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2014年11月12日水曜日

きみは惜しむだろうか 季節が晩秋に向かって容赦なく流れ去るのを

きみは恥じるだろうか
ひそかに立ちのぼるおごりの冷感を

ぼくは惜しむだろうか
きみの姿勢に時がうごきはじめるのを

迫ろうとする 台風の眼のなかの接吻
あるいは 結晶するぼくたちの 絶望の
鋭く とうめいな視線のなかで


ーーー 清岡卓行「石膏」より 『氷った焔』所収(1959             


※Gustave Courbet L'origine du monde(ラカン所有の経緯について


いまさらクルーペの「世界の起源」でもないが、ラカンの「裂け目の光のなかに保留されているもの」(対象a)やら「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir aux haies de la jouissance]」やらの起源のひとつは、この根源的に開いた裂け目にあるには相違ない。


神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』著作集3 P350)





……案の定! いったん畑の平面へ降りてから風呂の焚き口へ登る、小石を積んだ短い段々の中ほどに、そこで立ちどまれば顔の高さに、こちらへゆるくかたむいた50センチ×30センチの薄暗いガラスのスクリーンが風呂場の板壁を壊してとりつけられているのだ。剥がした羽目板や新しい角材の残りと大工道具が、物置の脇にたてかけられていた。僕らが並んで位置につくやいなや、僕らの頭をまたいで前へ出る具合に向うむきの若い娘ふたりの下半身が、かしいだスクリーンに現れた。

――この角度がな、Kちゃん、女をもっとも動物的に見せるよ、とギー兄さんは解説した……(大江健三郎『懐かしい年への手紙』




根源的に開いた裂け目について考えるさい、それが子どもと<母>の近親相姦的な二者関係結実を阻止するべく、子どもを象徴的去勢/隔離の次元へと追いこむ、父権的な<法>/<禁止>の干渉からもたらされた産物と理解する安直は退けなければなるまい。この裂け目、「バラバラに寸断された身体」という経験は、あらゆる物事に先だって存在しているのだ。それは死への衝動が産み落としたもの、快楽原則の円滑な運用を停止させる何らかの過剰/トラウマ的な享楽が侵入した結果の所産であり、そして父権的な<法>は――鏡像との想像的同一化とは異なり ――この裂け目を飼い慣らし/安定化する試みのひとつなのである。忘れてはならないのは、ラカンにとって<エディプス>的な父親の<法>とは、突き詰めれば「快楽原則」に服し、それに資するためだけに存在している点である。(ジジェク『厄介なる主体』)


Robert Mapplethorpe

予は節子以外の女を恋しいと思ったことはある。他の女と寝てみたいと思ったこともある。現に節子と寝ていながらそう思ったこともある。そして予は寝た――他の女と寝た。しかしそれは節子と何の関係がある? 予は節子に不満足だったのではない。人の欲望が単一でないだけだ。(……)

余は 女のまたに手を入れて、手あらく その陰部をかきまわした。しまいには 5本の指を入れて できるだけ強くおした。・・・ ついに 手は手くびまで入った (啄木のローマ字日記

「吾れはあく迄愛の永遠性なると云ふ事を信じ度候。」(節子)

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から“彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの”、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私訳)

すなわち、世界の起源の「裂け目の光のなかに保留されているもの」が、結婚によって消え去ってしまう。じっくり観察してしまえばなおさらである。


荒木経惟



Méry, l'an pareil en sa course
Allume ici le même été
Mais toi, tu rajeunis la source
Où va boire ton pied fêté.

メリよ、年はひとしく運行を続けて
いまここで、同じ夏を燃え立たせる
しかし、君は泉を若返らせて
祝福される君の足がそこへ水を飲みに行く

ーーーマラルメのメリへの誕生祝の四行詩(愛人メリ・ローランの47回目の誕生日1886 保苅瑞穂訳)


Mery Laurent(マネの愛人、その後、マラルメの愛人)


若かりし世界の起源の持ち主も
年は流れる川と同じ運行を続けて
夏の終りへ向かって容赦なく流れ去る
晩夏もたちまちにして過ぎ去り
楚々として秋は来る
北風に苛らだち西風に雨を感知して
日に日に地表はむくつけきい容貌と変つてくる
ああ母の如くも優しく美しい季節よ! 
いまだ火のない暖炉の中から蟋蟀の細い寂しい唄が聞えてくる


Stéphane Mallarmé et Mery Laurent (1896) par Nadar