たとえばこういうことがある。このインドシナの土地では、いま雨季から乾季の変わり目で、これから一ヶ月ほどが一年のうちでもっとも気温が低くなる。とはいえ日中はあいかわらずTシャツと短パンですみ、ただ早朝バイクで走ればウィンドブレーカーが必要となる程度の気温だが。
朝、やや寝過ごしたある日、目が覚めて二階の書斎兼寝室の窓を開ける。室内の気温は当地には珍しく肌寒くなっており、窓を開けた瞬間、日に温められた外気のもわっとした懐かしい感覚に襲われる。このとてつもない懐かしさの快感はどこから生じるのだろうかとしばらく茫然としているのだが、それは、なにかがふとよみがえって、よく耳を傾けてきこう、楽譜にしてみようとつとめる歌のふしに似ている。そうしてしばらくすると、その歌のふしは、日本の五月の初めから五月の半ばにかけての外気を吸ったときの感覚であることがわかってくる。この感覚が訪れるのは一年のうちこの季節だけなのだが、今年もつい先日それにめぐり合った。
三十歳前後、京都の松尾近くに住んでおり、五月にはしばしば自転車で桂川べりをのぼり、嵐山や嵯峨野方面をめぐった。あの窓を開けたときの感覚は、たとえば嵯峨野の大覚寺横の大沢池をさらに東に向かったところにあるれんげ畑をみやったときの快感をも想起させてくれる。
このあたりはと豆腐の老舗森嘉もあり、朝早く行かないと売り切れてしまうので、早朝、季節がよければ自転車で買いに行ったのだが、その豆腐の味まで憶い出す。お揚げさんがことさら美味だった。
もっともこの日本の初夏の感覚は窓からの外気でないこともある。一昨年の十一月十四日の日記にはこう書いている。
朝、やや寝過ごしたある日、目が覚めて二階の書斎兼寝室の窓を開ける。室内の気温は当地には珍しく肌寒くなっており、窓を開けた瞬間、日に温められた外気のもわっとした懐かしい感覚に襲われる。このとてつもない懐かしさの快感はどこから生じるのだろうかとしばらく茫然としているのだが、それは、なにかがふとよみがえって、よく耳を傾けてきこう、楽譜にしてみようとつとめる歌のふしに似ている。そうしてしばらくすると、その歌のふしは、日本の五月の初めから五月の半ばにかけての外気を吸ったときの感覚であることがわかってくる。この感覚が訪れるのは一年のうちこの季節だけなのだが、今年もつい先日それにめぐり合った。
三十歳前後、京都の松尾近くに住んでおり、五月にはしばしば自転車で桂川べりをのぼり、嵐山や嵯峨野方面をめぐった。あの窓を開けたときの感覚は、たとえば嵯峨野の大覚寺横の大沢池をさらに東に向かったところにあるれんげ畑をみやったときの快感をも想起させてくれる。
このあたりはと豆腐の老舗森嘉もあり、朝早く行かないと売り切れてしまうので、早朝、季節がよければ自転車で買いに行ったのだが、その豆腐の味まで憶い出す。お揚げさんがことさら美味だった。
もっともこの日本の初夏の感覚は窓からの外気でないこともある。一昨年の十一月十四日の日記にはこう書いている。
「ようやく乾季の訪れか。台所のテーブルに坐って珈琲を啜りつつ開け放たれた窓のむこうの前庭をぼんやり見やれば、花崗岩で組まれた塀のでこぼこした表に、細かく拡がった梢の末の翳を柔らかく描くのは、少し前とは違っておだやかで懐かしい陽射しだ。かすかな風にゆらぐその梢の模様とこがね色の陽光は粘つかず、さらさらと、……《小石ばかりの、河原があって、/それに陽は、さらさらと/さらさらと射しているのでありました》(中也)」
だがこの冷気と暖気、光と影、浮彫と省略、回想と忘却の強い快感を翌日も味わおうとして、朝、窓を開けても、もう前日の快感ほどのものはなくなっている。一年ぶりの感覚の新鮮さがもう翌日その鮮烈さを失ったということもあるだろうが、もっと本質的には、わたくしの構えが、プルーストのいう無意志的なもの/積極的意志の二項対立の後者になってしまっていることによる。
それというのも、フォークの音とかマドレーヌの味とかのような種類の無意識的記憶であれ、私が頭のなかでその意味を求めようと試みていた形象――鐘塔、雑草といった形象が、私の頭のなかで、複雑な、花咲き乱れた、ある魔法の書〔グリモワール〕を編んでいたーーそんな形象のたすけを借りて書かれるあの真実であれ、それらのものの第一の特徴は、私が勝手にそれらを選びだしたのではないということであり、それらがありのままの姿で私にあたえられたということであったからだ。また、それこそが、それらのものの真性証明〔オータンテイシテ〕の極印になるのだと私に感じられた。私は中庭の不揃いな二つの敷石をさがしに行ってそこで足をぶつけたわけではなかった。そうではなくて、不可避的に、偶然に、感覚の出会がおこなわれたという、まさにそのことこそ、その感覚がよみがえらせた過去とその感覚がさそいだした映像との真実に、検印をおすものであった、その証拠に、われわれはあかるい光に向かってあがってこようとするその感覚の努力を感じるのであり、ふたたび見出された現実というもののよろこびを感じるわけなのだ。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳 文庫P336)
これは無意識的記憶(無意志的記憶)にかかわる文だが、積極的意志とはプルーストによって「理知」とも書かれる。
また人生が、あるときはじつに美しいものに見えても、結局つまらないもおと判断されたのだったとしたら、そのつまらなさというのは、人生それ自身とはまったくべつのものによって、人生を何一つふくんでいない映像によって、人生を判断し、人生を貶めているからであることを理解するのであった。そしてそれに付随してやっと私が気づいたのは、ざっとこういうことだった、現実の真の印象の一つ一つのあいだをへだてている相違はーー人生の型にはまった一様な描写がとうてい真のものに似るはずがないのは、このたがいの相違によって説明されるんだがーーたぶんつぎのような原因によるのだ、すなわち、われわれが人生のある時期にいったきわめてわずかな言葉とか、ある時期にやったきわめて些細な身振とかは、論理的にすこしもそれとは関係がない諸物にとりかこまれ、その諸物の反映を受けていたが、それらの物を言葉、身振から切りはなしてしまったのは理知で、そうなった以上、理知は、われわれが推理を必要とする場合がきても、それらの物をどこにつなぐこともできなかったのだ。ところが、それらのさまざまな物のまんなかにはーーここには、田舎のレストランの花咲く壁面のばら色の夕映とか、空腹感とか、女たちへの欲望とか、ぜいたくへの快楽とががあり、かしこには、水の女精たちの肩のようにちらちらと水面に浮かびでる楽節の断片をつつみこむ朝の海の青い波の渦巻があるというふうにーーこの上もなく単純な身振や行為が、密封した千の瓶のなかにとじこめられたようになって残っており、その瓶の一つ一つには、絶対に他とは異なる色や匂や気温をふくむものが、いっぱいに詰っているだろう、いうまでもなく、それらの瓶は、われわれが単に夢によってであれ思考によってであれ、たえず変化することをやめないで過ぎてきたその年月順に配列されているのであり、また種々さまざまな高度に位置していて、われわれにきわめて多種多様な雰囲気の感覚をあたえるというわけなのだ。むろんそういう諸変化をわれわれは知らずのうちになしとげただろう。それにしても、突然われわれにもどってくる回想と、われわれの現状とのあいだには、異なる年月、場所、時間の、二つの回想のあいだにおいても同様だが、非常な距離がある、したがって、両者に特有の独自性を問題外にしても、その距離の点だけで、それぞれをたがいに比較できなくするに十分だろう。そうなのだ、回想は、忘却のおかげで、それ自身と現在の瞬間とのあいだに、なんの関係をむすぶことも、どんな鎖の輪を投げることもできなかった、回想は自分の場所、自分の日付にとどまったままだった、回想はいつまでもある谷間の窪道に、ある峰の尖端に、その距離、その孤立を保ってきた、というのが事実であるにしても、その回想が、突然われわれにある新しい空気を吸わせるというわけは、その空気こそまさしくわれわれがかつて吸ったある空気だからなのである。そうした一段と純粋な空気こそ、詩人たちが楽園にみなぎらせようと空しく試みたものであり、その空気は、すでに過去において吸われたことがあって、はじめて、あのように深い再生の感覚をあたえることができるのであろう、けだし、真の楽園とは、人がひとたび失った楽園なのだ。(プルースト『見出された時』P320-321)
この「積極的意志/無意志的なもの」は、昨日も書いたが、プルースト=ドゥルーズによって、《観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛、会話/沈黙した解釈》などと言い換えられる。
これらの、「友情/恋愛、会話/沈黙した解釈」の現象のあらわれとして読むことができる小林秀雄の「富永太郎の思ひ出」という短文がある。これも昨年の11月15日の日記にあり、この乾季のおけるプルースト的レミニサンス(無意志的記憶)の時が垂直に立ち上がる刻限の茫然自失から立ち直った後に書かれた文である。
記憶とは、過去を刻々に変へて行く策略めいた或る能力である。富永が死んだ年、僕は彼を悼む文章を書いたが、今それを読んでみて、当時は確かに僕の裡に生きてゐた様々な観念が、既に今は死んで了つてゐる事を確めた。そして、自分は当時、本当に富永の死を悼んでゐたのだらうか、といふ答へのない疑問に苦しむ。
これはまずは次のようなことを言っているはずだ。
(一般に)過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)
しかし続いてある次の文の、
・《発熱で上気した頬の上部に黒い大きな隈が出来てゐて、それが僕をハッとさせた。強い不吉な印象であつた。》
・《死は殆ど足音を立てて彼に近付いてゐた。その確かな形を前にしながら、僕は何故、それを瞥見するに止めたのだらうか。其他これに類する強い印象を、彼の姿態から折に触れ、間違ひなく感受し乍ら、何故、それが当時も僕の心のなかで、然るべき場所を占めなかつたのであらうか。》
――これを読むと、《然るべき場所を占めなかつた》のは友情のせいじゃないかと読む(誤読)ことができるように思う。
彼の死んだ年の或る暑い真昼、僕は彼の家を訪ねた。彼は床の上に長々と腹這ひになつて鰻の弁当を食べてゐた。縁側から這入つて行く僕の方を向き、彼は笑つたが、発熱で上気した頬の上部に黒い大きな隈が出来てゐて、それが僕をハッとさせた。強い不吉な印象であつた。彼は最近書いたと言つて、小さな紙切れに鉛筆で走り書きしたものを見せた。"au Rimbaud"といふ詩だつた。彼は、目をつぶつたまゝ"Parmi les flots : les martyrs!"と呟いた。僕は紙切れを手にして、どんな空想を喋つたか、もう少しも覚えてゐない。だが、たつた今僕を驚かせた彼の顔を、もう少しも見てはゐなかつた事は確かである。死は殆ど足音を立てて彼に近付いてゐた。その確かな形を前にしながら、僕は何故、それを瞥見するに止めたのだらうか。其他これに類する強い印象を、彼の姿態から折に触れ、間違ひなく感受し乍ら、何故、それが当時も僕の心のなかで、然るべき場所を占めなかつたのであらうか。それはどんな空想のした業だつたのだらうか。彼が死んだ時に、僕は京橋の病院にゐて手術の苦痛以外に何も考へてはゐなかつた。間もなく僕はいろいろな事を思ひ知らねばならなかつた、とりわけ自分が人生の入り口に立つてゐた事に就いて。
富永の霊よ、安かれ、僕は再び君に就いて書く事はあるまいと思ふ。(1941年1月、筑摩書房『富永太郎詩集』)
富永の顔に現われた「黒い大きな隈」、そのシーニュを読みとる小林秀雄は、《観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛、会話/沈黙した解釈》における二分法の後者、「感受性=愛」の小林秀雄だったのだが、たちまち「おしゃべりな友人同士のコミュニケーション」によって、前者の「観察=友情」の構えになってしまったのだ。
真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらく創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密の圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』p199)
小林秀雄は、話相手にあらわれた己れの「感受性」、「沈黙した解釈」を促すシーニュ(黒い大きな隈)を捨て去り、友情による「会話」、「観察」に移ってしまったのではないだろうか。すくなくとも、わたくしはそう読んでみたい誘惑にかられる。
《彼の姿態から折に触れ、間違ひなく感受し乍ら、何故、それが当時も僕の心のなかで、然るべき場所を占めなかつた》