アメリカではもはや、男性だけでは家計を支えられず、夫婦共働きが当たり前になってしまった。平均年間労働時間が2200時間を超えて、日本人よりも長くなった。
1979年と比較すると、標準的なアメリカ人家庭では年間500時間、12週分も余計に働くようになった。(橘玲 『(日本人)』)
ーーという記述を読んで、意想外であったので、すこし調べてみたが、探し方が悪いのかーーそれほど熱心には探してはいないがーー、次の図表程度のものにしかいまのところ当らない。
Working hours |
だがこの図表にても、2012年時点では、アメリカは日本より労働時間がやや長くなっているには違いない。もっとも統計の取り方(たとえば日本のサービス残業などの悪癖)はどう考慮されているのかは定かではない。
橘玲氏の文章を拾ったのは、次の理由による。
…………
「いまの痛みか vs 近い将来のより大きな痛みか」補遺(「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会より)。
ジェームス・ブキャナンは「民主政国家は債務の膨張を止めることはできない」という論理的な帰結を1960年代に導き出した。政治家は当選のために有権者にお金をばらまこうとし、官僚は権限を拡大するために予算を求め、有権者は投票と引き換えに実利を要求するからだ。
このような説 明は、ほとんどの人にとって不愉快きわまりないものにちがいない。だが 現実には、日本国の借金は膨張をつづけ、ついには1000兆円という人 類史上未曽有の額になってしまった。ブキャナンの「公共選択の理論」は、 この事実を見事に説明する。そしてこれまで誰も、国家債務が膨張する 理由について、これ以上シンプルな説明をすることができないのだ。(橘玲『(日本人)』)
橘玲氏はやや際物めいたところのある経済小説家だという評判もあるのだが、上のような比較的由緒正しい研究会での発表資料のなかにも引用されているようだ。わたくしも「アベノミクスの博打」で橘玲氏のよる「20XX年ニッポンの国債暴落」を引用したことがある。
この橘玲を引用する角間和男氏(現 野村アセットマネジメント)をめぐっては次の通り。
債券の取引はほとんどが店頭市場で行われ、主たる取引参加者が少数のプロの投資家に限定されているので、株式市場と比較してその実態が外部者にはわかりにくい。今回の研究会では、主として調査分析を中心に長年にわたり日本国債市場において仕事を続けてこられた角間和男氏(現 野村アセットマネジメント)に「日本の国債市場と投資家行動」というタイトルで国債市場の「内部者」の立場から報告をしていただいた。
政府債務の膨張と予想インフレ率上昇を背景に国債暴落を懸念する人は多い。一方で、長期金利にはむしろ低下圧力がかかり、史上最低水準にある。両者の不整合性の原因と持続性について考える材料を提供していただきたいというのが研究会メンバーから角間氏にお願いしたことである。
日本の財政状況は、たしかに数字の上では危機的な状況にあるが、国債の保有構造特性から直ちに危機が表面化する可能性は低いと市場は見ている、というのが角間氏の見方である。ほぼ国内で閉じた資金循環の中で、国債を買い支えているのは実質的には家計の金融資産であり、こうした家計金融資産保有特性が金融機関の投資行動に反映され、長期金利は上昇しにくい構図ある。影響が大きいのが銀行、保険、年金を経由した資金の流れで、これに最近の日銀を経由した流れが加わり、これらのチャネルで国債に伴う金利リスクの大部分が負担されている。日銀の金融政策が今後も最大の相場変動要因だが、日銀のオペ以外では、近年影響力が強くなっているのが生命保険である。その負債特性の変化を含めて生命保険の今後の動向は要注意である、という指摘がなされたのが注目される。
研究会における今後の議論の参考になる様々なソースからの広範なデータに基づく分析をしていただいた角間氏に感謝したい。
角間氏の報告用ファイルは以下からダウンロードできる。
・角間和男「日本の国債市場と投資家行動」
角間氏による「日本の国債市場と投資家行動」の充実した資料から、他の論者によっても比較的よく語られる「一般会計を家計に喩えると」の頁を抜き出しておこう。
角間氏の試算によれば、3.5%成長かつ収支改善の20年後でさえ、日本の家計は現在のローン残高7800万円から1億1964万円と120%となっている。
いずれにせよブキャナンの言明は実践的には圧倒的に正しいのだろう。そしてくり返せば、リスクは第一にデフレ、第二に金利上昇、第三にばらまき財政とあるように、いま第一のリスクは黒田日銀がギャンブルをやって対応しようとしているわけで、そのとき第二のリスクがどうなるかであろう。
※附記:橘玲 『(日本人)』より。
日本がグローバルスタンダードの国に生まれ変わることはものすごく難しい。それは日本の社会に<他者>がいないからだ。グローバル空間とは、包摂できない<他者>と共存せざるを得ない世界のことだ。
日本にも在日朝鮮・韓国人のような人たちがいるが、日本社会は彼らを「日本人」として包摂するか、存在を無視するかしてローカルルールを変えずに対応してきた。
ほとんどの組織が日系日本人で構成されているかぎりはグローバルになる理由はどこにもない。