◆カール・リヒター1958(Münchener Bach-Orchester, Karl Richter, Münchener Bach-Chor, Münchner C - Matthäuspassion)
ーー少年の頃マタイにめぐり合って先ずは最初にひどく惹かれたのは、上の二つのコラールだったな。「血しおしたたる」なんて、中学生2年生のとき、スコアに音を拾って、ピアノで弾いてみるなどということもしたから。
上の第62曲と63Bの箇所が含まれるKoopmanのーー彼の指揮するカンタータはいまではリヒターより好む作品もあるのだけれどーーこのは、やはり失望してしまう(高校生のとき最初に生演奏で聴いたシェリング指揮も同様で、がっかりした)。
要するにこのあたりのことは浅田彰がほぼ完璧に指摘している。カラヤンの世代ーーまあオレは交響曲をたいして聴かないほうだから、カラヤンに嵌っていたわけではないがーーそうはいっても「聴取の退化」の世代として育ったからな。
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マタイ受難曲に調性を変えてくり返し要所にでてくるコラール「血しおしたたる」(O Haupt voll Blut und Wunden」をフィリップ・ヘレヴェッヘ(Philippe Herreweghe)の指揮にてまとめたものがある。
ーー少年の頃マタイにめぐり合って先ずは最初にひどく惹かれたのは、上の二つのコラールだったな。「血しおしたたる」なんて、中学生2年生のとき、スコアに音を拾って、ピアノで弾いてみるなどということもしたから。
上の第62曲と63Bの箇所が含まれるKoopmanのーー彼の指揮するカンタータはいまではリヒターより好む作品もあるのだけれどーーこのは、やはり失望してしまう(高校生のとき最初に生演奏で聴いたシェリング指揮も同様で、がっかりした)。
要するにこのあたりのことは浅田彰がほぼ完璧に指摘している。カラヤンの世代ーーまあオレは交響曲をたいして聴かないほうだから、カラヤンに嵌っていたわけではないがーーそうはいっても「聴取の退化」の世代として育ったからな。
当時、レオンハルトやアルノンクールがやり始めたのは、厳密な校訂を通じてバッハならバッハの元の楽譜をできるだけオリジナルに近い形で復元し、徹底的に研究した上で、当時の楽器、あるいはできるだけそれに近いものを使って、19世紀ロマン派以後に広まった妙な感情移入やドラマティックな演出(とくにテンポの伸縮)なしにザッハリッヒ(即物的)に演奏するということです。いわゆるピリオド楽器によるオーセンティックな奏法ですね。それが対立しているのは、ヴァーグナーから(指揮者だと)フルトヴェングラーを通じてカラヤンに至るようなロマン主義的な演奏のスタイル、どんな音楽でもヴァーグナーのように巨大なオーケストラを使ってドラマティックに演奏してしまうスタイルです。カラヤンに至ると、縦の線をほとんど無視してテンポを主観的に伸縮させながら音楽を流線型の華麗な流れと化し、半強制的な感情移入によって聴衆をそのなかに引きずり込んでいく、というようになる。ある種、ファシズム的な美学ですね。それは言い過ぎだといても、後期資本主義社会における「聴取の退化」(アドルノ)の典型です。それに対して「ノン」と言ったのがレオンハルトやアルノンクールといった人たちだった(古楽でも、カール・リヒターらの演奏は、むろんカラヤンとは違うとはいえ、どこかそれに通じる壮麗なドラマとして演出されていたので、それに対比しても彼らの新しさは明らかです)。要するに、大オーケストラや大コーラスはやめる。そもそもバッハの時代は10人、20人でやっていたのだから、それでいいではないか。縦の線を重視し、むしろ機械的なくらい速めで一定のテンポを保つ。強弱も、連続的なグラデーションで変化させるより、むしろ機械的に強弱を対立させる。ヴィブラートによる表情豊かな表現を排し、できるだけノンヴィブラートであっさり弾く。このように、カラヤンに極まるような、流線型の巨大なオーケストラ音楽で共同体の感情移入を誘うという方向に対し、むしろそれを異化する。ザッハリッヒに、言い換えれば風通しよくドライにいくというのが、この時代に始まったことです。これは古楽で始まったわけですが、アルノンクールなどの場合、その後モーツァルトやベートーヴェン、さらにはロマン派でもそういう形でやってみたらどうかということになってくる。60年代はマイナーだったのが、いまやメジャー化したとは言わないまでもずいぶん一般化してきた。実をいえば、昔の楽器や奏法をどんなに研究しても、録音はないんだし、当時本当にどんな演奏が行なわれていたかはわからないんで、僕なんかはピリオド楽器によるオーセンティックな奏法と称するものの流行がちょっと行き過ぎているんじゃないかと思ったりもする。それこそゴダール的に、たんに音楽があるので、正しい音楽なんてない、と言いたくなったりもする。ともあれ、それくらい、正しい音楽を可能なかぎり歴史的研究で裏付けて演奏しよう、ロマン派の時代にこびりついた余分な化粧は削ぎ落とそうという動きは、古楽の枠をこえて、かなり一般的になってきているんですね。(ちなみに、古楽的なアプローチではなく、現代のオーケストラを使った演奏でも、ストローブ=ユイレのシェーンベルクのシリーズで指揮者を勤めているギーレン[シェーンベルクの女婿のノーノから推薦された]などは、カラヤン的な演奏とはまったく違う、非情なまでにザッハリッヒな演奏スタイルを貫いてきました。ベルリンで彼がアドルノの小品とベルクのヴァイオリン協奏曲を振るのを聴いたことがあるのですが、後半のシューベルトの第8交響曲は、フルトヴェングラーの演奏だと「天国のように長い」はずが、その1.5倍はあるんじゃないかと思われる超高速でさーっと演奏され、さすがに唖然とさせられたものです。)(講演「ダニエル・ユイレ追悼――ストローブ=ユイレの軌跡 1962-2006」2006年12月9日 浅田彰ーー「カール・リヒターとメランコリー」)
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マタイ受難曲に調性を変えてくり返し要所にでてくるコラール「血しおしたたる」(O Haupt voll Blut und Wunden」をフィリップ・ヘレヴェッヘ(Philippe Herreweghe)の指揮にてまとめたものがある。
◆血しお したたるの日本語版(O Haupt Voll Blut Und Wunden:Bach BWV244 Japanese ver.)
《昨日はマタイ受難曲を全部聴いたんだよ。いやぁバッハはすごいね。僕らはクリスチャンじゃないけどなんなんだろう……》(武満徹 1996年2月19日)
※武満 徹(1930年10月8日 - 1996年2月20日)
ーーマタイなんて体力衰えているとき(あるいは老いてきたら)、集中して全曲なんて聴かないほうがいいぜ、ボロボロになって、クタバっちまうから。
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ナウモフは少年のまま初老になったような男だ。夢中になった曲は、少年のときには誰しもこのように思い入れたっぷりに演奏してみるものだ。それに好悪はあるだろう。わたくしは彼の平均律のいくつかはほとんど聴くに耐えない(今のところ?)。だがコラールのたぐいは許す、許してしまう、いやこれでいいのだ、と思う。
※「Nadia Boulanger teaching Emile Naoumoff age 10」の映像はグールドを撮り続けたBruno Monsaingeonによる映像作品。
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ナウモフは少年のまま初老になったような男だ。夢中になった曲は、少年のときには誰しもこのように思い入れたっぷりに演奏してみるものだ。それに好悪はあるだろう。わたくしは彼の平均律のいくつかはほとんど聴くに耐えない(今のところ?)。だがコラールのたぐいは許す、許してしまう、いやこれでいいのだ、と思う。
Nadia Boulanger en Emile Naoumoff (Bruno Monsaingeon) |
※「Nadia Boulanger teaching Emile Naoumoff age 10」の映像はグールドを撮り続けたBruno Monsaingeonによる映像作品。
◆Naoumoff plays his own piano transcription of Bach's organ Choral Prelude Herzlich thut mich verlangen BWV 727
Emile Naoumoff plays Bach on Organ in Jeu de Paume, Fontainebleau 1972などというものもある。ナウモフは1962年生まれであり、当時10歳ということになる。
ーーこんなフルニエのスタイルでも、いまの人は許せないのかもなあ。カール・リヒターがアルヒーフでレコード出していたのと同じように、フルニエもアルヒーフだったから、バッハのチェロ曲は、最初にフルニエで聴いたんだけど。