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2014年11月5日水曜日

母さんのペニス(充実した社会保障制度)を信じるフェティシスト「左翼」たち

さあこれで「経済」やら「財政」の話はやめにすることにする。わたくしはこれにていささか慣れない肩の荷はおろすことにする。最後にいくらかの残りモノの資料をここに片付けておくことにする。


…………






ーーなどという図表に行き当って、高齢化比率、日本はイタリアやスペインに追い抜かれるのかと、不思議に思えば、データが2000年となっており、かなり古い。

不思議に思ったのは、以前、次の文をメモしたからだ。

少子高齢化が進展している日本が社会保障システムや政府財政の持続性に問題を抱え、制度疲労に対して喫緊の改革を迫られている点は周知の事実だが、中長期的にみると高齢化は日本に限った話ではなく、世界共通の課題である。ただ、国によってそのスピードが大きく異なることから、高齢化への取り組み方も変わってこよう。

国連の推計に基づくと、いずれの国の中位数年齢(年齢順に並べ、全人口を 2 等分する年齢)も年を経るにつれて上昇していく。例えば、2010 年時点の日本の中位数年齢は 44.7 歳であり、先進国平均の 39.7 歳を大きく上回り、ドイツ(44.3 歳)やイタリア(43.2歳)に近い。それが 2020 年には 48.2 歳、2050 年には 52.3 歳に上昇し、世界における超高齢社会のフロントランナーのポジションは譲らない。他方、高齢化の進展が相対的に遅いドイツやイタリアの場合、2050 年時点でも中位数年齢は 49 歳代にとどまる。(大和総研「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」2013)


次の図表は、いつのデータか分からないが、Taichi Onoという方が、JUNE 28, 2012に発表されており、こちらの方がたぶん新しいのだろう。このデータからすればやはり日本はフロントランナーを走り続ける。とはいえ、長期にわたる人口予測とは、その都度変わってゆくので、あまり信用しすぎてもいけないのが、この二つの図表からわかるだろう。





世界的にも、2050年頃には中国の高齢化が予想されているせいもあるだろうが、次のような具合だ。





こうやって21世紀の人間はしだいに老いてゆく、欧米先進諸国や東アジア諸国はことさら。とすれば、20世紀後半に作られた制度で21世紀はやってゆけるはずはない。たとえば、社会保障制度など、少子高齢化のなかで、以前と同じように継続できるはずはないのだ。




そもそも1.2人の労働人口でどうやって1人の高齢者を支えることができるというのか。いまはまだ20世紀の社会保障制度の残照が残っているにすぎない。伝染病が流行して高齢者の半分ぐらいが消滅してしまえば別だが。とはいえ、ひとは、数において戦死者を凌駕する死者を出した大戦末期のインフルエンザ大流行の再来を願うわけにもいかない。

けれどもこれは意外に忘れられているのではないか。北欧諸国やドイツ、フランスなどの社会保障制度の充実ぶりを羨んで、われわれもあれを目指さなくては、などという幻想をいまだ抱いてはいないか。もちろん個別には、実際に日本も導入すべき西欧諸国の福祉制度もるだろう。だが大きく言えば、たまたま日本が少子高齢化トップランナーであるせいで、以前の制度の維持がまっさきに困難になってきているのであって、いま羨望をもって見られる西欧諸国でさえ、近い将来、社会保障費の維持にいっそう苦しみだすのではないだろうか。

たとえば年金支給開始年齢を引き上げることは世界の潮流であるのに(米国は 2027 年までに 67 歳へ、英国は 2046 年までかけて 68 歳へ、ドイツは2029 年までに 67 歳へ引き上げる予定)、日本はいまだ悠長に1985 年の改正の原則65 歳支給を、そこから約半世紀もかけて 65 歳に引き上げるという驚くほどの呑気なプランのままだ。日本の長寿ぶりからすれば、70歳支給開始がとっくの昔に検討されてもよいはずなのに。

ーーまあそういう国さ
どんづまりになってからしかやらないからな
消費税導入もそうだし、移民政策やら少子化対策だってそうだぜ

そして高齢者や高齢者予備軍ばかりが多い選挙で、
年金受給年齢改正案が通るわけないしさ

オメデトウ! 働きざかりの現役層のみなさん

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」)


いずれにせよ、日本は幸か不幸か、現在の時点では、高齢化社会ダントツナンバーワンの国であるのは紛れもない事実である。20世紀後半のある時期にはうまく運用されているかにみえた社会保障制度がーー「世界で最も成功した社会主義国」などと呼ばれたこともある80年代の日本だったーー、現在の状況に変貌した今後、いままでどおりに継続できるはずはない。

それにもかかわらず、現在の社会保障制度のいっそうの充実が、日本でもいまだありうるという幻想のもとに発言している人が多すぎるのではないかい? くり返せば、個別の改善はありうるだろうが、全体としては、今後大きく社会保障給付金の削減をしていなくてはならないのは明らかなのに、いまだ「倒錯的フェティシスト」として振舞っている人びとが多すぎる。

ラカンの弟子オクターヴ・マノーニに古典的論文『よく知っているが、それでも……』がある。

「よくわかっている、しかし、それでも……」というこの主張の形式は、「それでも……」以下に語られる無意識的信念へのリビドーの備給を示すフェティシズムの定式である(「母さんにペニスがないことは知っている、しかしそれでも……[母さんにはペニスがあると信じている]」)(田中純「暗号的民主主義──ジェファソンの遺産 」

この「よく知っているが、それでも……」は、たとえばジジェクによって次のように変奏される。

態はきわめて深刻であり、自分たちの生存そのものがかかっているのだということを「よく知っているが、それでも……」、心からそれを信じているわけでは ない。それは私の象徴的宇宙に組み込む心構えはできていない。だから私は、生態危機が私の日常生活に永続的な影響を及ぼさないかのように振舞い続ける。(ジジェク『斜めから見る』)

ここでくどくなるのを怖れずにさらに変奏させれば、「社会保養制度は危機に瀕しているのをよく知っているが、それでも……」、心からそれを信じていない。母さんのペニス(充実した社会保障制度)がありうると信じている。そうやって現行の社会保障制度の危機が彼らの日常生活に影響を及ぼさないように振舞い発言しているのが、「左翼」やら「リベラル」と呼ばれる倒錯的フェティシストたちである。そうでなかったら、たとえば、どうして生活保護のいっそうの充実、高齢者福祉の維持を叫びつつ、消費税増反対などと言い放つことができよう。

彼らはあたかもトムとジェリーの猫のようでもある。あのような幻想に耽っていては二度死ぬことになる。すなわち将来ありうるべき「中福祉・高負担」の社会保障制度さえ死んでしまう。

猫が、前方に断崖があるのも知らず、必死にネズミを追いかけている。ところが、足元の大地が消え去った後もなお、猫は落下せずにネズミを追いかけ続ける。猫が下を見て、自分が空中に浮かんでいることを見た瞬間、猫は落ちる。(……)

エルバ島におけるナポレオン(……)。歴史的には彼はすでに死んでいた(すなわち彼の出る幕は閉じ、彼の役割は終わっていた)が、自分の死に気づいていないことによって彼はまだ生きていた(まだ歴史の舞台から降りていなかった)。だからこそ彼はワーテルローで再び敗北し、「二度死ぬ」はめになったのである。

ある種の国家あるいはイデオロギー装置に関して、われわれはしばしばそれと同じような感じを抱く。すなわち、それらは明らかに時代錯誤的であるのに、そのことを知らないためにしぶとく生き残る。誰かが、この不愉快な事実をそれらに思い出させるという無礼な義務を引き受けなくてはならないのだ。 (ジジェク『斜めから見る』p89-90)

中井久夫は、フランシス・フクヤマの「歴史の終焉」ではなく、《歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた》とさえ言っている(参照:二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)。本来は少子高齢化社会の先進国日本は、あたらしい福祉モデルの提案に先鞭をつけるべきなのに、そんな気配は微塵もないところが、低位の高齢化諸国の施策の後塵を拝する、いやそれどころか、彼らのやっていることーーたとえば上にあげた年金支給年齢引き上げーーなど日本ではすぐさま実現できるわけはないと苦笑を浮かべるのみであるかのようなのが、あいもかわらずの日本らしいぜ。

これくらいの法案、半日で作れるだろ、選挙を怖れなければだがね

■ アメリカの年金の受給開始年齢

アメリカの老齢年金の受給開始年齢は、生年月日に応じて65 歳から徐々に引上げられ、1960 年以降に生まれた人は67 歳となります。また、受給開始年齢を62 歳まで繰上げすることも可能ですが、支給される年金額は生涯にわたって減額されます。

なお、生まれた年ごとの老齢年金の受給開始年齢、及び、老齢年金を62 歳まで繰り上げて受けた場合の減額率は、以下の通りです。

アメリカの年金開始年齢 PDF


ーーで、やっぱりあきらめたほうがいいんじゃないか、という心持をもつ経済学者もいるわけだ。たとえば、『「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会』のメンバーのエライ学者先生とかが、《「日本の財政は破綻する」などと言っている悠長な状況ではない?》ーーとするのはその口だろう。

次のような提案などだれも聞く耳もたないさ。

「日本は中福祉・中負担が可能だというのは幻想」とする大和総研の「超高齢日本の 30 年展望 持続可能な社会保障システムを目指し挑戦する日本―未来への責任」(理事長 武藤敏郎 監修 調査本部)における過激なシミュレーションーーおそらく今まで提出された最も厳しい社会保障費削減案ーーなんてね。

高齢化先進国の日本の場合、老年人口指数で言えば、既に 2010 年時点で 100 人の現役世代が 35 人の高齢者を支えており、2020 年には 48 人、2050 年には 70 人を支える必要があると予想される(いずれも国連推計であり、社人研推計ではより厳しい)
賃金対比でみた給付水準 (=所得代替率) は、 現役世代と引退世代の格差―老若格差―と言い換えることが可能である。この老若格差をどうコントロールするかが、社会保障給付をどれだけ減らすか(あるいは増やすか)ということの意味と言ってよい。少子高齢化の傾向がこのまま続けば、いずれは就業者ほぼ 1 人で高齢者を 1 人、つまりマンツーマンで 65 歳以上人口を支えなければならなくなる。これまで 15~64 歳の生産年齢人口何人で 65 歳以上人口を支えてきたかといえば、1970 年頃は 9 人程度、90 年頃は 4 人程度、現在は 2 人程度である。医療や年金の給付が拡充され、1973 年は「福祉元年」といわれた。現行制度の基本的な発想は 9 人程度で高齢者を支えていた時代に作られたものであることを改めて踏まえるべきだ。

以下、より詳しくは、「われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれない」の後半を見よ。