京錠をかけた。その鍵は手ずれした組紐で男の腰のベルトにつながれている。安心しろという顔つきで男は微笑し、腰を二、三度かるくたたいてみせて出ていった。服やズボンをぬいで全裸になると、白衣を着た、慈姑のような、かわいい少年が入ってきて、バス・タオルを手早く背後から一枚、腰に巻きつけてくれ、もう一枚、肩にかけてくれる。手真似で誘われるままに個室を出ると、草履をつっかけてほの暗い廊下をいく。そこが浴室らしいが、べつの少年が待っていて、手早く私の体からバス・タオルを剥ぎとった。ガラス扉をおすと、ざらざらのコンクリートのたたきがあり、錆びた、大きなシャワーのノズルが壁からつきでていて、湯をほとばしらせている。それで体を洗う。

 浴槽は大きな長方形だが、ふちが幅一メートルはあろうかと思えるほど広くて、大きくて、どっしりとした大理石である。湯からあがった先客がそこにタオルを敷いてもらってオットセイのようにどたりとよこたわっている。全裸の三助が繃帯を巻きつけてその団々たる肉塊をゴシゴシこすっている。おずおずと湯につかると、それは熱くもなく、冷たくもなく、何人もの男たちの体で練りあげられたらしくどろんとして柔らかい。日本の銭湯のようにキリキリと刺しこんでくる鋭い熱さがない。ねっとり、とろりとした熱さと重さでたゆたっている。壁ぎわにたくましいのと、細いのと、二人の三助が手に繃帯を巻いて全裸でたち、私があがるのを待っている。たくましい男のそれがちんちくりんのカタツムリのように見え、やせた男のが長大で図太くて罪深い紫いろにふすぼけて見える。それは何百回、何千回の琢磨でこうなるのだろうかと思いたいような、実力ある人のものうさといった顔つきでどっしりと垂れている。嫉妬でいらいらするよりさきに思わず見とれてしまうような逸品であった。それを餓鬼のようにやせこけた、貧相な小男がぶらさげていて、男の顔には誇りも傲りもなく、ただ私が湯から這いあがってくるのをぼんやりと待っている。私が両手でかくしながら湯からあがると、男はさっとバス・タオルをひろげ、私に寝るように合図する。

 張がいったように垢すりの布は三種ある。一つは麻布のように硬くてゴワゴワし、これは腕や尻や背や足などをこする。ちょっと綿布のように柔らかいのは脇腹とか、腋とかをこするためである。もっとも柔らかいのはガーゼに似ているが、これは足のうらとか、股とか、そういった、敏感で柔らかいところをこするためである。要所要所によってその三種の布をいちいち巻きかえとりかえ、そのたびにまるで繃帯のようにしっかりと手に巻きつけてこするのである。手をとり、足をとり、ひっくりかえし、裏返し、表返し、男は熟練の技で、いささか手荒く、けれど芯はあくまでも柔らかくつつましやかにといったタッチでくまなくこする。しばらくすると、ホ、ホウと息をつく気配があり、口のなかでアイヤーと呟くのが聞えたので、薄く眼をあけてみると、私の全身は、腕といわず腹といわず、まるで小学生の消しゴムの屑みたいな、灰いろのもろもろで蔽われているのだった。男は熱意をおぼえたらしく、いよいよ力をこめてこすりはじめる。それはこするというよりは、むしろ、皮膚を一枚、手術としてでなく剥ぎとるような仕事であった。全身に密着した垢という皮膚をじわじわメリメリと剥ぎとるような仕事であった。男は面白がって、ひとりでホ、ホウ、アイヤーと呟きつつ、頭のほうへまわったり足の方へまわったりして丹念そのものの仕事にはげんでくれた。そのころにはもう私は羞恥をすべて失ってしまい、両手をまえからはなし、男が右手をこすれば右手を、左手をこすれば左手を、なすがままにまかせた。一度そうやってゆだねてしまうと、あとは泥に全身をまかせるようにのびのびしてくる。石鹸をまぶして洗い、それを湯で流し、もう一度浴槽に全身を浸し、あがってきたところで二杯、三杯、頭から湯を浴びせられ、火のかたまりのようなお紋りで全身をくまなく拭ってくれる。

「ハイ、これ」

 そんな口調でニコニコ笑いながら手に垢の玉をのせてくれた。灰いろのオカラの玉である。じっとり湿っているが固く固く固めてあって、ちょうど小さめのウズラの卵ぐらいあった。それだけ剥ぎとられてみると、全身の皮膚が赤ん坊のように柔らかく澄明で新鮮になり、細胞がことごとく新しい漿液をみたされて歓声あげて雀躍(こおど)りしているようであった。

 個室にもどってベッドにころがりこむと、かわいい少年が熱いジャスミン茶を持って入ってくる。寝ころんだままでそれをすすると一口ごとに全身から汗が吹きだしてくる。少年が新しいタオルを持ってきて優しく拭いてくれる。爪切屋が入ってきて足の爪、手の爪、踵の厚皮、魚の目などを道具をつぎつぎとりかえて削りとり、仕事が終ると黙って出ていく。入れかわりに按摩が入ってきて黙って仕事にかかる。強力で敏感な指と掌が全身をくまなく這いまわって、しこりの根や巣をさがしあて、圧したり、撫でたり、つねったり、叩いたりして散らしてしまう。どの男も丹念でしぶとく、精緻で徹底的な仕事をする。精力と時間を惜しむことなく傾注し、その重厚な繊細は無類であった。彼らの技にはどことなく重量級の選手が羽根のように軽く縄跳びをするようなところがある。涼しい靄が男の強靭な指から体内に注入され、私は重力を失って、とろとろと甘睡にとけこんでいく。

…………

カボチャ頭たちに奇態な教訓を読み取られないように(誤読されないように)次ぎのように引用しておこう。

学者や芸術家とつきあうときに、人はまったく逆の評価をしてしまいがちである。すぐれた学者を凡庸な人物だと思い込むことが多いしー、凡庸な芸術家をーきわめてすぐれた人物だと思い込んでしまうものだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』)
芸術家とは、その内的な感性の鋭さ故に政治に背を向けるのではない。内的な繊細さが要求されてもいないときに外的な鈍感さを装う、きわめて政治的な存在なのである。それはほかでもない、制度的に深く政治に加担する存在だということだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』p315
自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが、…… 同P461)