◆Richter plays Bach: WTC1 No. 17 BWV 862 Fugue
◆Edwin Fischer: Das Wohltemperierte Klavier, Book I BWV 862 (Bach)
ーープレリュードも含む。
そしてエミール・ナウモフによるフーガ。
◆Naoumoff plays Bach's fugue in A flat major from WTC 1
ーーさてどの演奏がお気に入りかどうかはどうでもよろしい。このフーガはすばらしい。シューマンが調性を短調にかえて見事にパクったことは、知る人ぞ知るである。
バッハ、フォーレへの執拗な愛、そして幼い頃からの教師であったナディア・ブーランジュNadia Boulanger(彼女はフォーレの生徒だった)へのノスタルジックな愛溢れる自作ワルツをママ・ナディアに捧げるなど(Valse pour Nadia for piano four hands)、いかにもおたく風のエミール・ナウモフであるが、次のようにマエストロ然としてシューマンを弾くNaoumoffもいる。
ナウモフよ、きみはこんな華麗な曲を無理してやる必要はないのではないか? とはいえシューマンだから許しちゃうが。でもこんな別な世界からやってきたような演奏があるからな→ Schumann - Carnaval op.9 - Michelangeli Lugano 1973ーーでも聴いてると、泣けるところいっぱいあるな……第18曲のAveuもいけるな、ピアニッシモの大家と呼ぶべきかーー、きみに惚れてるからな、オレ。
しかしこれに勝てるつもりかい?
どうせシューマンやるなら最晩年のOP.133やってくれないかな。〈母〉なるものへの愛のひとロラン・バルトが最も好んだ曲のひとつシューマンの最晩年の狂気直前に作った暁の歌を。どうもこれといった演奏に当らないから。マエストロ・ナウモフだったら、OP.133いけるんじゃないか、OP.9の第5曲Eusebius.でやった感じでさ。
ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意志的記憶によって、初めて、祖母の生き生きした実在を見出した》のである。シュヌヴィエール=シュル=マルヌの町の名も知れぬ写真家が、自分の母親(あるいは、よくわからないが、自分の妻)の世にも見事な一枚の写真を遺したナダールと同じように、真実の媒介者となったのだ。その写真家は、職業上の義務を超える写真を撮ったのであり、その写真は、写真の技術的実体)から当然期待しうる以上のものをとらえていたのだ。さらに言うなら(というのも、私はその真実が何であるかを言おうとつとめているのだから、この「温室の写真」は、私にとって、シューマンが発狂する前に書いた最後の楽曲、あの『朝の歌』(暁の歌)の第一曲のようなものだった。それは母の実体とも一致するし、また、母の死を悼む私の悲しみとも一致する。この一致について語るためには、形容詞を無限に連ねていくしかないだろう。…(ロラン・バルト『明るい部屋』)