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旅をするとは、何かを言うためにどこかに出かけて行き、また何かを述べるために帰ってくることにほかならない。行ったきり帰ってこないか、向こうに小屋でも建てて住むのであれば話しは別ですけどね。だから、私はとても旅をしようという気になれない。生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけなければならないのです。トインビーの一文に感銘を受けたことがあります。『放浪の民とは、動かない人たちのことである。旅立つことを拒むからこそ、彼らは放浪の民になるのだ』というのがそれです。(ドゥルーズ「哲学について」『記号と事件』)
このドゥルーズの《私はとても旅をしようという気になれない》などというものは、プルーストのヴァリエーションにすぎない、《動きすぎないようにこころがけなければならない》というのも同じく。もちろん、ひとがそれを勝手に「誤読」するのは自由である、--と書けば言い過ぎか?
ここにある二項対立、観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛、会話/沈黙した解釈などが、「動きすぎれば」前者となってしまうということだ。それは積極的意志/無意志的なものの二項対立でもある。ようするにこれらは、《ふと何ごとかが起こりそうな気配を察知し、到来すべき「シーニュ」の予兆に身をまかせ》ること(蓮實重彦)にかかわる。「ギリシア人になる」とは、前者を捨てて、後者を取ることだ(「ギリシャ人を装うこと」)。
哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的である。
「見出された時」の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なものに固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である。ヴィクトル・ユゴーは、初期の詩の中で哲学を形成している。なぜならば彼は、《自然のように、思考させることで満足するのではなく、また、みずから思考している》からである。しかしユゴーは、本質的なものは、思考の外側、思考を強制するものの中にあると教える。「見出された時」のライトモチーフは、forcer〔強制する〕ということばである。たとえば、われわれに見ることを強制する印象とか、われわれに解釈を強制する出会いとか、われわれに思考を強制する表現、などである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「結論 思考のイマージュ」より p196)
強制するについては、次のように引用することもできる。
真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらく創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密の圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』p199)
『失われた時を求めて』は、一連の対立の上に築かれている。プルーストは、観察には感受性を対立させ、哲学には思考を、反省には翻訳を対立させる。知性が先にたち、《全体的な魂》というフィクションの中に集中させるような、われわれのすべての能力全体の、論理的な、あるいは、連帯的な使用に対して、われわれがすべての能力を決して一時には用いず、知性は常にあとからくることを示すような、非論理的で、分断されたわれわれの能力がある。また、友情には恋愛が、会話には沈黙した解釈が、ギリシア的な同性愛には、ユダヤ的なもの、呪われたものが、ことばには名が、明白な意味作用には、中に包まれたシーニュと、巻き込まれた意味が対立する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチ・ロゴスと文学機械」の章 P118)
ここにある二項対立、観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛、会話/沈黙した解釈などが、「動きすぎれば」前者となってしまうということだ。それは積極的意志/無意志的なものの二項対立でもある。ようするにこれらは、《ふと何ごとかが起こりそうな気配を察知し、到来すべき「シーニュ」の予兆に身をまかせ》ること(蓮實重彦)にかかわる。「ギリシア人になる」とは、前者を捨てて、後者を取ることだ(「ギリシャ人を装うこと」)。
……自分を煽りたてていた構造主義的な熱病にすっかりいやけがさして『テクストの快楽』や『恋愛のディスクール・断章』に逃れたなどといってみても、事情は変わらない。快楽も、愛も、好奇心から生まれるものでないという点が重要なのだ。好奇心とは、好奇心とは、特権的な感覚器官を粗雑なままに特権化し、主体を拡散と断片化の力学にさからわせようとする、知性の、独断的で退屈な拒絶の儀式にほかならない。ことによると、それは、無自覚なまま先取りされた死の実践であるかもしれぬ。自分に対しても、他者に対しても、いたわりを欠いた振舞いであるが故に、それは独断的なのだ。好奇心とは別の文脈に生きること。中庸の記号たるバルトの真の美しさは、そうした願望を、決定的な実現へと導くことなく、退屈と倦怠のよるべなさと戯れさせた点にある。それが彼自身の生の倫理だ。(蓮實重彦 「倦怠する彼自身のいたわり」)
この文でさえ、プルーストの変奏として、あるいはまた「動きすぎてはいけない」の変奏として読むことができる。好奇心の次元とは、上記の二項対立、「積極的意志/無意志的なもの」などの前者に属するのはいうまでもない。退屈と倦怠のよるべなさとは、ロラン・バルトの「動きすぎてはいけない」だ。
というわけでプルーストを引用しよう。
単なる過去の一瞬、それだけのものであろうか? はるかにそれ以上のものであるだろう、おそらくは。過去にも、そして同時に現在にも共通であって、その二者よりもさらにはるかに本質的な何物かである。これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官であった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実にぴったりと適合することができなかったからなのであった。ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらした霊妙なトリックによって、よわまり、中断し、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、同時に、一つの感覚をーーフォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々をーー鏡面反射させたのであった。そのために、過去のなかで、私の想像力は、その感覚を十分に味わうことができたのだし、同時に現在のなかで、物の音、リネンの感触等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだん想像力からその夢をうばいさる実在の観念を、そのままつけくわえたのであって、そうした巧妙な逃道のおかげで、私の感覚の有効な発動は、私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないものーーきらりとひらめく一瞬の持続、純粋状態にあるわずかな時間――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。あのような幸福の身ぶるいでもって、皿にふれるスプーンと車輪をたたくハンマーとに同時に共通な音を私がきいたとき、またゲルマントの中庭の敷石とサン・マルコの洗礼堂との足場の不揃いに同時に共通なもの、その他に気づいたとき、私のなかにふたたび生まれた存在は、事物のエッセンスからしか自分の糧をとらず、事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質、自分の悦楽を見出さないのである。私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらさえない現在を観察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまち活力を失ってしまうのだ。意志でもって築きあげられる未来とは、意志が、現在と過去との断片から築きあげる未来で、おまけに意志は、そんな場合、現在と過去とのなかから、自分できめてかかった実用的な目的、人間の偏狭な目的にかなうものだけしか保存しないで、現在と過去とのなかの現実性を骨ぬきにしてしまうのである。ところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現時ではなく現実的であり、抽象的ではなく観念的である二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまりにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそとに存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう?(プルースト「見出された時」P324-326 井上究一郎訳 文庫)
これだけではピンとこないかもしれないので、次ぎの文をもつけ加えておこう。
――私は、ヴェネチアの、とりわけ私には春の、水路めぐりに行くことは、季節の関係で、むりだとしても、すくなくともバルベックにふたたび行ってみたい、という誘惑に駆られはした。しかし私は、そうした考に、一瞬間とはとどまれなかった。それは私がつぎのことを知っていたからだ、――土地はその名が私に描きだすようなものではもはやなく、またある土地が、人に見られ人にふれられる共通のものから判然と区別された純物質でつくられて、私のまえに横たわるのは、いまはもう私が眠っている夢のなかでしかないし、人々に共通のそのようなものも、純物質でつくられていたのは、私がそれらを想像に描いているときのことでしかなかった、ということを。そして単にそれだけではなく、さらに、土地の名が描きだすものとは別種の映像、回想の映像に関しても、私はつぎのことを知っていたからだ、――バルベックの美は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。またしてもまんまとだまされたくはなかった、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。それゆえ私は、無益におわると長いまえから私にわかっている手にのって、また一つよけいな経験を試みようとはしなかった。私が固定させようとつとめているいくつかの印象は、その場の接触でじかにたのしもうとすると、消えうせるばかりであり、直接のたのしみからそれらの印象を生まれさせることができたためしはなかった。それらの印象を、よりよく味わうただ一つの方法は、それらが見出される場所、すなわち私自身のなかで、もっと完全にそれらを知る努力をすること、それらをその深い底の底まであきらかにするように努力することだった。これまで私は、バルベックにいることの快感をその場では知ることができず、アルベルチーヌと同棲することの快感をそのときには知ることができなかった、快感は事後でなくては私に感知されなかったのであった。ところで、これまで生きてきたかぎりにおける私の人生の失望は、私に、人生の現実は行動にあるのではなくてもっとほかのところにあるにちがいないと思わせたのだが、そんな失望をいま私が要約するとなれば、それぞれちがった落胆を、単なる偶然のなりゆきでむすびつけたり、私の生存の状況にしたがって関連づけたりするわけには行かなかった。私がはっきり感じたのは、旅行の失望も、恋の失望も、別段ちがった失望ではなくて、おなじ失望の異なる相であり、われわれが肉体的な享楽や実際的な行動で自力を十分に発揮できなかったときのその無力感が、旅行とか恋とかいう事柄にしたがって、そういう異なる相を呈する、ということだった。そして、あるいはスプーンの音、あるいはマドレーヌの味から生じた、あの超時間的なよろこびをふたたび考えながら、私は自分にいうのだった、「これであったのか、ソナタの小楽節がスワンにさしだしたあの幸福は? スワンはこの幸福をあやまって恋の快感に同化し、この幸福を芸術的創造のなかに見出すすべを知らなかったのであった。この幸福はまた、小楽節よりもいっそう超地上的なものとして、あの七重奏曲の赤い神秘な呼びかけが私に予感させた幸福でもあった。スワンはあの七重奏曲を知ることができないで死んだ、自分たちのために定められている真実が啓示される日を待たずに死んだ多くの人たちとおなじように。といっても、その真実は彼には役立つことができなかっただろう、なぜならあの楽節は、なるほどある呼びかけを象徴することはできたが、新しい力を創造する、そして作家ではなかったスワンを作家にする、ということはできなかったから(同P331-334)
この文のヴァリエーションとして中井久夫もこう書いている。
時々さういふことがある。その人にとって重要な意味を持ってゐるかに見える場所へ行ってゐないといふことである。その理由はさまざまである。
たとへばフランスの詩人ポール・ヴァレリーであるが、ギリシャと結び付けられること多く、実際、ギリシャの建築家の登場する対話編『エウパリノス』、ギリシャ建築を讃えた詩「円柱の歌」デルフォイの巫女に仮託した狂気の詩「巫女」などを書いたこの詩人はつひにギリシャの土を踏んでいない。
私はある時そのことを知って、いささか意外であった。
彼が何度も足を運んでゐるのは英国である。実際、二十歳の精神的危機以後の重要な人格形成と再編成は二十四歳までの二回に及ぶ英国滞在中になされた。二十八歳の彼が選んだ新婚旅行先はオランダである。後年の講演旅行先も、ジュネーヴ、ブタペスト、ストックホルム、そしてまた、何度も英国である。そして彼は語らないが、英詩に詳しい。
南仏出身のヴァレリーには実は強い北方指向性がある。他方、北方出身の親友ジッドには青年時代のホメロス味読があり、北アフリカが個人的にも文学作品でも重要な位置を占めてゐる。ジッドの第一作『アンドレ・ワルテルの手記』に恋人と二人でホメロスを読む段があるが、あれほど共感的にホメロスが読めるのは若い私には驚異であった。
ヴァレリーには「ギリシャに行かざるの弁」を述べてゐないやうだが、『源氏物語』の有名な英訳者アーサー・ウェーリーは、明治・大正の日本に何度も招かれながら、つひに招待を断り通した。彼は「私の行きたいのは王朝時代の日本であって今の日本ではない」と答へつづけた。私には彼の気持ちがわかる。現代ギリシャ詩を量だけは相当翻訳してゐる私も、実はギリシャに行ったことがない。私の現代ギリシャは詩が呼び覚ます想像の土地である。その想像がギリシャ詩の翻訳を生む腐葉土になってゐる。この非在の肥料によって閉じられた円環が私の翻訳を成り立たせてゐる。ヴァレリーもである。私と彼との縁は十代に始まる。三十二歳で始めた精神医学より遥かに古い。偶然がリルケの独訳からヴァレリーの詩に私を導いた。邦訳の入手は遥かに後であり、実はさほど読み込んでゐない。この偶然が私を長くヴァレリーに繋ぎとめたのかもしれない。
だが、私はヴァレリーの誕生の地であり「海辺の墓地」のあるセットには行ってゐない。いかうとすると何か故障が起こる。ほんたうに私はセットに行きたいのだろうか。自問すると答へは曖昧である。錯覚であるが、もう行ったやうな気もする。
ある時、「ああ、さうか」と思った。フランス留学中であった若い精神科医9.白川美也子から1946年版のヴァレリー画集を贈られた。敗戦直後の出版であり、珍しい資料だということで一部をみすず版の『若きパルク/魅惑』(1995年)に掲載した。
しかし、私はひそかな失望を味はっていた。詩人描くところの『若きパルク』の挿絵、とりわけ最後の、パルクが朝の太陽を迎へる絵である。私は、ずんぐりした女性が森の間から花束を小さく色薄い太陽に向かって振ってほしくなどなかった。私が原詩から得てゐたものは、はるかに絢爛、はるかに多重、はるかに多声、はるかにリアルであった。私は、長き欲望の地をつひに踏んだ時にしばしば起こる「興ざめ性」と同じものをしたたかに味はった。
アーサー・ウェイリーの日本非訪問は、この「興ざめ性回避」に違ひない。ヴァレリーがギリシャを訪れないのにも、それがあったらう。(「「その地」を訪れざるの記」『関与と観察』中井久夫)