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2014年11月8日土曜日

グールドのシューベルト

◆Schubert - Symphony No.5, 1st. mov - Glenn Gould




◆Claudio Abbado "Symphony No 5 (1. Mov.)" Schubert





交響曲はめったに聴かないのだけれど、唯一思いついたように聴くのはシューベルと第ハ長調D. 944。長い間ウィーンフィルのベームで聴いていたのだけれど、アバドもいい。

《ここには、何よりも歓喜がある。いや正直いうと、私は、ほとんど、ここには、終わることのない歓びの泉からじかに水をのんだ記憶となって残るものがあると書きたいところなのだ》(吉田秀和)

ーーこれは第9番の交響曲の第一楽章アンダンテをめぐって書かれた文なのだが、グールドの演奏する5番の冒頭についてもしかり(グールドはシャイ・ミュージックなどと言っているが)。デモーニッシュな作曲家といわれるシューベルトだが、ときに類なれな歓喜を与えてくれるときがある。

《悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。》(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)

◆Schubert Symphony No 9 C major The Great Chamber Orchestra Of Europe Abbado



2楽章のアンダンテ・コン・モトについては、このように書かれる。

このアンダンテはリズムと旋律と和声との宝庫である。そうして、ここに登場する楽器たちの、作曲家の手で書きつけられた役割を演じているというよりも、自分で選びとって生きているような動きの素晴らしさ。三つの主題的な旋律が、めんどうな手続きも回り道もせず、つぎつぎと隣接しながら登場しおわったあと(それはイ短調の楽章の最初のヘ長調の部分の終わったところに当るのだが)、弦楽器がppから、さらに、dim.、dim.と小さく、小さく息を殺していって、そっと和音をならす、その和音の柱の中間に、小節の弱拍ごとに、ホルンがg音を8回鳴らしたあと、9回目に、静かに微妙なクレッシェンドをはさあみながらf音を経てe音までおりてくる。(吉田秀和『私の好きな曲』)




シューマンが『全楽器が息をのんで沈黙している間を、ホルンが天の使いのようにおりてくる』とよんだのは、ここである。これは、音楽の歴史の中でも、本当にまれにしかおこらなかった至高の「静けさ」の瞬間である。

至高の「静けさ」の瞬間は約22分あたりから(約20分あたりから聴くといい、オーケストラの団員たちがその至福の瞬間へ向かう準備をしているような表情をしている気がしてくるから) 。


グールドの庭に面した空間でのくつろいだ喜び溢れるシューベルトを聴いたなら、三人の巨匠による次ぎの映像もいい。