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2014年11月4日火曜日

経済学における「差異と反復」派と実体派(マザコン派)

「金融は実体経済を映す鏡。金融に変化を求めるのなら、社会や実体経済も大きく変わらなければいけない」(金融が映す「リスクとらぬ社会」  (飛躍の条件(1) 池尾和人 慶大教授に聞く 2013/10/23
これは間違っていないか。実体経済は二の次で、期待インフレ率を維持することが最優先というのは、どんな経済学からも、実務の立場からも出てこないはずだ。つまり、彼は実体経済をわかっていないか、重要度が低いと思っているのだ。昨日の記者会見からの結論だ。(「黒田総裁は天才かつ秀才だが、間違っている」 小幡績 2014年11月01日)

二人とも慶応大学の教師である。アベノミクスにやや距離を置いた、おそらく反リフレ派と呼んでよい経済学者たちだろう。


ところで、かねてよりアベノミクスに好意をもって見守る経済学者岩井克人には、最近もまた、期待は経済の本質」2014/10/25とのインタヴュー記事がある(わたくしはこの会員限定記事の中身を読んでいないが)。「最近もまた」としたのは、一年半ほどまえにも次のような記事を読んだことがあるからだ。

――アベノミクスでも期待に働きかけることが注目されています。お金の価値を下げることを意味するインフレは、緩やかな限り「よいこと」とされている意味とは? 

「資本主義とは、お金があるがアイデアはない人が、アイデアはあるがお金がない人にお金を貸すことによって、アイデアを現実化していくシステムです。デフレの時は、お金を持っているだけで得する。人々はお金それ自体に投機し、貸し渋りが起こった。インフレの期待は、人々をお金それ自体への投機から、アイデアに対する投機、さらにはモノに対する投資に向かわせるのです」

 「そういう意味で『期待』によって、お金がお金になるだけではなく、経済そのものに大きな影響を与える。経済政策を巡って『期待だけで実体が伴っていない』と言われますが貨幣を伴う経済にとって、期待とは本質そのものとすら言えます」(期待が根拠、それがお金 経済学者の岩井・東大名誉教授」 2013年05月07日)


このあたりは冒頭の実体経済派とは相反する見解のように思える。とくに小幡績氏は、《実体経済は二の次で、期待インフレ率を維持することが最優先というのは、どんな経済学からも、実務の立場からも出てこないはずだ》としているが、「どんな経済学からも」云々とは、わたくしの乏しい知識からしても齟齬がある表現である。そして岩井克人の見解では、日銀の黒田東彦総裁は、まったく間違っていない。





アベノミクスは、トービン型のケインズ経済学において教科書どおりの政策である。つまり、「三本の矢」の1本目「大胆な金融緩和」でインフレターゲットを設定することでインフレ期待を高め、名目的な資産(貨幣、債券)の価値を目減りさせ、実体的な資産(株式、不動産)へと人びとの選好を移していく。それが資産価格の上昇を招き、消費にプラスに作用する。実際、すでに高額商品の消費が高水準で推移し始めている。

 同時に、株価の上昇は、企業の設備投資への意欲を刺激し、それによってGDPが引き上げられる。もちろん「成長戦略」どおり、企業投資が持続的に上昇していくかは、日本企業の革新力に依存する。だが、これまでの日銀がデフレを放置し、「失われた20年」を招いたことを考えれば、黒田総裁の方針転換によって日本経済が新たな局面に入ったことは間違いない。

 この好循環に冷や水を浴びせるものがあるとすれば、それは長期金利の早すぎる上昇(債券価格の下落)である。好況の結果としての金利上昇は「よい」上昇であるが、財政破綻のリスクで上昇するのは「悪い」上昇である。それは成長戦略に大きなマイナスになってしまう。(アメリカがアベノミクスに味方する理由〔2〕 - 岩井克人(国際基督教大学客員教授  2014年02月14日)

ところで岩井克人の「期待は経済の本質」という考え方は、まずは上にもあるようにケインズ系譜である。

人が貨幣を受け取るのは、他人がそれを貨幣として受け取ると予想しているからであるが、他の人がなぜ貨幣を受け取るかというと、やはりモノとして使うためではなく、誰か他の人が貨幣として受け取ると予想しているからである。皆が貨幣を貨幣として受け取るのは、結局、皆が貨幣として受け取ると予想しているからにすぎない。ここにあるのは、ケインズの美人投票と同じ自己循環論法であり、しかももっとも純粋な自己循環論法なのである。(ケインズの「美人投票」理論  岩井克人

さらには、マルクスの価値形態論が真の起源でもある。

……『資本論』の読み手の多くは、ここに循環論法のにおいを嗅ぎつける。労働価値論を前提として商品世界の貨幣形態をみちびきだし、商品世界の貨幣形態をとおして労働価値論を実証するという循環論法である。たしかに、過去の何人ものひとが、なんとかこの循環論法をつかわずに価値形態論を再構成することをこころみてきた。だが、護教的なマルクス主義者をのぞく大多数の読み手は、この循環論法に絶望して、労働価値説も価値形態論も捨てさってしまったのである。

しかしながら、「循環論法」それ自体はかならずしも絶望すべきものではない。いや、これからわたしが示していこうとおもうのは、「貨幣形態」にもし「秘密」があるとしたら、それはこの貨幣形態を固有の価値形態とする商品世界がまさに「循環論法」によって存立する構造をしているということなのである。それは同時に、貨幣という存在が、商品世界におけるまさに「生きられた循環論法」にほかならないということを示すことにもなるのである。(岩井克人『貨幣論』)

名著『貨幣論』が書かれる直前の柄谷行人との対談では次のような発言がある。

資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。(『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)

透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件なのであり、つまり価値法則の自己完結性が破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件という考え方である。もし「同じ状態のままで」いたら、すなわち内的均衡を達成してしまったら、資本は運動しなくなる。

これらのことをめぐって、資本主義的生産過程駆動する「原因」である剰余価値と、ラカンの欲望の対象-原因である剰余享楽(対象a)が相同的である、とラカン派によって説明される。ラカンは、マルクスの剰余価値概念をもとにして剰余享楽なる概念をつくりあげたのはよく知られている。


ここでアランの《幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ》を変奏させてこういってみよう。

ーー実体経済がよいからカネが回るのではない。カネが回るから実体経済がよくなるのだ、と。

いや、さらにこう引用してもよい。

反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。

(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

ーーカネが回るなかでこそ実体経済が形成されるのである、としておこう。

他方、実体経済派は、母という実体、最初の項を信じるタイプであり、別称マザコン派と呼ぶことにする。

冗談はさておき、そしてわたくしにはどちらの派が「正しい」かとするほども経済学に詳しくはないのだが、この互いに相反する派両方とも、国債価格の下落を怖れている点では意見の一致を見ている。

ここで岩井克人の上の文から再掲しておこう、《この好循環に冷や水を浴びせるものがあるとすれば、それは長期金利の早すぎる上昇(債券価格の下落)である。》と。

この債券価格の下落については、黒田日銀が経済成長率が2%を達成したときに、いや場合によってはその前にも、もっとも懸念されることなのは、「アベノミクスによる税収増と国債利払い増」などで見た。


…………

附記:


マルクスが価値形態論を完成させたと考えた光りまばゆい貨幣形態の姿では、商品の価値形態はけっして完成していないことを知るはずである。まさに価値形態論の構造じたいが、みずからの完成を拒み、みずからに無限のくりかえしを強いることになるのである。そして、価値形態論のこの無限のくりかえしの極限において、われわれは黄金色の輝きを失い、商品の世界のなかにあって商品よりもはるかにみすぼらしい姿になった貨幣形態をみいだすことになるだろう。だが、そのみすぼらしい姿にこそ本来の意味での「貨幣の謎」が隠されているはずである。(岩井克人『貨幣論』)

ここで岩井克人が「無限のくりかえし」とするのは、「資本の論理」、ーー《資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです》に関係し、資本の論理の構造自体が無限のくりかえしを強いるという意味である。ジジェクや柄谷行人ならそれを「資本の欲動」といい、剰余享楽=<対象a>をめぐる反復運動という言い方もされる。

マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である、この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。(柄谷行人『トランスクリティーク』)


…………

※追記:マザコン派って書いたけど、マザコンでなんでわるいのかっていう議論もあるからな。岩井克人やらドゥルーズを信じすぎちゃあいけない。たとえばジジェクだってこうやって引用しておくけど、疑いをもって読まなくちゃな。

……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』(私意訳)ーー二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」

生きていくには「実体派」だっていいさ
ただしマザコン谷川俊太郎も「そうとう年を取ってから」
なんたらに気づいたっていってんな。


ぼくは、ひとりっ子で、
すごい母親っ子だったんです。
母親はけっこう厳しかったんだけど、
わりと、父親が家庭をかえりみないで
ずっと外にいる人だったから、
その代わりにぼくを可愛がったような
ところがありました。
そのせいでぼくは、
すごくマザコンだったんですよ。
自分ではそんなこと自覚してなかったんだけど
恋愛というものがいつでも
自分の母親の願望に
すごく染められていた、というか。
だから「いったん好きになったら一生もんだ」
みたいな発想があったんです。
それを、ぼくはいいことだと思ってたわけ。
俺はもう、一婦一夫制を狂信的に信じている、と。
一婦一夫制を守るためだったら浮気はおろか、
もう離婚も辞さないって(笑)、
公言してたわけです。
自分がひとりの女にずっと誠実でいる。
実際にぼく、そういう行動をしてたんだけど、
でもそれがだんだん、
「何、これって? 母親とひとり息子の
 関係の再生産じゃないの?」
と思うようになったのね。
母親を求めることは意識下の欲求だから、
最初は思うだけで、
そこから自由じゃなかった。
だけど、そうとう年取ってから、やっと、
マザー・コンプレックスの気持ちじゃなくて、
相手の女性を対等に見られるようになったことが
いちばんマシになったところなんですよ、自分では。(谷川俊太郎×糸井重里