まえに一度「ジジェクの例え話がしばしばわからなくなる件について」というエントリーを読んで唖然としたことがあるがね、ジジェクの最も基本的な書き物のひとつの分かりやすい例が読めないとはね。リンクはやめとくよ、莫迦にして営業妨害するつもりはないのでね。
「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄=菊池寛)ってヤツだなあ、あれ。
まあ世間はほとんどそんなヤツばかりだってことはあるがね、オレもある分野では似たようなもんさ。
たとえばこれ以前のブログで書いて、そのブログ全部削除してしまったけど、こんな具合さ。
…………
まず、松岡正剛のロラン・バルト『テクストの快楽』の書評の冒頭より
そしてロラン・バルトの『テクストの快楽』(沢崎浩平訳 みすず書房 P18ー24より)
松岡正剛氏は高校生の夢をアドレッサンスの夢としている。これは問題ない。
だが、バルトを読むとわかるように、「<高校生の夢>、あるいは、ストーリーの結末をしりたいという<ロマネスクな満足>」の文にある「あるいは」は「or」であるはずだ。
人の欲望は、セックスを視たいというアドレッサンスな夢と、物語の結末を知りたいというロマネスクな夢とに代表される。そのほかのすべての夢はこの二つの夢の代換物だ。水平に溺れたいのか、垂直に大騒ぎしたいのか、それだけだ。
なぜなら読書行為はアドレッサンスであるか、ロマネスクであるか、結局はそのどちらかなのだ。読者はその選択の自由をもっているし、多くの忘れがたい読書はそのように成立してきたはずである。
身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出である。
それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
二つの読み方が生ずる。一つは一気に逸話の関節に向かい、テクストの広がりを見渡すが、言語活動の遊びを知らない(シュール・ヴェルヌを読むとき、私は先を急ぐ。ところどころ話の流れを見失う。しかし、私の読書は言語の覆流水―――洞穴学において持ち得る意味で―――によって魅せられることはない)。もう一つの読み方は何もとばさない。吟味し、テクストに密着し、いわば、熱心に、夢中になって読み、テクストの各箇所で、言語活動―――逸話でなく―――を断ち切る連辞省略を捉える。この読み方を魅するのは(論理の)発展でも、真理をむしろとることでもなく、意味形成性の薄片だ。熱い手遊び(マン・ショード)のように、興奮は進行を急ぐことから生じるのではなく、いわば、垂直の大騒ぎ(言語活動とそれの破壊の垂直性)から生じるのである。
だが、バルトを読むとわかるように、「<高校生の夢>、あるいは、ストーリーの結末をしりたいという<ロマネスクな満足>」の文にある「あるいは」は「or」であるはずだ。
ところが、松岡正剛氏は、<高校生の夢>と<ロマネスクの夢>を対置し、高校生の夢=水平的、ロマネスクの夢=垂直的、としている。一読して奇妙だったので、比較してみたわけだ。
明らかに誤読である。ロラン・バルトのテクストを、「高校生なみ」に読んでいる。
ネット上の、特に多くの本を書評している人は、このような初歩的な誤読の記述で氾濫している。名高い書評家松岡氏でさえ、かくの如し。
…………
※追記:仄めかしだけの嘲弄ではまずいのなら、こうやってつけ加えておくよ。冒頭の話はジジェクのまなざし論の基本中の基本。あれが分からないのであれば、幻想(ファンタジー)の構造も分からないということ。
◆Conversations with Zizek(Slavoj Zizek and Glyn Daly)より私意訳(「きみは軀のどの部分をもっとも熱心に使うんだい?」より)
※追記:仄めかしだけの嘲弄ではまずいのなら、こうやってつけ加えておくよ。冒頭の話はジジェクのまなざし論の基本中の基本。あれが分からないのであれば、幻想(ファンタジー)の構造も分からないということ。
◆Conversations with Zizek(Slavoj Zizek and Glyn Daly)より私意訳(「きみは軀のどの部分をもっとも熱心に使うんだい?」より)
究極のファンタジーの対象は、まなざし自体だね。そして私は思うんだが、これは政治に当てはまるだけでなく、セックスも同じだね。ひとは、どうやってポルノは可能かという基本的な問いをいつもなすべきだな。精神分析の物議をかもす答は、セックスとしてのセックスはいつもすでにポルノだからだというものだ。私が愛人、あるいは愛人たちといっしょにいるとき、ーー強調しておくよ、複数形を。というのは二項ロジックとして非難されないためにねーー私はいつも第三のまなざしを想像しているんだな。つまり私は誰かのためにヤッテいるんだ。こういえるかもしれない、ここに恥の基本的な構造がある、と。きみがヤルことに没頭してるとき、いつも魅惑/怖れがあるんだな、〈大他者〉の眼にはどうみえるかというね。
私たちの最も内密の行動でさえ、いつも潜在的なヴァーチャルのまなざしのために行動してるのだよ。だからこの構造、すなわち誰かが私を観察しているという考えに取りつかれた構造ね、これはいつもセクシャリティ自体に刻みこまれてるんだな。ファンタジーとはヤッテいるのを観察している〈他者たち〉という考えにそれほどかかわるわけではなくて、むしろ逆だね。最も基本的なファンタジーの構造というのは私がヤッテいるとき、誰かが私を観察しているのを幻想しているfantasizeことだな。